第34話
「ちょっと早いけど、お店閉めちゃおうか。村瀬君もシンちゃんも、いいよね」
その白井さんが楽しげにそう告げた。
見れば、既にロングサロンを脱いでいる。俺や一美に聞くまでもなく閉店する心算なのは明白である。
「そうですね。お客様もいらっしゃいませんし、クリスマスパーティーの用意、しちゃいましょう」
便乗して一美もサロンを外し、和かに目尻を下げた。絵画に描かれた天使のように可憐である。客がいないとはいえ少々浮かれ過ぎている気がしなくもないが、その愛らしさに抗う術を俺は持たず、なによりオーナーである白井さんが店を閉めると言っているのだから俺が口を挟む余地はない。
「じゃあ、村瀬くん。看板下げてきてもらっていいかな」
「はい。分かりました」
指示の通り看板を片付けるようと外に出る。すると、街は暗く、街灯が寂しく光る風景に、少しだけ潤とした大気に包まれている。見上げれば星の輝きを遮る厚い雲。積雪の気配。ホワイトクリスマスの予兆。それを裏付けるように冷たい風が吹き、寒気が肺に満ちていく。
「ロマンチックな夜になりそうだ」
呟き思うは一美との情事である。彼女と共に過ごす床での聖夜に胸馳せれば、身を刺すような寒威も苦にはならなず、返って火照る身体が冷まされていき心地よい。
「ようやくだ。ようやくヤレるのだ」
流れる激情。声に出る剥き出しの我欲。だがまだ抑えねばなるまい。夜はまだ長い。灼熱の夜まで数時間。焦らされる思いだが、童貞を保有していた期間に比べれば実に寸時の事。瞬きする間ではないか。
「ヤる。ヤる。ヤる」
繰り返す欲望の言。手にしたA看板を一美の肉だと思い、優しく持ち上げる。硬く、角ばった木製の脚部分がいや官能的に感じ、下腹部が膨らむ。
「ヤりたい。ヤりたい。ヤりたい」
今日までの生涯においてそれが願いだった。それだけが望みだった。その願望がようやく叶う時が来たとなれば、これほどまでに昂ぶる事もないだろう。実に感無量の一言に尽きる。あと少し。もう幾らか堪えればその時が来る。俺は抑えがたい衝動を理性で縛り、勃起した逸物の位置を正して看板を店内へと引っ込めた。滾った血潮が、空調の熱を煩わしく感じさせた。
ヤりたい。ヤりたい。
一美の姿を捉えると頭の中にはそれしか浮かばなかった。男を隠し、締めの作業をするのは些か忍耐力が試されたが、どうやら
「それじゃ、一旦帰らせてもらいます」
「はい。お疲れ様。じゃあ、二十一時にまた集合で」
「お疲れ様です村瀬さん。待ってますね」
「はい。では、後ほど……」
閉店作業を終わらせ挨拶を交わすと、俺は当初の予定通り一時自室へ帰宅するためにチャリングクロスを後にした。再びの外。人の気配はない。扉を隔てて、俺は一人となった。
何をしようか。
帰り道を歩きながら空いた時間をどうしようかと悩む。別段予定があるわけでもないし、詰めるような都合もない。完全に浮いた状態である。やはり眠ってしまうのが手っ取り早いか。いや。それならギターを練習した方が……
どうしたものか……
考えがまとまらないまま自室へ到着してしまった。中に入ると暗い部屋に卓に万年床。その側に、買ったばかりのギターがあるだけ。悲願成就の日に斯様なしみったれた場所で過ごさなければならないのだろうかと、溜息。
「……出よう」
俺は土足のまま部屋へ踏み入り、ギターを掴んで先まで辿ってきた道を戻っていった。俺は孤独と寂寞の支配から逃げ、俺以外の人間の存在を望んだのだ。チャリングクロスでは白井さんと一美がパーティーの準備をしている。予定よりも早く顔を出すのは気恥ずかしいが、手伝いという名目があればそれも緩和されるだろう。
人が恋しかった。暗闇で一人蹲るのに、堪えきれなかった。
「一美に会いたい。一美に……」
発作のような焦燥に従い歩く。かつてこれほど一人を恐ろしく感じる事はなかった。長年の希望にようやく手が届くと思い、居ても立っても居られなくなってしまったのだろう。人間というものは、何もない状態には程度の抑圧が効くものだが、いざ求めていたものが近くにあると思うと、途端に気持ちの箍が外れ藁をも掴む思いで求めてしまうのだ。
「一美。一美」
漏れる愛しき君の名。いや、ヤりたい女の名だろうか。
……どちらでも構わないか。愛も性も同じではないか。どちらであっても相違ない。
足取り軽く、胸は踊り、燃え上がる情念が黒く渦を巻いている。突き動かすのは愛欲の律動。黙々と歩き、それ程間を置かずして舞い戻ってきたのは、先まで働いていたチャリングクロスである。
刺すような寒さの中で俺はただ一美を求めた。一美の肉体を求めた。それだけのために戻ってきたのだ。
玄関は閉まっている。窓にはロールカーテンが降ろされており中の様子は確認できない。先に店を閉めたばかりなのだから当然である。俺は裏手に回り、勝手口から店内へと入った。しばらく歩くと聞こえる声。白井さんと一美の会話。
しかし、それは通常ものではなかった。
もっと、艶めいた、色めき立った……
「……シンちゃん。やめよう。村瀬君が来るかもしれない」
「大丈夫ですよ。村瀬さんなら、ご帰宅したらお休みになるって。それに、見つかってもいいじゃないですか。あの人、きっと私の事好きなんですよ。いい迷惑じゃないですか。私は、白井さんとお付き合いしているんですから」
「しかし……」
「ねぇ……気持ちよくなりましょうよ、白井さん……私、ずっと一緒になりたかったんですよ……好きなんです。白井さん。白井さん……」
「……一美」
湿った吐息が聞こえる。それは、互いの唇を唇で蓋をして吐き出される、潤とした息遣い……
なんだ。なんだこれは。なんだこれはいったい……
なんだも何もない。これは逢引である。俺ではない、一美と、白井さんの……
「……ねぇ、好き。好きよ。貴方、抱いて。いつもみたいに……」
「……」
「お願い。白井さん……」
「……」
「……して」
「一美……一美!」
着崩れる音が聞こえ、次第に、床が軋み始める。
俺は音を立てぬようゆっくりと廊下を戻り、外に出て、駆けた。
何も聞こえなくなった。血の流れが、心臓が止まったような気がした。
外は雪が降っていた。シンシンと、雪が降っていた。
肺に寒気が満ちていく。走っているのに、身体中が凍ってしまったように冷えていく。
それでも、俺は、あてもなく走り続けていった。買ったばかりの、ギターを担いで……
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