第33話

 低迷とした心気が尾を引く。

 それでも義務と責務に従じ給仕としての働きは果たした。業務中、何度か目眩を覚えいっそ帰ってしまおうかとも思ったが、お客様が少なかったのが幸いし何とか踏みとどまった。ただでさえクリスマスに茶をしばきにくるような人間の大半はろくでもないのだ。斯様な状態で異常者の相手などしたくはない。


 窓ガラスから落陽が見える午後の半ば。空中の効いた店内にはいる隙間風から夜の気配を感じ、じき訪れる暮れに嘆息を漏らす。勇んで臨むはずだったクリスマスパーティーでのギター披露が、今は辛い。




「今日楽しみですね。私、スコーン作ってきたんです。是非、召し上がってくださいね」


 社交辞令を述べる一美いちみの無垢な瞳が項垂れる俺を捉える。

 その両眼は、色も熱もなく、ただの無関係な人間を見る無感動な瞳。彼女にとって俺は皿やグラスと同等の存在であり、声を発するだけの無機物な存在としてしか見なされていないのではないかと落ち込む。


「どうかしましたか。元気がないようですけど」


 俺の落胆ぶりを案じたのか一美は顔を曇らせる。しかしその様子をもはや正直に受け止める事はできなきい。先まで白井さんを見て雌となっていた女の言葉など信に値しない。いや、信じられないのだ。


「いや、ちょっと、寝不足で……」



 とはいえ、そんな角しか立たぬ様な真実を述べたところでしようもなく。俺は彼女が納得するような、ありきたりな答えを提示するしかなかった。


「なるほど。最近、夜もお仕事していらっしゃいますもんね。クリスマスパーティー、大丈夫そうですか」


 努めて笑顔を作り「はい」と答える。正直、一美の態度は偽善の疑いがあり面白くはないのだが、一応気を配ってくれている素振りを見せているのだから、それを無碍にはできないだろう。


「昼の仕事が終わった少し仮眠しようと思っているので、夜には元気になっていると思います」


 適当に話しを合わせたのだが、実際にアルバイトが終わってから約三時間の暇があった。ギターを持ちにいって何もしないのも間が抜けているし、クリスマスに一人街を出歩く気にもなれない。寝るのが一番無難ではある。


「そうなんですか。それならよかった。カッコいいギター期待してます。よろしくお願いしますね」


「……はい」


 煽てられ悪い気はしなかった。だが白井さんのあのフライングVの演奏をに比べるとなると、俺が弾く安ギターなど、きっとちゃちなお遊戯みたくなってしまうだろう。それを自覚して、わざわざ見世物にならなければならないと思うと屈辱的な発汗を催し、沈む。



 白井さんはさまになっていたな。


 フライングVはハッタリじゃなかった。


 俺はあれを見せられて気を追わずにいられるのか。


 あれだけの格好をつけられるのか。


 無理だ。


 できない。


 ならばどうする。


 本当に俺はギターを弾いていいのか。



 段々と感情が淀んでいく。

 今宵、修練の果てに習得したHappy Christmasを必死に披露すれば、「下手くそ」と小馬鹿にされ、笑われるばかりで芸のない三流のピエロとして蔑されるのではないか。

 そんな中で俺は演奏できるのか。

 怖い。逃げたい。

 ややもすれば、二人は俺の失態を望んでいるかもしれないのではと不安となる。もしかすると、白井さんがわざわざギターを持ち出してきたのも……

 



 迫る猜疑心。疲弊。


 疑念を向けねばならぬのは白井さんばかりではない。今日、抱くぞ抱くぞと決めている一美においてもその心根に不信が募る。端的に述べれば、彼女は白井さんに愛を求めているのではないかという疑いがあるのだ。

 あり得ぬ話ではない。一美の白井さんを見る目は艶やかに濡れ煌めいている。俺には決して向けない、輝かぬ純黒の鏡眼を、白井さんだけに捧げているのだ。それの意味するところは……


 一美は相変わらず愛らしく美しい。女として不足はなく、男の胸を乱す。

 だがその美が自分以外の男の為に輝いていると思うと途端に憎らしく感じる。目をくり抜き鼻を削ぎ落とし口を縫い合わせ耳を引きちぎり、傷痕爛れる無残を与えたいという邪悪に駆られる。手に入らぬ宝石は妬みの対象でしかなく、破壊されなければ抱いた怨讐は潰えない。

 もし一美が本当に白井さんに恋をしているのであれば俺は自身の賤し心を収める事ができそうにない。ならばどうするか。手に入らない。ならば。ならば……


 物恨ものうらみによる求不徳苦ぐふとっく。人知れず燃える黒い炎。怨。怨。怨と、病的な妄執に焦げていく。



「村瀬さんって、付き合っている人とかいらっしゃらないんですか」


「……え」


 一人黙し呪怨の渦にに呑まれる中、一美から左様な言葉を受け固まる。


「いえ。とても頑張っていらして、いい人なので、一緒にいる方がいらっしゃるのであれば、その人は幸せだなと、ふと思ったんです」


 甘い色の吐息が吹いた。

 一美の瞳の色が違った。

 いつもの無邪気な、真っ直ぐな光彩ではなく、どこか憂いを帯びた、健気で、思慮深い、哀愁の様相。憧憬や嗟嘆ではなく、慈しみのある母性の眼差し。そしてその立ち姿は、アルバイト中に見た事のない、女の振る舞いであった。


「えっと、あの、その……」


 一美の急変に言葉を失う。突如として少女が大人へとなった。彼女を変貌せしめたのはいったい何であろうか……


 なるほど分かった。

 一美の心が、やっと理解できた。


 それは他でもない俺自身であろう。そうでなければ説明がつかない。なぜなら……


 そうだ。

 そうなのだ。

 一美は、ずっと、俺の事を……


 一美は俺の事を好いていたのだ。だからこそ、いつも楽しげに、爛漫だったのだ。白井さんへの振る舞いはあくまで媚びであり、愛念のない義理の親しみであったのだ。それに今、ようやく気がついたのだ。彼女はずっと俺を想い、側にいたのだ。そして今、覇気を失った俺を前にして、秘めていた淡い恋慕の情が花開いたのだ。そうだ。そうなのだ。一美は俺をあいしているのだ。絶対に、絶対にそうに違いないではないか!


「今はいませんが、幸せにしますよ。付き合ったらね」


 その言葉は暗に告白であった。

 お前を幸せにするという愛の証であった。


「まぁ。素敵です」


 俺は確信した。一美は俺を愛しているのだと。気を引くために、女の片鱗を出していると。



「今日、楽しみですね」


 俺は広角を上げてそう言った。「はい」と、笑う一美の姸容が、愛おしかった。

 

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