第32話

 昼夜問わずの仕事を続けた末にとうとう目下目標としていた金が溜まった。

 思っていたよりも入ってきた額が大きかったため想定していたよりも良いギターを買ってしまったが、それでも幾らか余った辺りに白井さんの温情が垣間見える(何度か色をつけておいたと報告された事がある)。ありがたい事だ。


 それにしてもギターの美しさよ。

 ペグから伸びた五弦がネックを通りブリッジへ差し込まれている様は差し詰め芯柱の剛健。それを取り巻く曲線のボディはバロック様式を思わせるスタイル。優美にして可憐。全体のカラーはホワイトの一色にて色彩。これがなんとも格式高い。


 このギターで弾くのがヒッピー代表のような、あのジョンレノンの曲というのだから堪らない。なんとも背徳的で、実にロックではないか。

 実は、来たるチャリングクロスでのクリスマスパーティーに向けて、揚羽あげはに「クリスマスらしい曲を演奏でしたら素敵じゃありませんか」と、Happy Christmas 習得の助力を頼んだのだった。(揚羽はダサいだのエレキで弾く曲じゃないだの薬物中毒者がキマりながら作った糞まみれの歌だのと散々言っていたが最終的には御教授いただけた)。

 来る日も来る日も繰り返す人間賛歌のフレーズを苦々しくも指導していただけたおかげで、ジョンブル眼鏡野郎のおめでたい曲目がもうすっかりと手に馴染み、感覚だけで弦を奏でられるようになったのだった。

 全ては完璧。自室に思い浮かべるは披露の場。響く旋律。敬愛の眼差し。共に床で絡ませる、互いの肉体……実に甘美である。

 一美の前でこの純白のギターを鳴かせ、彼女の女の部分に艶やかな涙を滴らせてる事ができたらどれだけ素晴らしいか。いや、そうなるに違いない。その為に努力してきたのだ。

 念の為のホテルの予約もしておいた。金はあった。毎日働いて、稼いだ金を無駄に使わずによかった。 俺は来たるクリスマス。とうとう童貞を捨てられるかもしれないのだ。

 長く夢見た女体の悦に溺れる。絶え間なく続いた劣等感と肉欲への渇望をようやく返上仕る事ができる。そう思うと、まったくこの上ない。俺はとうとう男となれるのだ。聖夜に讃頌せしめるのだ。ハレルヤ。ハレルヤ。君と二人で、ハレルヤ。ハレルヤ。


 浮かれ騒ぎギターを掻き鳴らす。響くso Christmas 隣人のパーカッションとのセッションがプロレタリア芸術の体を成しており大変喜劇的で悲壮である。

 狭い部屋で西陽の残光を眺めるのも悪いものではない。女ができると思うと気分は実に晴れ晴れとなりありとあらゆる問題が瑣末に感ずるものだ。ハレルヤ。ハレルヤ。ギターに乗せて唱え祈る。激しさを増す壁面のダウンビートが頼もしい。


「ヤるぞ。俺はヤるぞ。きっとヤるぞ」


 ギターを演奏して一美の果実をこの手にできるのかは未知数だったが、俺はすっかりとその気になり、ギターを手にした道すがら購入した避妊具の箱を眺めがら妄想に耽り朝を迎えた。クリスマスパーティー前日の事である。




 そして二十四日の早朝。

 日没より始まるは待望のクリスマス。

 本日、チャリングクロスは夜の営業がなく、俺と一美と白井さんによるクリスマスパーティーが開催される。待ちきれず飛び起き、勢いに任せて用意を済ませ店に向かう。平時より三十分も早く部屋を出ると、街の様子が違って見えるのが面白い。




「あれ。おはよう村瀬君。早いね」


 店には既に白井さんがおり仕込みを始めていた。いつもながら、よく働くものだ。


「はい。ちょっと、早く起きてしまって」


「なんだい。遠足を楽しみにしてる小学生みたいじゃないか」


 侮蔑的な冗談であったが、不思議と笑って許せたのはギターを持って器量が大きくなったからだろうか。何にせよ、くだらない軽口に一々腹を立てなくとも済むのは精神衛生上大変よろしい。


「あぁそういえば、シンちゃんから聞いたんだけど、今日、ギター弾いてくれるんだってね。楽しみにしているよ」


「……いえ、そんなに上手くはないので、お耳を汚してしまうかと思いますが……」



 ……少し引っかかる。

 何となく照れが入って言えなかったため白井さんには言っていなかったのだが、一美から聞かされたと思うと、俺の預かり知らぬところで話が進んでいるように思えて気に障った。

 しかしまぁいい。今宵の主役は俺で姫君は一美である。瑣末な無礼は捨て置いても一向に支障なし。心の昂りに陰りはない。俺は今日こそ一美を抱くのだ。その前の、大事の前の小事に躓いてなどいられない。


 あぁ。一美と早く会いたい。


 あの愛らしい笑顔と、無垢なる瞳と、豊かな胸をこの目に収めたい。今日限りの、清らかなままの彼女を。俺に穢され、花散らされる前の彼女を一目……






「おはようございます」


「……っ」


 早朝のホールに響く快活な声に俺は身を反らされた。空想で弄んでいた一美の声が、実際に聞こえてきたからである。


「あれ。シンちゃんも早いね。どうしたの」


「なんだか、楽しくなっちゃって、早く来ちゃいました」


「へぇ。それじゃあ、村瀬君と一緒だね。彼も早く来たんだよ」


「あら、そうなんですか。村瀬さん。おはようございます」


「あ、おはようございます」


 ……やはり一美は美しい。抱く価値のある女だ。彼女の胸を朝から拝めたのはまったくの眼福。巨大な山脈には御来光のような神聖さがあり実に縁起が良い。


「今日、楽しみにしてますね。ギター」


「あ、はい。ちゃんと練習してきたので、上手く弾けると思いますから、聴いていただけると嬉しいです」


 らしくない強気な発言が出てしまった。しかしたまにはいいだろう。好いた女を落とそうという時に謙虚でどうする。時には野獣の強欲。誇示も必要だろう。なにせ、そのための修練。そのための就労だったのだ。ここで意気地を示さずして何とするか。


「そういえば村瀬君、ギターは持ってきてないのかい」


「はい。一旦帰宅しようと思っているので、その時に持ってこようと」


 持ってきてもよかったのだが、仕事に無関係であるためそこは自重した。午前中はあくまで業務なわけだから、そこまで厚顔に顕示はしたくはなかった。


「なんだ。せっかくセッションしようと思ったのに」


「……え」


「実は俺も、昔ギターやっててさ。村瀬君が来たら、ちょっと一緒に弾いてみようと思っていたんだ」


 白井さんはそう言うと、奥からギターケースにを引っ張ってきて「どうだい」と中を見せた。

 そこには血に濡れたような深紅のフライングVが眠っていた。

 恐ろしく禍々しくも、官能的な美を放つ、真っ赤なフライングVが……


「凄いですね。ロックって感じがします」


「昔流行ったんだよ。もっぱらハードとかメタルで使われてたんだけど、俺はクラシックのバンド組んでてね。弾いていた当時は、よく笑われたよ」


「へぇ。でも。かっこいいです。何か弾いてみてくださいよ」


「了解。じゃあ、準備するから、ちょっと待ってて」


「やった。楽しみです」



 なんだ。


 なんだ、これは。



 二人の会話を、黙って見つめる。

 白井さんの肩にかけられた深紅のフライングV。それは、美しく、禍々しく、狂気的で、俺がやっとの思いで手に入れたレスポールが霞む魔力を放ち、圧倒するのだった。


「じゃか、いくよ」


「はい……」



 一美の目は俺に向けられない。ただ、白井さんの演奏を見つめていた。


 俺は一人だった。一人だった。一人だった……

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