第29話

 ギターの稽古を終えた俺はジムに寄ってから帰宅しスーパーで買ったモヤシを炒めて食し床へと就いた。

 暗い部屋の万年床。寝る前はいつも鬱屈とする。しかし今日は違う。揚羽の一喝により心胆が奮え、至極真っ当な、真っ直ぐな気持ちとなり、覇気に満ちているのである。

 未来への不安や現状の不満などは鳴りを潜め希望と勇気がたちどころに作用している。この身体が、精神が、歯をくいしばり、弱心ながら明日へ向かわんとしているのだ。安い食事を腹に収め、何が楽しいわけでもない一日を終えて尚も心身は強壮の状態。性根しょうねには志が固く括られている。


「ハルレヤ。ハルレヤ」


 いつかに読んだ宮沢賢治を思い出し呟く。なぜ正しくハレルヤとしなかったのかは俺の知るところではないが、胸にスッキリと落ちるのは宮沢賢治の方であるように思える。本来のハレルヤが他を祝福する言葉であれば、ハルレヤは己を祝福する呪いなのではないかという気すらする。もしそうなら、一人である俺は宮沢賢治流に則るのが正道であろう。しかし、いつか。いや、近いうちに必ず、俺は誰かと恋仲になり、互いにハレルヤと声を掛け合う時がくるのだ。女と番となり、祝福の言葉を唱えるのだ。


 ヤるぞ。ヤるぞ。


 漲る煩悩。それこそが動力。俺は女とヤるために生きるのだと言い聞かせる。

 そのためにもギターが必要だった。

 今のままではいかん。稽古の時間を増やさねば目的を達する事ができないと、躍起になるのだった。


「ヤるなら、やらねば……」


 しかし金がない。金がなければギターが買えない。ではどうするか。


「ヤらねば、ヤらねば……」


 言葉を繰り返し考える。どうすればいいのか。どうしたら金を得られるか。


「……そうだな。それしかないな」


 答えは出た。ギター購入の野望を果たすべく、アルバイトを増やそうと思った。


 しかし俺が今以上に働けるのだろうか。新たに始める仕事場で器用にやっていけるのだろうか。先行する不安。先まで煌々と輝いていた決心の炎が弱々しく、頼りなくなっていく。真っ当に就職できず、小さなカフェで安い労働をしている俺にできる仕事など存在しないのではないかと、柔な心が揺れるのだ。


「いや。やれる。やらねばヤれぬ。ヤらねば、ヤらねば……」



 弱気を打ち消すように呟くも、心許ない。揚羽の顔が霞んでいく。小心の気まぐれなど所詮は匹夫の勇なのであろうかと、竜頭蛇尾の無様に焦燥。疾苦に背を向け、俺は思考を放棄するようやな無為に耽り朝を迎えた。

 そして目覚めた瞬間に脳に走ったのはやはり昨晩に解決を伸ばした悩みであった。如何に眠りへと逃げようとも時間は過ぎる。積み上がった苦しみを放っておくといつしか瓦解し、後戻りのできぬ沙汰へと成り果てる。俺は何ら打開策が浮かばぬまま逃避した事を悔やみながらチャリングクロスへ向かう準備を始めた。朝の光がいつもよりも眩しく、障った。





「おはようございます」


「おはよう村瀬君」


 出勤。挨拶を交わしてタイムカードを押し、仕事に従じる。だが、上手くいかない。憂いがあるままの労働は苦痛であり困難であった。

 普段は容易に仕上げる業務がまったく捗らない。清掃。配膳。卓の準備など、できて当たり前というか、できる前提の作業においても抜かりが生ずるのだ。心ここに在らずの腑抜けでは確認や注意を払うのが億劫で仕方がなく怠慢となってしまう。これではアルバイトを掛け持ちするなどと言っている場合ではない。


「村瀬君。今日どうしたんだい。体調が悪いのかい」


 あまりにもおざなりな勤務態度を見兼ねたのか、白井さんから声がかかった。仕事を増やす従業員など本末転倒。呼び出されて当然である。


「いえ、あの、すみません……注意します……」


 平に謝り頭を下げる。さすがに申し訳がない。


「いや、いいんだけれど、何かおかしいから心配だよ。力になれるかは分からないけど、相談ならのるよ」


 白井さんは下劣であるがこうした配慮は細かい。兄貴肌で面倒見が良く頼りになる。しかし、俺が今抱えている悩み……即ち、新たにアルバイトを始めて万事滞りなくいくのだろうかと苦慮していると話したところでどうしようもない。白井さんは俺の親ではないのだ。左様な相談を持ちかけられたとて、無責任に「大丈夫」と言う他ないであろう。俺としても、その後の返答は「大丈夫です」以外に述べる言葉を知らない。例え違う台詞を枕に置いたとて結局はその「大丈夫」に帰結する。つまるところ他人への助力するなどその程度が限界。関の山。所詮他人同士。交わす会話に意味などあろうはずがない。あるのは少しの共感か多大な憎しみだけである。然るに、相談など全くの無意味であり、無益なのだ。


 なのだが……


「それが、お金の方で、その、悩んでいまして……」


 此度は少し都合が違う。俺はとある策略を巡らせ、あえて白井さんに弱みを見せた。


「……なるほど。金か。そりゃあ、難儀だな……」


「はい。それで、アルバイトを増やそうかと思案しているのですが、中々……」


 恥を承知で心中を打ち明けたのだがそれは別に慰めを求めているわけではない。極めて打算めいた小人の浅知恵からの行動である。俺はアルバイトを探していると告げる事で、白井さんからある一言を引き出そうと画策したのだ。


「そうかい。まぁ、人一人生きていくのは、中々大変だからね」


「そうですね。どこか、いいとこがあればいいのですが」


「なるほど……村瀬君。君が良ければなんだがね」


「……はい」


 きた。


「うちで、夜の時間も働かないかい」


「え、いいんですか」


「うん。ちょうどバータイムでも、人を入れようかと考えていたところでね」


 一縷の望みを掴んだ。その言葉を待っていたのだ。

 俺は白井さんが夜の営業にもアルバイトを入れようとしていた事を何となく察していた。毎朝毎晩の激務に肉体的な限界を感じているのは日々を見ていればおおよそ分かる。それでも営業せねばならないのが小さな店の宿命であるわけから、少しでも労を軽減せんと従業員を増やそうとするのはごく当然の成り行きといえる。そして兄貴肌の白井さんが俺を見捨てるとは思えない。ならば、斯様な話を聞けばきっと誘っていただけると踏んだのである。知らぬ場所で知らぬ人間と働かなくとも済むのであればこれほど素晴らしい事はない。もしかしたら夜のアルバイトは考えていなかったかもしれず、その場合は話し損となってしまったところであるが、結果何とかなったのだから良しとしよう。


「それなら、お世話になりたく……」


「はいよ。なら、今日からいけるかい」


「はい。もちろんです」


 二つ返事で承諾。もはやギターのために、女のために、ヤるために、俺は手段は選ばない。ヤるのだ。ヤるのだ。ヤるのだ……




 ただ求める性への渇望。そこには矜持も誇りもなく、欲望を満たさんとする我念しかない。

 必死我武者羅に自己本位へ走る姿勢が如何に見苦しく見えるか。俺はこの時、自身を鑑みる事もできずに、己が勝手に身を任せていた。

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