第30話

 その日から夜の勤務が始まった。

 とはいえやる事は昼と同じで、オーダーを聞き、白井さんに伝え、できた料理を客席に届けるというもので、昼と違うのは因縁をつけてくるお客様が酔っているかいないかくらいなものであった。

 しかし疲労感が比ではない。

 業務自体は変わりなく働くに当たり差し障りはないのだが、いくら間に休憩があったとしても昼夜の労働は大変堪えた。


「じゃあ、お疲れ様。村瀬君」


「……はい。お疲れ様です」


 白井さんと挨拶を交わしようやく一日が終わった。店を閉め、朦朧と歩き部屋に着くと、俺はすぐに床の中に倒れ、そのまま動くこともできず意識が途絶えたのであった。





「辛い」


 目が覚め一人、言葉を落とす。

 長く立っていたためか足の裏が痛む。頭の中身は泥のように淀み定まらず瞼は重い。深い部分で自我が睡眠を欲しているのが分かる。かつてない疲労感に嫌な新鮮味を感じ、俺は安易に夜の勤務に手を出した事を後悔した。


 もう辞めてしまおうか。


 一日目でそんな弱音が浮かんでしまい項垂れると、そのまま寝てしまいたい欲求に駆られる。これはまずいと今日のアルバイトの欠勤を考えるも、まずはギターの勘定が頭に浮かび、次に三日坊主にも満たぬ不甲斐なさを自責する気持ちが浮かんだ。揚羽あげはの熱意を受けてギターに精進すると決め、なりふり構わず白井さんに金の悩みを打ち明けて新たに働き始めたのだ。途中で挫折するにしても初日で根を上げるなど言語道断である。せめて一ヶ月。冬の気配を匂わせる冷風が吹く頃までは続けねばなるまいと、そう思った。

 半ば意地であったが慣れれば存外何とかなるもので一ヶ月などはすぐに過ぎてしまった。紅葉に染まっていた木々が素の枝を見せ寒々しい。羽織る物が薄く惨めとなるが、何とか先月働いて得た金を自棄になって使わずギターの軍資金を蓄える事ができた。買ったものといえばもやしと缶コーヒーと、あとは宮沢賢治くらいなものである。


 そういえば、その宮沢賢治を買った時の事なのだが、揖良ゆうらの様子が何やらおかしかった。

 休日、俺はいつものように石川堂へ赴いたのだが、店の戸を引いた瞬間に、座っていた揖良は怯えるように上目でこちらを一瞥したのだった。


 何かありましたか。


 そう問う間もなく、揖良は安堵したように息を吐き「いらっしゃいませ」と笑顔を見せた。しかし、その顔の崩し方はいつもと違い、ぎこちないような、すがるような、一粒の雪が消えゆくような儚さがあった。


「びっくりしちゃいました」


 訝しむ俺の顔を見て咄嗟に出たのだろうが、そう言う揖良の言葉に力はない。誰に向けてのいるのか分からないくらいに芯が弛んでいた。


「や、大丈夫ですか。調子が悪そうですが……」


「え、あ、はい。大丈夫……あ、じゃないかもしれないです……」


 確かに大丈夫ではなさそうであった。そしてそれは、肉体ではなく精神に異常があるように見受けられ、俺は、実に下衆な、下劣な事だが、今この時こそ、揖良を俺の女にする好機なのではと、つい思ってしまったのだった。


「あ、そうなんですか。如何なされましたか。もしよければ、お力になりますよ。何でも仰ってください」


 身を案じる懇篤な体を演じられたように思う。本当に、恥ずかしく思うのだが、この時ばかりは揖良の身よりも、如何に弱った心へつけ込もうかとばかり考えてしまっていた。彼女の持つ、被虐の艶に呑まれ、人格が最低にまで頽落たいらくしていたのである。


「いえ、その……」


「よく見れば顔色も悪い。奥で休まれた方が善いのでは」


「えっと、あの……」


 言い淀む揖良。

 押せば割れてしまいそうな、細い彼女の芯。

 もしもを、万が一を期待してしまった。

 

 鬼胎に憔悴する揖良を前に、なし崩しを夢見る破廉恥。己の外道に良心が痛まぬでもなかったが、赤黒い肉のリビドーが俺の血を支配し品位を失墜させていた。大袈裟かもしれぬが俺は、揖良の艶めきに滅びゆく者の光輝を、魂の絶佳を観た。人の世においてこれ以上ない美麗を前にしているような気がした。その美は男を惑わし、拐かし、魔羅の邪気を容易に勃ち起こさせる危うさに満ちていた。その魔力に、俺は抗う術を持っていなかった。


「もしよろしければ介抱しますよ。いつもは、奥で寝ていらっしゃる。それともご自宅へ帰られますか。いずれにしても、お付き添いいたします」


「あ、あの、えぇ……」


 きっと自分は今、下卑た顔を浮かべているだろうなという自覚はあったが、揖良のどちら付かずなはっきりしない態度が俺を増長させ、理性のタガを大きく緩ませた。今鑑みればどうにかしている。いや、当時の俺としても全くの痴れ者だという理解はしていた。しかし、それでもいいと、どうにもならぬと、ただ強欲に、揖良に実る豊満へ喰らい付かんとしていたのだ。


 もう知らぬ。ここで関係を持ってしまおう。一線を、超えてしまおう。


 情事を迫る間男心理とはまさしくこんなものなのだろう。


 辛抱堪らず、揖良を掴もうと腕を伸ばす。叫ばれようが警察を呼ばれようがどうでもいいという心境であった。いや、それは少し違う。正直に述べれば、俺は揖良を単なる肉としか見ていなかった。生殖を行う道具としか認識できていなかった。それ故に、彼女が叫んだり、抵抗するなどという可能性をちっとも考慮せず、如何にして寝所をともにするかと悪辣極まりない空想に突き動かされていたのである。

 あのまま情動に従い揖良に触れていたらどうなっていたのか。もしかしたら、すんなりと男女の仲に発展していたのではないか。考えずにはいられない。

 しかしそうはならなかったのだ。

 揖良の柔肌に触れる瞬間、引き戸が大きな音を立てて開かれた。思わず振り返ると、立っていたのは一人の老人。これといって特徴のない、ただの年寄であった。


「おや、時間、まだだったかな」


 とぼけた声だった。息を吐く度に屍の臭いが漂い、本当に生きているのか疑わしく感じられた。


「あ、あの、すみません……あの、お客さんが……」


 その老人に反応する揖良の様子は、先に俺が訪れた際に見せた、怯えた顔つきであった。

 彼女の言うお客さんとは俺の事だろう。老人が時間を気にしていた事から、きっと二人は何か話しでもする約束でも取り付けていたのだろう。それは、揖良の態度を見るに、彼女にとって都合の悪い内容であると推測できる。となれば、それは……


「あ、僕、帰りますので……あぁ、あの、本だけもらっていっていいですか。宮沢賢治が欲しいんですが……」


 揖良の事、気にはなる。

 だが、もし俺の考えが正しかったとしたら、赤の他人が口を挟む問題ではない。なぜならきっと、この二人がする話しの内容は、倒れた揖良の祖父に関してか、あるいは、金に関するものだろう。興味本位で首を差していいものではない。


「え、あ、はい……賢治でしたらそこの棚に……」


「ありがとうございます」


 揖良が指差す棚から一冊拝借し、俺は金を払って石川堂を後にした。

 その後、彼女とあの老人がどうなったのかは知らぬが、しばらくしたら、また、何食わぬ顔をして本を買いに行こうかと思う。その時は、しっかりと、理性を保って……

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