第28話

 何を話すか。何を……


 刻は刹那。万積の難を崩す言葉を探す。間はもうない。何が何でも何かを話さねばならぬ。如何にいたそうか。ともかく、何か、何か……


「……僕は、この歳まで、まともに働いた事がなくて……ずっと、アルバイトばかりで、大学卒業したってのに、金ばかり使って、何もできずに……」


「……」


 女の話をなしにして手っ取り早くそれらしく聞こえる理由は俺の身の上しかなかった。しかし、それはいざ口に出してみると実に陳腐に感じもので、耳に反響する自身の声を聞くと、言葉に角があるように喉につまってしまうのだった。


「……それで、あの、急に……なんと申しますか、自信というか、生きている意味というか、そうした哲学的な、いわばレーゾンデートルの揺らぎが……」


 深い泥沼でもがくが如く切迫していく。言えば言うだけ奥底へはまっていくようで、苦しい。


「……村瀬さん。貴方、嘘を仰っている」


「……え」


 心臓が一刺しに貫かれてしまった思いがした。揚羽の鋭い声が、俺を穿ったのだ。


「な、何を根拠に……」


「貴方がうだつが上がらないのは今に始まった事ではないでしょう。それを今になって、レーゾンデートルだの何だの……嘘に決まっているじゃないですか、そんなもの」


 どうやら見抜かれてしまっていたようだ。さすが音楽を生業にしていると感性が違う。しかし、それではいったいどうしたらよいのか。失望幻滅される覚悟で正直に述べた方がいいのか、それとも誤魔化した方がいいのか……

 いや、突然女に対する不信感が湧き上がってきたのですが、貴女の慈悲に触れそれが晴れました。ありがとう。などという戯言、口に出せるわけがないだろう。却下である。

 しかし、一度看破された以上再び虚偽を並べればそれも信用を失う結果となるのは明白。こうなると、いずれがより傷が浅くすむかという負傷前提の消極的な選択が迫られてくる。得が見えない博打だ。不毛が過ぎる。


「……」


 揚羽の眼光が急かす。熱せられた鉄板の上で正座をさせられているような感覚に正気が削られていく。早急に決めねばまた怒髪天となり、今度こそ愛想を尽かされてしまうだろう。

 次の一呼吸で答えを出さねば。

 そう思い、俺は深く息を吸って決意を固めた。ギターに身が入らぬ理由。それは……


「……以前お話ししたギターを始めた理由なのですが、その、変わりたいと、申し上げたと思うのですけれど、もっと詳しく言うと、女性にモテたいという意識が多分にございまして、それで、今日まで続けてきたわけなのですが、あの、実際やってみても、モテる気配が見えず、なんだか虚しくなってしまって、無意味に思えてしまって、それで、なんだか活力が湧かなくなってしまって……動機が不純だなと思うと、余計にやるせなくなってしまって……」


 ……嘘は述べていない。

 いや、限りなく真に近い回答であろう。事実、ギターをやっていても女にモテる事はなく、返って不信感を抱く結果となった。不純な動機が気を滅いらせていたのも間違いではない。ただ、ご婦人の強行に恐れを抱き女に臆してしまったという部分を伏せただけである。これで虚言と断じられればもはや打つ手はない。潔く揚羽との断然を受け入れよう。もっとも、信じられたとて、左様な動機でギターを始めたのかと憤慨されるだろうから、どの道同じであろうが……


「……」


「……」


 無言でこちらに目を向ける揚羽。情けないが、顔を背けてしまう。直視などできようはずもない。この沈黙の後、果たしてなんと罵られるのだろうか。俗物。色魔。淫奔。好き者。助平にかける罵詈雑言は枚挙に暇がない。何を言われようとも仕方なく、受け入れねばならぬ。それが失態を犯してしまった者の末路であれば是非もない。できる事は数多の罵声を聞き届ける事だけだ。俺はうつむきながら両の拳を握り歯を食いしばり、何を言われても逃げ出さないよう身体を硬直させた。

 揚羽の呼吸が聞こえ、そっと眼を閉じる。



「……私もね、そんなに格好がいい理由じゃないんですよ。ギターを始めたの」


「……え」


「以前、貴方に言いましたでしょう。楽しそうにギターをお弾きになりますねと。実は、私はちっとも楽しくないんですよ。ギター。お金をいただけるから続けていますけれど」


「……」


 意外であった。揚羽の口から語られるのは、なんと彼女自身の話であった。いったい如何にして左様な次第となったのか見当がつかなかったが、どうやら俺への失望には至らなかった様子であり、それが判明した以上はもはや恐るものはなかった。胸の支えが取れた俺は、そのまま揚羽が話すままを良しとし、特と耳に聞き入れんと身体の硬直を解いたのであった。


「私がギターを始めたのはね。当時、交際していた殿方が浮気をなされて、彼を見返そうと思ったからなんです。その方、ギターをなさっていて、自分は上手だと大層自慢気に話をするものですから、その伸びた鼻を叩き折って差し上げたくなりまして、私もギターを買って、彼より上手くなってやろうって、必死にお稽古をして、そしたら思いの外上達してしまって、なんの因果か、今こうしてギターで生計を立てるようになったんです」


「……」


「だから、動機が不純とかは気になさらなくていいと思いますよ。恥じるとすれば、必死の覚悟が足りない事ではないでしょうか。いいじゃないですか。異性に好かれたくて始めたって。問題なのはね村瀬さん。命をかけていないという事なんですよ。貴方はまだまだ努力が不足していらっしゃる。それを置いて、結果が出ないというのは、それは間違っていらっしゃる。もうあと二、三歩、努力、精進すべきですよ」


 揚羽の言葉には重みがあった。目的を成し遂げた者の力があった。必死に、文字通り命をかけて修練を重ねてきた人間の凄みがあった。

 いや、考えてみれば不思議はない。揚羽は女一人でギターの道を歩き、半ばプロフェッショナルの位置まで登りつめているのだ。凄くないわけがない。


 その揚羽の姿に俺は女の本質を見た。


 女は弱い。

 才も徳も認められ得ず、女というだけで進む道も制限され、自由が奪われている。その理不尽と不平等と戦うために、女は苛烈となり四方に牙を剥く。

 俺は揚羽に、ジムとチャリングクロスで出会った、あの花ちゃんと呼ばれる逞しい女の姿を重ねた。立場も生き方も違えど二人は戦っているのだ。自らの尊厳のために奮っているのだ。女だてらにその身一つで、男と対等に渡り合っているのだ。


 それに比べて俺はなんと矮小であろうか。風に揺れる枯れ葉のように浮き沈み、一喜一憂を繰り返す。これが戦っていると、生きているといえるのだろうか。自身の足で立ち、しっかりと前へと進んでいるといえるのだろうか。目の前に立つ揚羽を見上げ、己が薄志弱行を悔やみ、恥じる。


「……確かに、その通りです」


 認めざるを得なかった。確かに俺は練磨が不足していた。覚悟が決まっていなかった。そのくせ、よく知りもしない女への不信などを抱き、勝手に嫌悪し、意識が下がっていたのだ。俺は馬鹿だ。精神的に向上心のない大馬鹿ものだ。揚羽の喝により目が覚めた。まずはやってみない事には何も始まらないのだ。モテてもいないのに女はろくでもないと想像するのは酸い葡萄である。もし本当に女を御しきれなくとしても、それはモテてから憂慮思案すべき問題であり、今ではない。


 まずはモテねば。女とヤらねば。


 至極前向きな志が胸に満ちていく。

 即座に曲を極められそうなほどに冴えている。

 もはや迷いはない。俺はギターをやるのだ。本を読むのだ。身体を鍛えるのだ。カフェでアルバイトをするのだ。兎に角モテるのだ。俺はヤらねばならぬのだ。


 全身に満ちる活力。霧が晴れたように清々しく、世界が明るく見える。俺はこの時、運命に祝福されたと、そう思ったのだった。

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