第25話

 筋肉達が帰ると店内は徐々に静けさを取り戻していき、時計の針が15時を指す頃にはいつもと同じように、いや、それ以上に、常連様方がゆっくりと過ごす午後のいとまとなっていた。

 嵐のような一幕は潮が引き、俺も一美いちみも白井さんもどこか気が抜けてしまっていたが、峠を越えたとなれば誰しもが呆けよう。カフェだなんだと洒落てはみても所詮は水商売。繁忙もあれば閑散もある不安定な商い。例えるならば、波に流離う危ういな小舟である。大凡の目処は立てど日々の盛衰の気配は読めない。思わぬ千客万来もあれば、客の来ない時はどうしたって来ないのだから、躍起になっても仕方がないのだ。





「二人とも、上がっていいよ」



 白井さんがそう言ったのは十七時を少し回った辺りであった。常連は皆帰り客席は全て空いている。ボウズというやつだ。斯様な有様ではバイトを置いても仕様がない。店主として、無駄なコストを削るのは当然の判断であろう。



「……はい」


 俺はその報に頷くも、喜んでいいのか悲しんでいいのか判断し兼ねた。労働を好んでいるわけではない。しかし、今退勤すれば正味三十分の時給を失う事となる。しかも本日は中抜けをしてるわけだから、ただでさえ少ない給与が更に下がってしまうのだ。

 金を貯めねばと決めたわけだから実入りが減るのは痛恨の大事。目減りした分、爪に火をともすような生活を自らに強いらなければならないと思うと憂鬱の限りだ。

 だが、「そこを何とか」と往生際の悪さを見せるのもまた見苦しくさもしい。故に、男としては、納得したフリをして呑むしかないのだが、実に心苦しい限りである。


「悪いね」


「いえ……」


 しみったれた悩みを察したのか、白井さんから詫びの一言を賜った。たかが数百円で一喜一憂する自分が小さく思え恥ずかしさを覚えたが、貧困である事実は変わらない。武士は食わねど高楊枝とはいうが、今を生きる低所得者に左様な気高さを持てというのは酷な話である。



「まぁ、少ないし、ボーナスでもないんだけど、これで帰りに何か食べいったらいいよ。今日は頑張ってくれたし、いつも助かってるから。気持ちって事で……」



 

 そう言って白井さんの懐から出されたたのは千円札であった。二本の太い指で挟まれた紙幣が輝いて見える。正直な話しありがたいな以外の言葉がなく、喉から手が出るほどに欲しい野口英世であるのだが……


「あ、いえ、そんな……」


 しかしそれを容易に受け取るわけにはいかなかった。

 何せこの千円は白井さんのポケットマネーなわけである。感謝の印として金をやろうと、そう言っているのだ。それを「嬉しいですありがとうございます」と思慮も見せず直ちに頂戴するのは浅ましく下賤の極み。ここは「お気持ちだけで」と、慎ましく辞退するように見せるのが嗜みである。

 そしてこの辞退するように見せるというのがミソである。そう。あくまで見せるだけでいいのだ。

 白井さんとて気概気骨がある。一度払うと言った金を引っ込めるのは狭義に半するというもの。男てして、手にした千円を渡したくて堪らないはずなのだから、なおも「まぁまぁ」と言って俺の胸元にチラつかせてくるだろう。そこで「分かりました」と、やや間を置き、控えめに金を受け取るのだ。ここまでで一連の作法の完了である。

 旧来の礼節に乗っ取れば三度断り初めていただくのだが昨今では事情が異なる。侘び寂びや過度の遠慮を良しとしていたのも今は昔。謙虚は一度で十分。グローバル化の波に呑まれスピード感こそ尊いとされる現代においては三度も断っている暇はないのだ。失われた二度の不承知は謝意の低頭にて代わりとする。それが新時代の流儀である。

 俺はつつがなくその手順は踏んだ。非の打ち所のない完璧さであったと自負してもいい。これで無礼と罵られるのであれば、それは罵ってきた相手が非常識である。それでは、千円を頂戴……


「あ、そう。いらない。じゃあ、この話はなかった事にするね」


「ありが……えぇ……」




 ……予想外であった。何と白井さんが、手にした千円札を引っ込めたのだ。




「あ、あ、あぁ……」


 遠ざかる英世と目が合う。惜別の心模様は今生での縁が断たれた親子の心気。意図せずして漏れてしまう悲嘆の声が、遥かに広がる合間に震える。

 抜かった。千円をいただきそびえた。

 まさか白井さんがここまで常識知らずだったとは。信じてしまった己の人の良さが憎い。



「そ、そんな声を出さないでくれよ……冗談だよ。冗談」


「……え」


「悪かった。すまない。ほら。千円貰ってくれよ」


「あ、はい……すみません……ありがとうございます……」


 ……とんだ醜態を晒してしまった。たかだか千円に品性を貶めてしまうとは。

 しかし白井さんも人が悪い。渡す腹づもりであればさっさと寄越してくれたらいいものを、意地が悪い話ではないか。生来の意気地の悪さが透けて見える。これで女になぜモテるのか不思議でならない。女を……何か、忘れているような気がする。はて、なんであったか……

 あぁ、そういえば、モテるといえば白井さん女を手篭めにする技術を請いたかったのだった。あの時は一美が割って入り伝授とはならなかったが、今、彼女は更衣室で着替えの最中である。邪魔される事はないだろう。ならば今が伺い時ではないか。そうだとも。今聞かずしていつ聞くというのか。聞かねば。女を落とすその秘訣を。


「あの、白井さん……」


 俺は頂いた千円を折り目に従って畳み、今宵こそ婦女子殺しの奸計をご教示願いたくにじり寄った。今日は逃さない。絶対に会得してやるという強い意志が、身体中の血を沸騰させる。


「あ、村瀬くん。悪いんだけど、帰り際にこの回覧板をお隣に回してきてもらっていいかな。まったくやんなっちゃうよね。ここに住んでるわけでもないっていうのに、町内会に参加しろなんて……あ、いらっしゃいませ。何名様で。はい。四名様。かしこまりました。では、あちらのお席へ…………よし。じゃあ、すまないけれど、回覧板よろしくね」


 ……


 突然の展開。回覧板にご新規様……見計らったかのような間の悪さ。これは……


 ……


「分かりました……それじゃあ、すみません。お先に失礼します」




 回覧板を手に、勝手口からチャリングクロスを出る。

 空は相変わらず暗く、寒い。成し遂げられなかった目的が心に楔を打ち込み、沈む。

 しかし、回覧板に先程の店の様子。この妙な間の悪さは、天啓であると俺は受け取った。運命などという都合のいい言葉を信じているわけではないが、人生というものには時に不思議な兆候が見られる事がある。それは所謂虫の報せだとかチャネリングと言われたりしているが、ともかく人類の理知外から未来を察知する事が往々にしてあり、俺はそれが今訪れたように思えたのだ。

 これはたらればであり、あくまで予測なのだが、今日はきっと白井さんにモテる技術を聞く場ではなかったような気がする。何故か回ってきた回覧板が、妙な時間に入ってきた新規の客がその兆候であり、聞いていたら、きっとろくでもない結果になっていたと思わずにはいられないのだ。

 酸っぱい葡萄といわれればそれまでだが、俺はその神託めいた馬鹿な話を信じる事にした。白井さんのような軽薄さは、俺には似合わないように思えた。

 そうした考えに至ったのは、今日の昼に、一美と話しをしたからかもしれない。彼女と話して、自分の事を喋って、少しだけ、俺という人間を認識してもらえたから、付け焼き刃の軟派より自分らしさを尊重できたのかもしれない。


 人は自分が足らぬと思うから真似をする。今日の俺は、少しばかりの充足感があり、自分自身を認められた気がした。

 それだけで憂鬱なアルバイトの帰り道が、幾らか救われた。

 単純だなとつい自嘲してしまったが、まぁ、暗澹に暮れるよりは、いい事だろう。

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