第26話

 アルバイトが終わり少し早めにスタジオに着いた俺は待ち時間に申し訳程度に併設された待合室でラックに挿さっていた雑誌を読みながらベンチに腰をかけていた。

 音楽スタジオだというのになぜだか一番種類が豊富なのはゴシップ誌である。それはこのスタジオがギターだけではなくフルートやバイオリンなどの指導も行っており、そうしたお上品なお稽古事の客は主婦層が多いためにそれに配慮したというのが表向きな理由なのであるが、実際はそのご婦人方が脅迫めいた陳情をスタジオへ送り要望を呑まさせ、週に一度、大量のゴシップ誌が小さな待合室に置かれるようになったという話である。

 ご婦人方は往々にしてうるさく、自らの要望が通って当然と思っており、通らねばポリティカルコネクトレスだのミソジニーだのなんだのとのたまい、他者を気軽にセクシストと断じ平気で非難する悪癖を持つ。それだけならまだいいが、彼女達は不平不満を排除しようと躍起になるくせに、自ずから不平不満を探し出し不毛な闘争を望んでいるのだから救い難い。そうした争いばかりの毎日にどうして身を置けるのか。多少の不満には目を瞑り、角を立てず生きていた方が心身ともに安心できるのではないかと思うのであるが、曰く、男に分からない。だそうだ。

 確かに女にしてみたら承服しかねる差別的習慣や慣習。思想や制度が未だに残っているのかもしれない。だがしかし、だからといって社会は女を遇し、女の無理を呑んで当然という認識は筋が違う話である。いったいどういう精神構造をしていたら一方的な正義を掲げ難癖を主張できるのか知らん。男も男で、それをうるさいから。面倒だからと、おざなりに対処し、彼女達を優遇するものだから更に暴走し抑制が効かなくなってしまっているのだ。恥知らず。厚顔無恥。いや、もはや特権といっても差し支えないくらいに女の優位性は高くなっている。テレビ番組の合間に流れるコマーシャルや電車内の広告を見れば分かるが、女に使役される男の画ばかりが目に付く。これが逆となれば差別だ人権侵害だと騒ぎ立て、発信している企業や個人を親の仇の如く糾弾し制裁を加えんと発起するのだから全く悪質であろう。男に生まれたばかりに日陰者を余儀なくされる定めを背負わねばならぬというのであれば、まったく非人道的であり住みにくいといったらない。ややもすれば、俺がモテずヤれないのは女が力を持ちすぎたせいかもしれない。であれば、実に迷惑千万というものである。



 そこまで考え俺は戦慄し血の気が引いた。

 果たして、左様な悪逆非道を往く女どもと番になりたいのだろうかと、共に生きる道を歩んで幸福を得られるのだろうかという疑念が、明確な憂慮となって心に深い根を張ったのである。

 もし仮に俺がどこぞの女と、一美かずみか、揚羽あげはか、揖良ゆうらあたりと番となったら、彼女達は普段隠していた猛獣の牙を俺に向けながら血と臓腑の臭気がこびりついた生暖かい息を吐きかけてくるのだろうか。事あればその牙で喉元に食らいつき俺の生気を奪わんとするのだろうか。考えるだけ背筋が凍る。まるで悪夢だ。女というのは化物と成り得るだ(事揚羽に限っていえば既にその兆候があり畏怖の対象となっているが)。

 それでも俺はヤりたいのか。モテたいのか。女に人生の舵を取らせ、自らの意思を放棄し他者に隷属れいぞくしなければならないとしても、俺は女と添い遂げたいのか。今更ながらに悩む。迷う。

 だが、どれだけ女は恐ろしいと思っても身体は女を欲してしまうだろう。ただの一度もまぐわった経験がないのにも関わらず、いや、だからこそ、女の秘部を想像し、暗い情念の炎を滾らせ執着してしまうのである。


 手に持ったゴシップ誌の内容はもはや頭に入っていない。目で文字を捉えてはいるものの、精神だけが別の次元へと飛んでしまったように虚に没入し五感の鈍化を感じる。途方も無い思案に身体が溶けたのではないかと頰を触ると、しっかりと、生えかけの髭とやつれた肉の感覚が手に伝わる。

 よかった。生きている。そう思ったのもつかの間。その感触からまた疑心が生まれる。今手で触れた暗く燻んでいる顔の俺は、人を愛し、愛する資格があるのかと。

 先の自問への自答。ヤりたいのかと問われればやはりヤりたい。しかし、いざ交際するとなった際、相手となる女は俺を愛せるのだろうか。黒く煤けた俺を抱きしめられるのだろうか。そうした疑問が、愛の資格の有無を疑わせる。

 女に負の部分があるように、男にも負の部分はある。その負を補える何かを俺は持っているのか。

 恐らくないだろう。

 なれば、何かの間違いで俺が女と交際したとしても即座に愛想を尽かされるのが関の山ではないだろうか。


 ……


 恐ろしい。途端に生きている価値がなくなってしまったような気がした。

 俺は今すぐスタジオから立ち去り、布団の中で丸まりたいと思った。理不尽なる世界の仕打ちから逃避し、孤独の安堵を得たいと思った。

 女に愛されないのであればギターが弾けても、知識があっても、身体を鍛えても、カフェで働いても、一向に意味のない、無価値な存在であるように思える。俺が生きているのは女にモテるためであり、それができぬのであれば、もはや……



 女に愛されない人間であるという仮定が正しいとしたら俺はもう死ぬしかない。生きている必要がなくなってしまう。しかしその仮定が誤っていたとしても、今度は冷血非道なる女と添い遂げられるのかという問題が生ずる。

 俺は女に愛されるのか。また、女を愛せるのか。いずれも答えがなく、誰も答えてくれはしない。生きていれば答えがでるのか、それすらも分からないまま、俺は不安定な存在理由と共存していかなければならない。

 泣きたいと思った。叫びたいと思った。

 誰かが隣にいてくれれば、この苦しみを吐き出せるのだろうか。その答えも、やはり得る事はできないのであった。



 どうしようもなく、どうしようもない。

 どうしようとも、どうにもならない。


 

 取り付けられた時計を見上げると空いていた時間はもう埋まっていた。

 たった数十分の間に自己が揺らぎ苦悶する情緒の不安定が、この先において根治されるのか否か。また、女としかと向き合えるのか。それが気掛かりであった。

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