第21話

 おかしなもので、ずっと待ち望んでいた一美かずみとの接近は大きな心労を伴った。男女の交友においては経験皆無である事から程度の精神的重圧を感じるであろうと予想を立ててはいたが現実はそれを超越したのである。髪型は変になっていないかとか、目やにが付いていないかとか、息は臭わないかとか、一緒にいて楽しいのだろうかとか、嫌悪感を抱かれていないかとか、そもそも俺をどう思っているのだろうかとか、一美には俺がどのように見えているのかというのが大変な気掛かりで、胸をそわと浮かせるような感覚が終始付きまとうのだ。揚羽あげはの時には開き直っていたせいかこうした不可解を苛む事はなかったが、此度の相手は嫌味も皮肉もない天真爛漫な一美なのである。彼女の朗らかな表情を前にした俺は自分が醜く惨めに見えて仕方がなかった。生まれも育ちも違うこの生娘と俺とではまるで釣り合いが取れぬではないかと卑下してしまうのだ。

 こうなると、先にチャリングクロスで抱いていた拒絶の念が蘇ってくる。嫌われるなら、進展がないなら、いっそ知らなければよかったと、安い恋歌のようなフレーズが湧いてくるのだ。

 だが、一美の横顔を盗み見ると、その美しさ、あどけなさに、衝動的な肉への欲求が生じるのもまた事実なのである。なんとかして抱けないか。その柔肌に俺の身体を重ねられないかと邪に耽ってしまう。彼女と会わなければこの獣が如き生命の迸りを感じる事はなかったであろう。ヤりないというのは即ち生きたいに直結するいわば生命力の信号なのである。俺は、彼女のおかげで今生きているといっても過言ではない。惨めで、哀れで、何も得ず、成し遂げられず、何者にもなれない小さな人間であるが、彼女を、一美とヤれるかもしれないという一念があればこそ、踏みとどまって死なずにいるのだ。

 常にせめぎ合う相反する感情。いっそ死ねたら。いや生きていたい。悲観と情念の間で生じる矛盾。絡み合う思念はどちらが勝るのか。生きている限りは情念宿る命に固執しているというのは当たり前ではある。現に俺は、死んだ方がましとは考えるが死にたいとは思えない。だが、ふとした瞬間に訪れる、その死んだ方がましという悲観による生命活動の拒絶が魂の炎を鎮火し、実際に首をくくるという事が起きないとも言い切れない。俺は稀に、生類の持つ原始的な生への渇望を断ち切るほどの悲哀が影からそっと忍び寄り、俺の首元に刃を押し当てているように思える時がある。生きたいという望みの中には死にたいという望みなが隠れているのかもしれない。一美や揚羽や揖良とヤりたいという、いわば性への執着により生きているのであるが、その目的が遂行不可能となったら、はたして……


「気持ちいいですね。このままずっと、こうしていたいくらい」


 一美の声が聞こえた瞬間。埒のあかない逡巡は霧散し現実へと帰る。


 しまった。しくじった。

 胸を占めるは迂闊と失態への悔恨であった。せっかく理の外により訪れた幸福のひと時を過ごしているというのに何を暗鬼にとらわれているのか。悔やみきれぬ失態である。ひとまずは、一美と過ごす時間に集中せねばなるまい。

 とはいえどうしたものか。

 ベンチに腰掛けてから五分が経つが、未だ言葉を交わしていない。これが良くないのは分かる。良くないのは分かってはいるが、どうにもできぬ。何か話しをせねばと思うと、途端に舌が痺れる言葉に窮するのだ。女と肩を並べていったいどのような会話をすればいいのか。童貞の俺には作法が分からぬ。せっかく誘いを受けたというのにこれでは無礼もいいところであろう。どうしたものか。


「あ、あの、辛さんは……」


 とりあえずなんでもいいから口を開いてみようと意を決してみたが、声が上ずってしまったうえ言い切る前に詰まった。格好が悪い。


「はい。なんでしょうか」


「しゅ、趣味とかは、あるんでしょうか」


 馬鹿な質問をしたと思った。今日日お見合いでももう少しまともな事を聞くだろう。とんだ間抜けを晒してしまったものだ。後悔と羞恥で顔が赤くなっているのか青くなっているのか分からない。


「趣味ですか。そうですね……」


 にも関わらず、耳を傾け、真剣に考えてくれる一美の優しさには救われる。

 つまらぬ会話に付き合わせてしまったという申し訳なさと強い感謝の思いが込み上げる。


「……なんでしょうか。思いつかないなぁ」


 しかし、返答は肩透かしもいいところであった。無趣味とは何とも味気ない。平素は何をしているのか気になるところではあるが、下手を言えば即ハラスメントと言われかねない昨今の情勢を鑑みるに聞かぬ方がいいのは明白であり、俺は同じように味気なく「そうなんですか」とわざとらしく頷いて見せて会話は一旦途切れた。

 再び口が噤まれる。沈黙による空気が逆流してくるような体感が肺を締め付ける。人がいるのに話しがないというのはかくも苦しい事かと実感するも、肝心の手立てが分からないので苦しみ損である。草木が揺れ、枯葉が落ちる音が聞こえるばかりの空間は針山のようで、悪事を働いているわけでもないのに気が咎めるのだった。


「村瀬さんは」


「はい」


 折に口を開いたのは一美であった。

 俺は彼女の質問に答えるべく、身構え、心構えを立て、備える。


「村瀬さんは、趣味があるんですか」


「あ、趣味。僕のですか」


「はい。村瀬さんの趣味です」


 いまいち締まらぬ会話であったが、だがそれはいい。問題は返答である。

 今のところギターと読書。加えて筋力トレーニングを日課としているが、いずれもまだ日が浅く、また知識もない現状においてそれらを趣味といっていいものかどうか。また、年甲斐もなく脈絡のないものに手を出していると知られるのもまずいような気がする。なんなら、女っ気のない俺の挙動を察し、あぁこの人は女ウケをよくするためにあれこれと始めているんだなと感づかれるかもしれない。

 だが、おうむ返しの要領で「僕もないんです」などと言うのもしらけてしまうだろう。人に趣味を聞いておいて自分はないのかと白眼視されるのはまず間違いないだろうし、いい歳をしてこだわりもないのかと軽蔑される可能性もある。

 難解。いたく解答導かれぬ難問。どう述べるのが正当なのだろうかと、頭を抱えたくなる。


「村瀬さん。どうかしましたか」


「あ、いや……」


 時間切れである。ともかく、何か言わねばなるまい。


「……その、友人の薦めで、ギターと読書を、最近始めました……」


 友人などいないのに、そんな嘘をついた。色々とやってはいるが、それらは全て俺の意志ではないとして自らの軽薄さを秘匿しようとしたのだ。

 姑息な答弁は口に出したのを恥じるくらいに情けなく、無駄に高い自尊心への嫌悪を抱くに十分なものであったが、一美の目にはどのように映ったであろうか。俺はそれを見るのが恐ろしく、ただ項垂れて、落ちて踏まれて粉々になった枯葉を見つめるしかなかった。

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