第20話

 そもそも雇用主である白井さんの許可なくアルバイト勤務を中抜けしていいのだろうかという疑問が湧く。一美いちみはまだ職務に着く前なのだから如何様ともなろうが、俺の場合は現時点で業務の最中であるわけで、それを途中放棄して女と遊ぶなど許されざる淫奔といえよう。如何に白井さんが人の恋路を野次馬気分で覗く下劣であろうともそこは経営者。非正規雇用の身勝手を良しとするとは……


 いや……


「行ってきなよ村瀬君。店は大丈夫だから」


 そうなるだろうなと思った。

 口角を上げ、ヤニとコーヒーで茶かかった歯を見せてサムズアップするのはやや年甲斐もなくみっともなく見えるが、この童心と中年の混成こそが白井さんなのである。であれば、そこに挟める口はない。辟易。閉口。呆れてしまい物言えぬ状況。


 だがいいではないか。それが。


 空いた時間は休憩となり当然時給の計算外となるため薄給貧困の俺には苦しい。しかしそんな事より一美との遊楽に興じられるなどというまたとない千載一遇の好機を逃す方がよほど後悔するだろう。ここは攻めるべきである。


「いいんですか。本当に行きますよ?」


「あぁ。楽しんできなよ」


 最終確認を行い言質は得た。これで何があっても一美と白昼の逃避行に勤しめるというわけである。俺は棚から牡丹餅が落ちてきて茶まで付いてきたような展開に腹の中でほくそ笑み、我が身に起きた奇跡を讃えた。苦節二五年。ようやく神が俺を祝福したのだと、諸手を挙げて賛美歌を讃頌したいくらいであった。俺はとうとう女と並んで往来を闊歩できるまでに至ったのだ。衆人あまねく賑わう商店街を男女の組みで遊歩するなど夢のまた夢であったがこれが実現する日が来たのだ。物心がつきどれほど夢見たから知れない幻想が現実となり、しかもその相手が容姿端麗で胸囲十分な一美であるというのだから万歳歓喜。幸福ここに満ち足り。


「それじゃあ、すみません。お言葉に甘えさせていただきます。辛さん。すぐに準備しますので、待っていてください」


「はい。待ってますね」


 女を待たせるという現実味のない行いに照れながら、俺は有頂天に任せてを雑に着替えをした。仕事用の綿パンとシャツからデニムとパーカーに変ったところでそれほどの差異はないのだが仕事着と私服は分けたい。色気のない衣装であってもこれが現実で私用であるという事を噛みしめたいのだ。


「お待たせしました」


 身支度を終わらせ一美の前へ。この時転倒しかけやや前のめりとなり、眼前に一美の迫力のある胸が置かれた。なんとも嬉しいハプニングではないかと、思わず生唾を呑む。己の胸を見られていると知らずに「早かったですね」と呑気を口にする彼女に対して罪悪の念を感じないでもなかったが不可抗力であるため謝罪はしないでおいた。見たくて見たのであるが決して見ようと思って見たわけではないので論調的には正当であるといえよう。

 体勢を立て直した俺は、横目に横乳を見ながら、「それでは昼に戻ります」と、白井さんに告げ、チャリングクロスを後にした。


 自室を出た時よりも太陽が高い。空気は澄み、二人の呼吸音が聞こえるくらいに静寂としている。


「少し寒いですね」


「そうですね。葉も朱に染まってきました。もう秋です」


「あ、村瀬さんったら、意外と詩人でいらっしゃる」


「そんな事は……」


 かつてこれほどまでに一美と接近した事はなかった。軽快に言葉が走るのが、嬉しくもあり恐ろしくもある。

 また、今更ながら、遊びに行くとはいったものの一体何をしたらいいのか見当もつかない事態に焦燥した。果たして女連れとはどのような道を辿ればいいのか。どれほどの金を使うのか。雑貨屋にでも入り、「いいんじゃないかな」とネックレスでも女に当てがって、気に入ったら買ってつけてやり、その足で映画館に入場して流行りのラブロマンスを鑑賞したら、小洒落た洋食屋で昼を済ませ、後は二人の愛の深まるままに勝手をしていいというのか。いや、しかし、雑貨屋に一美が気にいるネックレスがなかったらどうする。映画館で流行りのラブロマンスが上映していなかったらどうする。入った洋食屋にネズミが出ようものなら台無しではないか。どうしたら上手く運ぶ。どうしたら一美の気を引ける。どうしたら……どうしたら……


 何もかもが未知であり不明で、一々全部が不安の種となっている。当てもなく商店街に向かって歩くものの全くプランがない状態。時間と共に期待と歓喜が灰色に変色していく。せっかく隣に豊乳なる美女が並んでいるというのに何たる体たらくか。


「寒いですけど、いい天気ですね村瀬さん。こんな日に働かなくちゃいけないなんて、人間というのは罪深いものです」


 俺の悩みなど知らぬ一美はまったく明るく、悪くいえば能天気そうに秋晴れを見上げて言葉を弾ませる。重量感のあるバストとは裏腹にふわりとしたスカートはためかせる足取りの軽ささが愛らしく、また官能的でもある。この娘は床でどのように豹変するのかと、つい想像してしまうのは男が持つ共通した罪過の一つであろう。これは原罪といっても差し支えがなく、罪であると同時に悩みの種でもある。近場にいる女の嬌声を想像して身動きが取れなくなる男は、決して少なくはないだろうから(ゴムの固い下着と形の崩れにくいデニムを履いてきて本当によかった)


「あ、あんなところに公園がありますよ村瀬さん。寄っていきましょうよ」


 一美はそう言った途端に小さな公園に向かって駆けていった。風がもう少し強ければスカートが翻り禁断の領域を視認できたかもしれなかったが、残念ながらアネモイの奇跡は起こらなかった。


「一美さん。転びますよ」


 俺はゆるりと後を追い窘めるような事を言ったが一美には馬耳東風のようで、素早く巡っては公園の遊具を品定めして、それが飽きたらベンチに座ってウフフと笑うのであった。


 隣に座っていいものか。罪にならぬか。


 立ち尽くしながら小心の鼓動が高くなっていく。一美は俺が側にいて不快に思わぬだろうかと考えると、迂闊な行動はできなかった。しかし。


「村瀬さんも座りましょうよ」


「え、えぇ。はい」


 その一言により、俺は全てを放棄して一美の隣に座る事を決意した。


「それでは、失礼いたします……」


 至福を感じる以上に、好いた女の傍に腰を下ろすという行為が、身体を震わせた。

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