第19話

 開店となってもまだ憂鬱は続いた。客足芳しくなく静寂とした店内においてホールは俺一人。仁王像の代わりというわけにもいかぬため仕方なく清掃などをするも単調作業は脳にいらぬ追憶を起こす。それは往々にして嫌な記憶であり、気が落ちている際には尚の事その傾向が強く出るのだが、この時俺は学生時分の惨憺さんたんな場面が蘇ってきたのであった。


 それは夏季休暇の前、学期最後の講義が終わりを告げた時である。教壇に立っていた教授が教室から出て行き、そこら中でバケーションを賛美する歓声がこだまし蜂の巣を突いたかのような騒ぎが巻き起こっていた。学徒は皆前後左右にいる者と抱擁し合ってほとばしる若さを互いに確認し、来たる遊興への期待を各々口にしていたのだった。

 だが俺は違った。

 教室中央右端の窓際に陣取り、じっと黙するばかりで俯く。

 周りに人はおらず全くの無音であり、巻き起こる狂乱極まるお祭り騒ぎの中でただ一人平素と変わらぬ陰鬱を貫いているのである。四方八方から聞こえる薄情な友愛の言が交差しない唯一一個の空間に俺はいたのだ。

 程度の覚悟はあったのだが、人の輪に入れぬ悲哀は想像以上に胸を締め付け肺を重くした。実に人恋しく、苦しいのだ。

 入学当初から毛色の違いは感じており、事実、馬の合う人間や興味を惹く者は現れなかった。故に、それならば一人でいてやろうと思ったし、友人ができぬと分かった以上孤独を愛してやろうと誓った。にも関わらず気兼ねなく馬鹿な話を交わせる良き友や恋人を欲してさしまうのまったく浅ましい限りではないかと自分でも承知の上であったが、それでも、寂しいものは寂しく、男であれ女であれ、良き理解者を望んだのであった。

 だがそんな人間いないのである。

 人見知りで趣味もない俺はサークルにも属さず、いや属せず、同じ机で学ぶ人間に声もかけられずに暗とした時を過ごしていたのだからそれも当然で、群れに入れぬまま、ずっと空気のように校内を漂っていたのだった。俺は長期休暇の前に、今更ながらそれをしくじったと認識し、どうしようもなくなってしまったと教室で沈んだ。

 目を落とした先。板書を写したノートの上で握られた拳。そこに生じた紙の皺を見ると、氾濫した川に濁流が渦巻き人々を呑み込んでいるような錯覚が起きる。暑さに耐えながらも書き記した文字の命が失われていくかのような凄惨たる光景に俺は、この幻が周りで騒いでいる青春の眷属達が赴く行楽の地で実際に発生しないかと陰気な想像に浸りニヤと笑った。なんとも卑屈な、薄汚いドブネズミのような悪辣な趣であり、自身でもその露悪さには嫌悪しか浮かばなかったのだがどうしても思考の悪化を止める手立てはなく、流れ行く洪水を厭世のままに眺めたのであった。

 憎悪のページはここからである。

 崩れたノートに仮初めの災害を投影しているだけならばまだよかったのだが、そうはならなかった。

 机から目を離した俺は、入り口近くに、俺と同じく誰とも交わらずに一人でノートを見る者の姿を捉える。それは地味な衣装を纏った、講義の中で何度か見かけた事のある不細工な女であった。

 それを目にした瞬間。まさしく魔が差したと言ってもいい邪が心胆から噴き出した。つまりは、この地味な女を手篭めにして、なんとか二人で夏のアバンチュールを過ごし、波打つ甘い砂浜が見えるホテルの一室で、長年に渡る童貞の歴史に終止符を打たんと画策したのであった。思い立ち、席を立つ。


「もし。夏が始まるね。よければ外に出て一緒に話さないかい。ここはどうもうるさくって」


 人波を掻き分け女に近付いた俺はそんな気障を吐いた。この奇行を俺はプレイボーイだと思っていたのだから笑える話であるが、当時においては大真面目に軟派を装い口説いたつもりであった。実に、実に愚かな事だが、そう考えていたのだ。突然見知らぬ男に話しかけられた女が何を思うか、想像もせずに。


「恥知らず」


 それまでの喧騒が嘘のように静まり返った。教室中に女の声が響いたのだ。

 女は憤慨しながら去って行ってしまった。残された俺に集まる視線。渦中。はたまた火中。いずれにせよ、嘲笑の中心である。


「振られた。振られた」


 誰かがそう囃し立てると、一声は歓声となり、手拍子まで始まって、ポールダンスを踊りたいわけでもないのにいきなりストリップショーのステージに立たされたような辱めを受けたのだった。

 そのあと俺は負け犬のように教室を後にし、部屋に帰って布団を被り、ひたすらにあーあーと叫びを上げたるばかりで、虫のように丸まって頰を濡らした。どうして女に声をかけてしまったのか。人見知りなら人見知りらしく黙っていればよかったのに、どうしてらしからぬ行いをしてしまったのか。自身の過失による大恥に後悔の残穢ざんえが拭いきれず、あの時に戻れたのならばと何度願った事か知れない。


「生きていてもな」


 意識なく落とした言葉は消極的な自死への希望であった。失意と諦観と悔恨からどうしようもなくなり、苦難から解放されるための最も安直な手段を深層心理の底から発したのだろう。死ぬ気は無いが死は救済となり得る。擦り切れた俺の心が久遠の眠りを求めるのはおかしな事ではない。俺は理性では自らの死を拒絶しながらも、腹の底では来たるべき日を待ち望んでいるのではないだろうかと思う時がある。糞尿にまみれたような人生においてはもはや死ぬくらいでしか助かる道はなく絶望は途方もない。こうまで生き詰まると死ぬのもいいかなと、ちらと血迷ってしまう事が多々ある。如何ともし難い苦悩。最近は気分の晴れぬ日も多い。死にたくはないが、死ぬくらいしかできぬ自分の惰弱さが苦しい。


 掃除を始めて一時間が経った。店内は未だ寒々しい。そろそろ一美が来る時間であるが、惨めな気持ちのまま彼女とは会いたくなかった。あれほど会いたく、見たく、聞きたかった彼女の存在を遠ざけたいのは、言ってもいないのに自分の惰弱を口にしているような不面目を晒しているようで、どうにも引け目を感じてしまうのだ。事故とは言わぬまでも、軽い風邪や、急な予定が入ったりして来られなくならないかと願うのだが、そんな都合のいい話は決してないのであった。


「おはようございます」


 美しい声が客のいない店内に響く。玉を転がすような音色が返って白々しく聞こえ、虚しい。誰も訪れぬのはお前のせいだと責められているような気さえする。


「あらら。お客さん。いらっしゃらないんですね」


 一美は面白がっているようにそう言った。客がいない以上やる事もないというのに気楽なものだ。


「おはようシンちゃん。悪いね。多分、しばらくは暇だと思うよ。今調べてみたんだけど、今日、小学校で運動会やってるみたいだから、常連さん達はみんな応援に行ってるみたいで」


 なるほどと、俺はくうを見た。

 チャリングクロスの常連の八割はご婦人であらせられるからそういう事もあるかと合点がいった。


「そうなんですか……なら、バイトに入っても仕方ないですね。しばらく遊んできていいですか」


 爛漫な事である。一美ほどの愛くるしさを持つ者ならば美点となるが、そうでなければただの我儘だ。


「いいよ。ただ、昼頃には来てほしいな。忙しくなったら、連絡するよ」


 一美が言うのであれば白井さんも了承せざるを得まいのだろうがどの道客がいないのにバイトを置いておいても仕方がなく、店主の立場となれば、一美の申し出は渡りに船だったかもしれない。


 しかし事はそれだけではなかった。


「やった。なら、一緒に行きましょう。村瀬さん」


「え、あ、え」


 よもや。一美からのお誘い。

 突然の沙汰に俺はどうしていいのかわからず、困惑の嘆を吃りながら発するしかなかった。

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