第18話

 目覚めとともに思い出されたのは昨夜に失われた五百円と缶コーヒー二つ分の金の事であった。

 どうやら俺は長く続いている極貧の生活から金を使うという行為に背信めいた抵抗が生じるらしく、消費に対して遅効性の毒が廻り拒絶反応が精神面に現れるようなのである。何の気なしに財布から出してしまったがこれは大変な出費。残額は数える程の小銭しかなくほぼ文無しとなってしまった。自身の浅慮によって数日の間はコーヒーも甘味もなしだと思うと慚愧の念に堪えない。その場限りのつまらぬ情と空気に麻痺して血肉ともいえる金を簡単に吐き出してしまうとは放蕩もいいところ。銭のない身でありながららしからぬ傾奇をしてしまったものだと猛省に徹する。

 が、時は有限であるわけだからいつまでも伏せって過去を悔いているわけにもいかない。何せ本日はアルバイト。朝も早くから起床したのもそのためである。働かねば金は得られぬのだから貧困層は働くしかない。貧者には嘆いている暇さえないのだ。日々是生苦。下流の水は苦いが啜らねば死ぬ。

 カーテンを開け曙過ぎの来光を浴びても心気は辛気。だが病気も怪我もしていないのだからそれで十分。身体に異常がなければ出勤せねばならぬだろう。外袋に赤札が貼られたパンを齧り、水を飲み、歯を磨いて外出着に袖を通して部屋を出る。出勤である。安月給の給仕業における望みは一美いちみの活気溌剌とボリュームのある胸ばかり。それは触れる事すらできぬ天上の月であるが、触れようと手を伸ばす事は止められぬ。虚像の方がまだ鮮明に見えるような果てしない遠影を愛でる愚に如何なる意味があるのかは俺にも分からぬ。だが、その実像に一寸でも指先をつたわせる事ができたらと、もしかしたら、なにかの間違いで月がふわりと目の前に下降してこないかと、土下座でもすればヤらせてくれないだろうかと、そんな不毛を思うのであった。目覚めたての、うつつな妄想である。


 夢見がちな朝はいつも失望が伴う。部屋を出て見えるのは灰色のコンクリート。甘ったるいパンの後味が残るままの道中は苦々しく、刻々と人生の値段が下げられていくような思いがする。たまにすれ違う人を目にすると、いい時計を、いい靴を、いいコートを身に付けていて、安いデニムとパーカー姿の自分と比べてしまう。彼らの持つ高級な装飾は、別の道を選んでいた俺が手にしていたものではないかと道理に合わぬ妬みを抱き、人に言えぬ鬱屈を抱えてしまうのだ。あぁ、あんな拵えに洒落たら、きっと女など容易くものにでき妾にも困らぬだろうなと勝手を腹の中に落とすと、消化しきれぬこの世界への憎悪が煮え繰り返る。不条理を嘆く前に、己の不足を鑑みなければならぬとは分かっているのだが、どうにも俺は、どれだけ一所懸命となっても、社会に、一般に馴染める気がしないのだ。


 何も考えず生きてきて、何も考えずに学校に通い、親の言う通りにしてきた俺に世を生きる力などあるはずもない。やりたい事。好きな事。目指すべき姿や理想。信条。信念。志。そんなものを持たず、理解もできず、ただ目の前に課された問題を教わったまま解いていきた結果がこの無力である。在学中に赴いた企業の面接で俺はその不適合性を実感した。

 どんな仕事に就きたいとか、何ができるのかとかちっとも巡らさず、ただその場しのぎばかりを尽くしてきた人間が組織などに属せるわけがない。案の定行く先々の企業で面接官に人格を完全否定され自分が如何に価値のない存在であるかを痛感した。俺は社会の歯車にもなれぬ愚鈍な男なのだ。ごく一般的な、人が持って当然の安寧すら得る事のできない虫けら以下の屑なのだ。それでなぜ生きていなければならないのか。なぜ社会は俺に生を強要するのか。お前は人間失格だと断罪し死刑に処してくれればどれだけかが楽か知れない。妬みと劣等の苦しみは心を焦がし抉る。生き地獄といっても過言ではないだろう。その渋難を行くは、誠、堪え難い。


 包むような陽射しとは裏腹に苦悩を抱え歩く。この精神状態で八時間の労働をしなくてはならないと思うと絶叫が出かける。しかし、一大人としてそれは許されない。世に生きる者として逸脱は禁忌。如何に悶絶僻地の境地にあっても法規に反していいのは狂人だけである。幸か不幸か、困苦欠乏にあっても俺はまだ正気。であれば、やはり人としての規則に則り生活するしかない。金も時間も与えてくれない社会への従属を強制させられている理不尽には、目を瞑ることにする。



 苦渋を背負ったまま歩いたせいか、チャリングクロスに辿り着くまでに随分経過してしまった。遅刻こそ免れたものの時間的な余裕はなく、また心労も重い。


「おはよう村瀬君。今日もよろしく」


「……よろしくお願いします」


 白井さんの笑顔が障る。

 やっかみである事は重々承知であるが、一人で、好きな仕事をやって楽しく生きていけるのが羨ましく、また、憎らしいのだ。きっとこの人はあらゆる困難に打ち勝つ力を持っているのだろうと思うと僻みが抑えきれない。

 とはいえ、それを本人に伝えるほど恥を知らないわけでもなく、また常識も弁えてはいる。面と向かって「なぜ貴方は幸福で俺は不幸なんだ」とのたまったところで事態が好転するわけでもない。不平不満は口に出すだけで卑屈が増す。それを他人に聞かせようものなら目も当てられないほど堕落しよう。精神的落伍者が女に好かれるわけがないのだから、俺はいつも歯を食いしばり喉元まで迫り上がってくる悪心を留めている。その辛苦を知る者はきっといない。


「今日もシンちゃんが十時から入ってくれるから、それまでよろしく」


「……はい」


 日常におけるいつもの会話。白井さんにとっては変哲もない毎日の内の一日なのだろう。だが俺にとっては死ぬほど辛い一日である。その意識の乖離をどうにかして結合させなくてはならないのだが、その調整をするのが悲嘆に暮れる俺の方というのだから、苦心著しい。


「あ、そういえば、どうだったの。石川堂のお孫さん」


「……僕は本を買いに行っただけです」


 貴方のせいで散々でしたとはいえない。だが、「へぇ」と軽薄に笑う白井さんの姿には少しばかり腹が立った。もっとも、だからといって俺に何ができるのでもないのだが。


「まぁ、ほどほどにね」


「……」


 厨房に引っ込んで行く白井さんの背中を睨みながら俺は開店の準備をした。変わらぬ毎日に変わらぬ鬱屈。世界は今日もくそったれである。

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