第16話

 ギクシャクと器具を扱い息を切らす事一時間と半。達成感と開放感に酔いしれるひととき、児戯にも等しい粗末な鍛錬であるが、筋肉を動かし終えて飲む水はひとしおである。例のたくましい女は俺の二倍、三倍、いや五倍のトレーニングを積み豪快に帰っていったが、わだかまりも何もないように鍛え、そして去っていく様子は女傑という言葉がぴったりと当てはまるのであった。名も歳も知らぬ顔見知り以前の関係であるが、機会があれば一度、話しでもしたいものである。


「お疲れ様です。今日はもう終わりですか」


 そう言って傍に寄って来たのは越戸である。俺が一人ベンチで休んでいるのを案じてわざわざ声をかけにきてくれたのだろうがいらぬお世話で、ともすれば無視の制裁を加えてもいいように思えたが彼の善意に悪意を持って応えるのはさすがに人徳を損なう所業であり意業に反するものであるから、俺はさもくたくたに疲労したような体を装い「はい」と力なく返事をしたのだった。


「これからは、またデートですか。いや、羨ましい」


 ニヤと笑い話を蒸し返す越戸。情緒の欠片もないアウトスポークンな態度に僻遠を隠せず眉をひそめてしまったが俯いていたため本人に表情を読まれる事はないだろう。

 越戸の無遠慮無作法は気に入らないが、わざわざ角を立てるのも馬鹿馬鹿しい。まったく立派なやかまし屋で耳に毒な台詞ばかりを並べ立てるのだが、俺はどうにもこの青年を憎みきれないのだった。それは天性の愛らしさとでも言おうか、単なる人たらしと形容するのが適切なのか、判断は各人の価値観に依るところが大きいとは思うものの、結局はその人となりに絆されてしまうのだからどちらでもいいだろう。同じくデリカシーが見られない白井さんとは異なる性質の親愛を向けてしまうのは、俺に友人と呼べる人間がいないため、つい気心の隅を許してしまうからのような気がする。


「今日は帰ります。明日は仕事ですから」


 故に俺は越戸の機嫌を損ねぬよう、それらしい文句をそれらしい声色でそれらしく述べ、ベンチから立ち上がった。「お帰りですか」という越戸の問いに右手を上げて返したのはいささか気障ったらしく感じられたが、俺の方が歳上なのだし、たまにはいいだろうと開き直りトレーニングルームを後にしたのだった。




 シャワーを浴び外に出ると遠方に赤光が煌めいている。

 ちょいと一杯と洒落込みたいところだが懐の紐は固くしておかなければならない。無闇に酔って束の間の快楽による忘我よりも明日への礎を建てんと耐え忍ぶのが今は肝要。金がないなら使わなければいい。散財の果ての悦はしばらくは遠くに置くとする。

 誘惑に負けていては道は閉ざされたまた。身を刺すような吹雪を耐えた者にこそ灼熱の太陽が祝福を注ぐ。この時期ならお銚子ちょうだいと燗をつけてもらって、酒盗なんかを舐めながら猪口を傾けて喉を温めたいものだが、左様な贅沢は絶たねばならない。少なくともギターを買うまでは節制に尽くし、困窮貧者の飢餓苦を立場を甘んじて受容しなければならないであろう。後ろ髪を引かれる思いだが致し方なし。全てはヤるためモテるため。

 しかし赤色の蜜はひたすらに俺のイドを刺激する事から、ここに留まるのは目の毒だと俺は足を早める事にした。宅まで十分もない。ほんの僅かな忍耐で、今日も無駄金を使わず終えられる。


 帰路にも無数の飲み屋が軒を連ねているため酔ってもいないのに千鳥足となりつつ道を急いでいると、一つ目を引くものを見た。夜長の往来に灯る、占の字面の浮かぶ行灯。それを見るに簡単な机と椅子を立てて座しているいるのは易者である事に間違いはなかった。

 こんなところで珍しいと、俺は立ち止まり遠巻きに小さな卜場を見る。だが、人々の足は留まる事なく過ぎていくばかりで誰も易者に見向きもしない。様子を伺うに、あの易者はどうやら商い芳しくないようである。他人ではなく自分の行く末を占った方がいいのではないかとさえ考えてしまうくらいである。というより、見るからに神秘性もなく頼り甲斐もなさそうな小柄で挙動不審な態度は凡そ占い師など向いているようには思えず、然るに、大人しく人目につかない作業に従事ていた方が余程お似合いであろう。いったいどうして斯様な小動物のような人間が水物な商売に手を出したのか疑問が浮かぶのであったが、同時に、俺はその人間の顔を正面に捉え、それが誰であるのか記憶の奔流の中で掴んだのであった。

 狩村 明美。彼女は、確かそんな名だった。

 中、高と何度か同じ教室で文机を並べていた事を覚えている。頭はそれほど良いわけではなく運動はお粗末。特別目立つ特徴も奇異な才があるわけでもなく、話をしたところで別段面白くもない、退屈な女であった。

 彼女とは十代の時分に一言二言交わしたくらいであったのだが、女と口を聞いて心音が高鳴らなかったのは昔も今も狩村ただ一人である。殊更目を背けるような醜女でもなければ耳を塞ぎたくなるような悪声でもないというのに不思議なものだと当時から思っていたのだが、きっと、狩村とは根本的な部分で合致しないのか、あるいは、逆に符合のように一致しているせいで細胞が番になる事を拒否しているのかもしれない。

 そんな狩村がなぜ道端で易だか卜だかしているのかは俺の知るところではないのだが、もし彼女が俺を覚えていたとしたら目の前を素通りするのも気まずいし薄情な気がして、このまま進んでいいのかどうか迷いが生じた。

 仮に俺が並みの収入を持っていたのであれば相でも命でも見せてやらないでもないのだが、生憎とほぼ素寒貧であるわけだからそれは叶わない。ともすれば、愛想笑いと世間話で茶を濁し早々とお暇させていただく形となろうが、そうなるとまったく自分はとんだ惨めではないかと嘆き鬱となるのだから、ここは道を変え、見かけた事さえ忘れて別々の道を歩んだままにしておいた方が得策なのではないかという考えが浮かんだのである。

 しかし、だからといってわざとらしく遠回りをするのも、それはそれで逃亡しているようで情けなく、また女々しくも思えた。そこには、一回千円程度、交遊費と割り切ってもいいのではないかという男気もあった。


 ここまで思案すると一つの不安が明確となった。

 そもそも狩村は俺を覚えているのか。

 頭を過ぎる当然の疑問。もし話しかけて「誰かしら」などと返されたら赤っ恥もいいところ。となれば、複合的に判断すれば、引き返した方が安全ではないか。

 いや。引き返した方がいい。その方が絶対己がためだ。何が男気か。よく知りもしない人間に薄情を働いたところでなんの罰があろうか。

 俺はそうした言い訳を立て、揺れる意思に芯を通した。進路を変え、かつての級友との邂逅を回避する道を選んだのだ。

 そうと決まれば一目散と踵を返し抜き足差し足を交えた忍び足で俺はその場を立ち去ろうとした。しかし、人生とはまこと上手くいかぬもので、計画や願望というのは往々にして、目には見えぬ不思議な力により崩壊していくものなのであった。


「あの……」


「……はい」


 背後から引き留める一声に俺は振り返る。

 あぁ、懐かしなという感慨も浮かばぬその女の声は、もちろん……


「懐かしいね。覚えてるかしら。私、中、高と一緒だった……」


「……狩村さん」


「あ、覚えてた。嬉しい」


 面倒が増えたと、俺はそう思った。

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