第15話

 トレーニングルームでは既に何人かが器具を動かし汗を流していた。知り合いというわけでもないのだが皆々よく見る面子であり、心許せるという程ではないにしてもどこか定住場所に帰ってきたような安心感がある。


「村瀬さんこんばんは」


「どうも」


 声をかけてきたのはトレーナーの越戸こえどであった。

 彼は二つ年下の青年で、幼い顔立ちながら血色が良く筋骨逞しい好青年である。歳も近いという事で何かと気にかけてくれるのだが、彼の持つ生粋の陽気は俺にとって時に眩し過ぎ眩む事も多々あり、非常に申し訳ないのだがあまり関わり合いたくない。


「昨日いらっしゃると思っていたんですけど、待ちぼうけちゃいましたよ」


「はぁ、すみません……伺いたかったのですが、ちょっと用事が……


「あ、そうなんですか。デートですか」


「いやぁ……」


 こういうところである。

 そもそも俺がモテないと分かるだろうに、どうして左様な台詞を吐けるのかまず理解できない。仮に本当に純粋に相当に頭が鈍く察する能力に劣るとしても、俺とは客同士なのであるから軽口にしろ話題は選ばなければならないし、まず前提の問題として距離が近い。頭の構造が異なるのか、はたまた生きてきた環境のせいなのか、兎にも角にもこの越戸という青年には苦手意識がある。嫌悪とまではいかず、気まぐれで談話に興じる事もないにはないのだが、それにしてももう少し他人行儀に接していただきたいというのが本音で、慎みのない部分を自覚していただきたいと思っている。受付の檜垣女に比べたら、可愛いものだが。


 ところでその越戸が言ったデートという言葉に俺は少しばかりの趣意を催した。

 男と女が共に食事をするのをデートというならば、揚羽と過ごした昨夜の時間はまさしくそれである。俺は揚羽と、あの妖艶な女ギタリストと酒を酌み交わしたのだ。これをデートと言わずになんと言うのか。何とも言えぬだろう。

 そう。デートだ。俺は揚羽とデートをしたのだ。あの美人で、艶やかで、どこか人を小馬鹿にしているようなあの揚羽とデートをしたのである。

 一時の高揚に偽りの確信を得ると、俺は俄然越戸に広言を巻きたくて堪らなくなったのだった。揚羽との一夜を公表し、羨望の眼差しを向けられたいと願った。


「デートでした」


「お。本当ですか」


 よせばいいのに得意気に誇大妄想をのたまってしまった。越戸の気持ちいい反応が良心を呵責し罪悪感を駆り立て、先まで湧いていた虚栄が瓦解していき、揚羽とデートをしたという法螺を恥じる。


「どんな人なんですか。美人ですか」


「……まぁ」


「へぇ。いいですね。美人。今度写真見せてくださいよ」


「あ、はい……」


 写真を見せろという要求に、つい、つまらぬ見栄で頷いてしまった。越戸と私用で会う事はないだろうから恐らくありもしない写真を見せなくてはならない機会はないとは思うが、厄介な約束をしてしまったもである。虚栄を誇示したところで自尊心は満たされぬというのに、我ながら愚かな事をした。


「羨ましいなぁ。僕もあやかりたいもんです」


「あ、はい……」


「どういった人なんですか」


「あ、はい。僕、ギターやってまして、その関係で……」


「え、村瀬さん。ギターをやってらっしゃる。それは初耳ですね。かっこいいじゃないですか。長い間やっていらっしゃるんですか」


「あ、はい……」


 泥沼にはまっていく感じがした。

 俺が吐いた言葉はいずれも注釈を付け、補足の説明をせねばならぬ事ばかりである。誇張はなはだしく、言えば言うほど惨めとなり、しかし今更覆すわけにもいかず、嫌悪の中で越戸の話に嘘を塗り固めて合わせるしかなかったのだった。もし述べた内容が全て虚偽に等しい放言だと知れたら俺はバラクーダを退会せざるを得ない。

 まだモテていない、ヤれていないのにも関わらずである。志半ばでの断念は望むところではないが、それでも、あいつは虚言癖のある見え坊だと後ろ指を指されるくらいならば消えてしまった方がいいだろう。小さな自尊心まで失ってはもはや目も当てられぬ程の落ちぶれに転落するからである。何も持たない、成し得ない生であるが、生き意地くらいは貫きたいのだ。それが例え、如何に馬鹿らしく思えたとして、俺はその小さな矜持にすがるしか他ない。薄い面子くやいしか、俺にはないのだから。


「あ、そうだ。僕の知り合いにライブスタジオ経営してる人がいるんですけど、ライブなんかやりますか。お金も含めて少しは口利けますよ」


「あ、それはちょっと……」


「そうですか」


 さすがにそこまで男を見せる事はできない。小さな意地はハッタリまで。それ以上は詐欺師の所業である。


「でも、いいですねぇ……僕も女の人とデートしたいなぁ……」


「あ、はい……あ……」



 越戸が再び話しを戻した時、俺は何者かに肩を掴まれ二歩ほど引き出されてしまった。何事かと振り返れば、巨大。上背それほどでもないが、充分に肉の詰まった肉体が腕を伸ばし、俺の肩に指を食い込ませたのである。


「ちょっと。邪魔だよ。どいてくれ。レッグカールしたいんだよ」


「あ、はい。すみません……」


 利用者に苦言を呈されてしまった。しかしそれも仕方ない。なにせ俺と越戸はマシンの前で延々と無駄話をしていたのである。真面目にトレーニングをしたい人間にしてみればさぞかし邪魔であろう。悪い事をしたと、俺はただちにその場から退き自分のカリキュラムをこなそうと思ったが、少々バツが悪く、喉が乾いてもいないのに水を一口含んだ。しかし、それにしても……


「凄いな……」


 振り返ると、先の筋骨隆々の人間が重りを増量させ軽々と脚を上下させている。つい見惚れてしまう、様になる画は、俺を感嘆させるに十分な猛々しさを纏っていた。


「あの人常連さんなんですけど、いらっしゃる度に凄い勢いでトレーニングしてるんですよね」


 越戸はまじまじと見つめながらそう言った。なるほど。あの見事な体躯も納得である。しかも何が凄いかというと、それは……


「女であれは、凄いですね」


 そう。古代の男性彫刻が動き出したような素晴らしき肉体を持つあの人間は、女なのであった。

 俺は男としての自信を失いかけたが、それ以上にあの女の肉体に魅せられてしまった。肉体美というものは、かくも目を惹くものだと、見識が広がったように思えた。

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