第14話

 石川堂を後にしてから陽は随分と動きいつの間にやら繊月が濃藍の空に描かれていた。

 本に栞を挟み眺める彼方。遠方の巻雲に色付く茜の残滓。消えゆく今日に明日を儚むセンチメンタル。いつだって暮れの風は心に障る。傷心は未だ癒えず沈むばかり。どうしたらいいのかという自問にどうしようもないという自答を投げ、終わる。

 選択を誤った。品性下劣な白井さんがすすめる本などまともなものであるはずがなかったではないかとただただ後悔するばかり。本の中身は好みであったが間違っても女の前で晒していい趣味ではない。この俗物図鑑とやらのインモラルは闇市のような場所でひっそりと手に入れ部屋の片隅で一人ほくそ笑むのが正解である。それを俺は揖良ゆうらの目の前で欲しいとわざわざ宣言し金を出して買ってしまったのだからいけない。思い出しても堪えるあの表情。抱いていた感情は恐らく軽蔑。手にした本を鑑みれば、見る目が変わるのも仕方なし。


 カーテンを閉め明かりを灯すと散らかった部屋が明確となる。小汚いワンルームを照らす安い光がいつも通りの乱雑さを俺に突きつけ物悲しく、雪原の真っ只中より寒々しく感じる。昔父親が、雨風がしのげ温かいご飯が食べられるだけで幸せだと諭してきた事があったが、世の中には不自由なくそれらを満たし、あまつさえそれ以上の幸福を甘受している天人のような輩がいるわせだし、そうでなくとも、日本に住む多数においては多少の贅を許されるくらいの環境に身を置いていよう。なれば、雨風がしのげ温かいご飯が食べられるだけの生活とは相対的に見て不幸なのではないかと俺は思うのである。ともなれば、父親の言う幸せとは、くびり殺される蟻を見ながら「人間でよかった」と不可思議な安堵を得るのと同程度の無益な思考ではないかと釈然とせず、賛同ができない。

 やはり俺はそんな偽りの謙虚に生きるのではなく、ごく普通の生活において、人並みの労働と幸福を甘受したい。

 朝七時に起きて朝食を済ませ、身形を整え出勤し九時に仕事を開始。日によって怒られたり怒れなかったり、時には褒められたりしながら、出世などせず安寧な立場に身を置き、昼には社食か、なければ近くの定食屋で気軽に千円の膳を用意させて腹を満たして、午後からは気怠く、あるいは納期の迫る業務に追われながら忙しなく、合間のコーヒーで一息を吐き、十八時となれば素晴らしき定時帰宅と洒落込むか、怨嗟の募る残業に恨み言を述べ、帰りにはジムに寄り、或いは赤提灯で俗世の鬱憤を洗い流し、家に帰ると、籍の何処はともかくとして女が待っていて、その日の愚痴などに花咲かせ、一通り胸襟を開けばいつの間にか愛を求め、夜な夜なと花を湿らせ、今日という日に満足するような、そうした生活を甘受したいのである。

 こうした生活こそが一般的な、保証されるべき市民の幸福なのではないだろうか。

 少なくとも俺が子供の頃に見ていたテレビドラマではそうだった。皆一様に、当たり前にある幸せがある中で試練に臨んだり壁にぶつかったりしていたのだ。俺は、将来成長し自分が歳を重ねたらそんな人生が自分にも待っていると、一抹の不安もなしに生きてきたのである。

 それが現実はどうだろう。

 いざ大人になってみたらどうだろう。

 職には就けない。金はない。日々食うのもやっとで七難八苦四苦八苦七転八倒五里霧中。ただただ一人。ただただ九死。薄氷を踏むような生活。好転の兆しなし。生苦ここに極まれり。


「生は苦しみ世は地獄……はて……誰の言葉だったか……」


 卓に散らばる塵を眺めつい呟く。自己の否定がまろび出る因循いんじゅんは百害千害。カーテンから漏れ出ず闇と同じで不安ばかりが滲み出る。

 これはまずい。危機を覚えた俺は着替えをまとめ外出の用意をする。昨日不意にしたジムへ行くのだ。心の暗雲を晴らすには身体を動かすに限る。肉体の疲労は一時的な逃避に役立つのだ。モテるために始めた、他に意味も目的もない鍛錬であったが、思わぬ副次効果があったものだ。殊更運動が好きなわけでもないし今から何らかの競技に打ち込みたいとは毛頭思わぬのだが、ヤるための先行投資を兼ねた健康療法と思えば高い月謝も致し方なしといったところ。部屋着を畳み、目に付いた塵を屑篭へ放り投げると、俺は重い身体を引きずるようにして自室を後にした。


 半日を読書に使ったせいか鉛のように筋肉が硬質化していた。細い俺の体躯には、些か、荷が重かった。







 自室とチャリングクロスの丁度中間にあるジムはバラクーダといった。

 小規模だが設備は揃っており、トレーニングメニューの計画まで面倒を見てくれるのだからありがたい。シャワー完備で茶と水が飲み放題なのも利点である。プロフェッショナルを目指すわけでもなし、俺のような趣味半分遊び半分の人間にはもってこいの場であった。


 ただ、一点。一点だけ、不満がある。


「どうも、よろしくお願いします」


「はい。ありがとうございます。お預かりします」


 受付嬢に会員カードを渡すと目一杯の愛想を持ってロッカーの鍵を渡されたのだが、どうにもそれを直視できず、目を泳がした。というのも、実はこの受付嬢こそ、俺がバラクーダに対して抱いている唯一の不満だからである。カウンター越しに座って番をしている受付嬢は、檜垣女ひがきおんなのような相をしており大変不気味で恐ろしい。見ようによっては凛とした中年女に映るかもしれぬが俺は苦手で、できれば今生の限りでもいいから視界に入れたくないのだが、何故かいつも来る度に入口で待ち構えており内心辟易としているのであった。俺はこの女と受け答えする度に袖振り合うのも他生の縁という言葉を思い出し、カードやロッカーの鍵の受け渡しの際なるべく手が重ならないようにしている。その甲斐あってか、今のところ、檜垣女の温もりを感じた事はない。


「では、ごゆっくり」


「はい。ありがとうございます」


 檜垣女に見送られロッカーへ行く。

 声まで不気味で不吉な気配を感じるが、目を閉じて耳を塞ぐわけにもいかないので、せめて御仏に助けを請うべく南無阿弥陀と唱えるまでが日課となっている。別段信心があるわけでもないのだが、鰯の頭も魔除けになるのだから、心こもらぬ念仏とてそれなりのご利益は見込めるだろう。

 今日も今日とての儀式。今日も今日とてのジムトレーニング。変わらぬ毎日は、今日も今日とて不変である。

 この鬱屈が汗とともに綺麗さっぱり流れたらいいと思うと、どうもおかしくなって乾いた笑いが出てしまい、人目が気になるのだった。

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