第11話

 朝と昼の間。沼にはまったような足取りは徐々に軽快となり、駅に着くころにはすっかりと万全を取り戻していた。これで揖良ゆうらとも不備なく対面できようと思った矢先、不調を訴えていた腹の虫が復調し音を上げ始める。有り体に言えば腹が減ったのだ。昨晩から何も食べていないのだからそれも当然。これはどこぞの店に入り腹を満たさねば収まらぬ。

 あぁ。御誂え向きに立ち食い蕎麦屋があるではないか。これはもうあそこでコロッケ蕎麦を堪能せよという天啓のような気がしてならない。せっかくの休日、ここは食指が伸びるままに食を楽しべきだろうと思い至る。

 しかし。しかしだ。俺は出費を切り詰めギターを買うと決めたではないか。ここで欲望に負けてしまっていいのだろうか。

 ただでさえ昨夜に想定外の飲み代が出ていきいきなり負債が溜まっている現在。一円たりとで無駄にはできぬと理解している中で、本当にコロッケ蕎麦などを食べるために金を出してしまっていいものだろうか。

 せめぎ合う理性と情念。飯は食いたしギターは惜しし。あちらを立てればこちらが立たぬこの状況。如何にして脱したものかと思案思慮を重ねようにも、空っぽの胃が邪魔をする。押し寄せるジレンマ。パラドクス。

 しかし考え足らぬとあってもコロッケ蕎麦を食うところの結論は明確。半ばの挫折。救いなし。ここで挫けようものなら意志薄弱もいいところ。男の意地も貫けぬようではモテる事など到底不可能ではないか。それに断食における苦痛はせいぜい最初の三日。後は身体が勝手に慣れるというもの。しからば、今さえ堪え尽くせばいいだけなのだ。斯様なところで妥協しては何ともならぬ。是が非でも空腹に耐え忍び、晴れてギターを買う礎としなければ俺に明日はない。


 反面、たかだか数百円我慢したところで仔細はないのではなかろうかとも思う。

 今ここで出し惜しみ惨めなままで揖良に顔を見せるよりも、食うもの食って溌剌とした気概を見せた方が好印象を与えるのではなかろうか。だいたいギターなど、揚羽が言う通り指五本で事足りる。如何に困窮貧者の俺とはいえ、そこまで徹底せずとも購入できぬ額であり、得るは容易い。


 そう思うと、我慢するのがなんだか馬鹿馬鹿しくなってきた。人間も所詮は動物。飢えには勝てぬ。ならばと俺はままよと唱え、立ち食い蕎麦屋に足を踏み入れかけた。かけたのだが……


 いや待てしかし。


 すんでのところで思い留まる。果たして本当にギターを手に入れるのは容易か。確かに無理をすれば5000円の支払いは可能であるが、しかし、されど5000円。月の電気使用料にほぼ等しいその金額を、そう簡単に手放していいものだろうか。

 惜しい。

 今なら皮算用で安易に払う。買う。と、いい気になっているのだが、きっといざとなったら俺は5000円を出し惜しむに違いない。焼肉バイキング。スーパー銭湯。生ビールなどの誘惑を断ち切れる自身がないのである。

 そうなると、やはり貯え余剰となった分で買うのが最善なような気がしてくるのだった。人間とは不思議なもので、程度の余裕があればさして贅沢をしなくとも仏の心を持っていられるものだが、一度貧し窮すると、どうにかして贅沢をしてやろう。欲望を満たしてやろうと躍起となり、つい目先にある安易な快楽に手を出してしまいがちなのである。殊更俺はその向きが強く、耐え抜く事は、経験上まずできないと予想がつく。

 だが今なら、初志貫徹の初である今ならばまだ辛うじてひもじさにも抗う事ができる。例えゆくゆく我慢ならず暴食の愚を犯したとしても胃に詰め込める量など知れているわけだから掛かる金にも天井がある。これから控える出費をその分そのまま横に流せば幾らか浮くし、悪くてとんとん。負にはならぬだろう。ここは一旦待つべきか。いや、待つべきだろう。それが人間の理知である。分かってはいる。当然その通りだ。ここは空腹をおして電車に駆け込み、本を買うついでに揖良と世間話に花を咲かせて、何食わぬ顔をして颯爽と帰路につき、自室でもやしでも炒めて満足とするのが正道である。安易に道を外すわけにはいかない。俺は今日から節制に努めギターを買いモテてヤルのだ。こんなところで躓いているわけには断じていかん。何としても、腹の虫には耐えてもらわねば……いやいや。たったの数百円。今日一日他に何も食べなければなんとでも……


 堂々巡りに出口は見えず。いずれもいずれの論が立つ。どうしたものか、どうなるものか。小銭の悩みがまるで岐路。二十五年の歳月を経て辿る生がこれかと思うとやるせない。


 我考える故に……なんだったか……


 デカルトじみた迷い。

 そんな風に立ち食い蕎麦屋の前で右往左往と悩んでいると、肩を叩き俺の名を呼ぶ者が現れた。


「おや。村瀬君じゃないか。おはよう」


「白井さん。おはようございます。お早いですね」


 相手は白井さんであった。この日、チャリングクロスは月に一度の定休日であるから散歩にでも出ていたのだろう。何も休日に会うような人でもなかったが、会ってしまった以上は礼儀を持たねばならぬ。人の世とはしがらみだらけだ。


「早いって言っても、もう十一時前だよ」


 呆れたような白井さんの微笑に俺も軽くはにかみを返す。確かにいつの間にやらお昼る時近く。蕎麦屋前で随分と葛藤していたようだ。


「それより、どこか行くのかい?」


「はい。暇なので、小説でも買いに行こうかと」


「小説……あぁそうか。さては石川堂だろう。店番やってるお孫さん。可愛いからなぁ」


「あ、いや……」


 石川堂とは揖良のいる店である。

 白井さんが何故その店を知っているのか。そして何故俺が揖良を目当てにしていると分かるのか。まるで千里眼で覗いたかのような明察に言葉が出ない。


「女遊びはほどほどににしときなよ村瀬君。二兎を追う者は一兎をも得ず。一途が一番。それが大事。女を追って所帯を崩した俺が言うんだから間違いないんだ。しんちゃんか石川さんとこのお孫さん。どちらかにしなよ」


「あ、まあ、はい……」


 さすがに揚羽の存在は存ぜぬようだったが、何にせよ、こちらの不断が看破されているのではぐうの音もでない。人生経験から得た一家言。しかと胸に刻むとしよう。


「ところで村瀬君はどんな本を読むんだい。俺もちょいと昔に読書家を自称していた時期があったものだから、気になるところだよ」


「あぁ。実は、そんなに知らないんですよ。最近読み始めたんです。逆に何かお勧めを教えていただきたいくらいでして……」


「なるほど。さては不純な動機の趣味だな」


 鋭い。だがはっきりと言葉にだすのはあまりに配慮がない。やはり白井さんは少々デリカシーに欠ける。


「まぁ、何かを始めるに当たって必要なのは動機じゃない。挑戦する理由に貴賤はないのだから気にする必要はないよ」


「はぁ……」


 もっともらしい事言うものだと感心したが。なんとなく欺瞞的な印象を受けてしまうのは俺が白井さんにやや軽蔑の感情を持っているからだろう。軟派な人間とはどうにも相性が悪い。


「では、俺はそろそろ失礼するよ。恋路を邪魔して馬に蹴られては堪らないからね。ちなみにお勧めの小説は筒井康隆の俗物図鑑というのだけれど、せっかく本屋に行くなら探してみるといいよ。それじゃあ」


「あ、はい……」


 雑に話しを区切って去っていく白井さんを見送ると、話をしたせいか、腹の虫がおとなしくなっているの気付く。これなら飯も要らぬだろうと、俺は切符を買って改札を通り、ホームのベンチに座って線路を眺めた。電車が着くまで十五分。その間、再び空腹が苛まれたのは言うまでもない。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る