第12話

 揖良のいる石川堂は電車で二つ行った先にある。

 駅を降り歩く事10分。市街から離れたとある団地には未だに長屋などが軒を連ねる時代錯誤な一角が存在する。

 そこは随分と寂れており、実際に人が住んでいるのかいないのかは知る由もないのだが、一度足を踏み入れると嫌に静かなわりにどこかしらから覗かれているような感覚があるのだった。これがまた大変不気味で薄気味悪く、初めて訪れた時などは知らずのうちに黄泉の地へと踏み込んでしまったのではないかと震えてしまうくらいで、晴れているのに薄暗く、乾いているのにどこか湿気っている街角は俺のイメージする冥府そのままであった。ここで物を食ったら二度とこの区画から出られぬのではないかなどと馬鹿に考えが飛躍した際にはさすがに苦い笑みを浮かべたものだが、それでも居心地が悪いのはやはり事実で変わりなく、早々に退散したいと足早に道を進んだ事を覚えている。それがいったいいつ頃だったかというとつい二か月前の事である。

 陰に入っていた俺は散歩がてらに適当に死ねる場所でもないかと彷徨い歩いていた。実際に死にたいか死にたくないかは置いておいて、精神が摩耗し弱りきると俺は死に場所を探す習性があるのだが、その日もその習性に従い無闇に歩き回り、気が付いたらこの辺りにいたのだった。常軌が失われていても分かる違和感。ここは何かおかしいと気付いた時にはもう遅い。無数に刺さる視線の感覚。にも関わらず立ち並ぶ民家の中は伺えず人影も見えない。空は黄昏。夜は近い。遠方から聞こえる犬の遠吠えは、終焉を告げるラッパの音のようである。

 恥ずかしい話ではあるが、現実においてホラー映画じみた恐怖を齢二十にして感じた。昔、意地悪な従兄弟に観せられたエルム街の悪夢のトラウマが蘇り、背後で爪を戦慄かせるフレディを想像してしまったのだ。身の毛がよだち止まっておれず、ともかくこの一帯から一刻も早く抜け出そうと足を早める。だが、どれだけ歩いても脱する事叶わず、入り組んだ往来細道を辿ると元の場所に戻ってしまうなどしばしば。一向に上がれぬ双六のように不毛で、クレタ島のラビュリントスに閉じ込められたように孤独で、悪夢に目覚めた夜のように心細い。

 しくじった。これでは帰れん。

 ほぞを噛む思い。斯様な思いをするならば勝手知ったる場所で自暴となり自棄すればよかったと遅すぎる後悔をするもその思考は無為に帰す。腹も減り途方も無い。これをなんという状態から俺は知っていた。迷子である。

 仕方なしに歩くもやはり同じ場所に着くのだから埒がない。思わず声を上げて叫びそうになる程、俺は心の均衡が崩れかけていた。陽が沈みますます深淵にはまり込んだ感が増し、もはや遭難の体となってきた頃。歩き、時には走り、闇雲に体力と精神力を消費し五里霧中の中。絶望と後悔に落涙を禁じ得ず、彷徨う。

 そんな時、一筋の光が射す軒を見つける。

 民家かと思いきや、何やら屋号が書かれた看板が出ている。ならば一見駆け込みも歓迎だろうと、俺は地獄に仏と思いて我武者羅に、そこが何を商いにしているのかすら確認せず飛び込んだ。そこにいたのは……


 古来、女は肉付きよく豊満な体躯が理想とされていたという。豊穣と子宝が神格化された偶像はいずれも波々とした体躯を実らせ男達の生命を歓喜させたのであるが、道迷い、俺が出会ったのは、まさしく女神と呼ぶに相応しい女であった。



 その女神佇む古い家屋の前に今俺はいた。

 襟を正し深呼吸。無作法があってはいかん。




「いらっしゃいませ。あ、しばらくぶりですね。村瀬さん」


「はい。どうも」


 ひょんな事から敷居を跨いだ古書店に住まう女神に名前を覚えてもらえるまで通い詰めた俺は、物知り顔で引き戸を開けて入店し挨拶を交わした。客のいない店内。もはやここは二人の世界。邪魔者は存在しないユートピアである。



「以前に買った本を読み終えまして……面白かったです。魔王。釈然としない終わり方でしたけど」


 さり気なく以前勧められた本の感想を言うのはできる男の所作だと思う。実際何が面白いのか分からぬまま読み進め、最後の一節を追い終えた後は「なんだこれは」と思わずげんなりとしてしまったのであるが、ここは嘘も方便で「面白かった」と述べるのが正解であるように思えた。


「そうですね。伊坂幸太郎の代表作ですが、投げっぱなしのような結末は、賛否が分かれているようです」


 予想は的中。見事に弾む彼女の声。荒んだ心を癒す揖良の笑顔に霹靂の晴天を仰ぐ心持ちとなる。思えばあの時、揖良と初めてあった時も、彼女は和かな微笑を浮かべ俺を迎えてくれた。それまで抱いていた不安が霧散していくのは、きっと揖良が、不健康ながらに後光を背負っているからに違いない。


「主人公が死んでしまうのは想定外でした。しかし、結局何がしたかったんでしょうね。せっかく凄い能力を手にしたのに、悪に立ち向かって死ぬなんて、安いヒロイズムじゃないですか」


 会話を続けようと俺は知った風な感想を並べる。心底どうでもいい内容ではあったが知識としては吸収したのだ。インプットに費やした脳の容量と時間を揖良との信頼を築くために有効に使いというのは、間違った考えではないだろう。


「……意外と冷淡なんですね。村瀬さん」


「あ、いや……」


 しまった。

 静かに刺さる揖良の一言。これは迂闊をしでかした。確かに幾らか心無い発言であったように思うが、よもや地雷を踏み抜いてしまったか……


「でも、そうした感想も分かる気がします。あのお話は巨悪に立ち向かうというより、衆愚化する人間達に一石を投じる個人という図式で書かれていますから、私達のような一市民には、時勢に、多くの人間の波に逆らう意識はきっと湧かないでしょう」


「あ、はい。まさにその通りだと思います」


 空返事をしながら、あの本はそんな話だったのかと今更納得をする。しかし、どうやら悪印象を与える事なく共感してもらえたようだ。まったく心臓に悪い。

 俺は安堵の吐息を吐き揖良にはにかみを見せた。それに合わせて微笑んでくれる揖良は美しく、慈愛を向けてくれているような気がした。やはりこの女はいいと、改めて思った。

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