第10話

 揚羽と別れ帰宅した俺はすぐに就寝し新しい朝を迎えた。

 軽い頭痛と胃の重さに飲み過ぎを自戒。どうやら最後に頼んだ島美人がいけなかったようで、口の中に焼酎の残り香が満ちておりなんとも言えぬ不快感がある。飲んでいる時は美味い美味いと景気が良かったのだがこの様。己の右党寄りの体質をすっかり失念していたのは紛れも無い俺の落ち度だ。今後は弁えねばならぬ。

 それにしても、胸を盗み見ていたのが揚羽知れていたとは何とも大きな赤っ恥。情けなく、また恥ずかしい。過去に戻れるのであれば今すぐにでも戻りたい。しかし、戻ったところで自制が効くかと言われると確証がもてない。結局俺はヤリたい盛りの童貞であるから、同じ轍を踏むようにも思える。なれば、あの場はあれでよかったのかもしれない。結果として親睦が深まったわけだから、成功といえば成功と言えるのではないだろうか。


「まぁ、あんなものだろう」


 昨夜口に含んだという記憶が辛うじてあるペットボトルの水で喉を潤しごちる。何があんなものなのかは自分でも解せない。恥をかいた翌日はたいていそのままかいた恥を引きずっていて、その恥がふいに頭に湧き上がる為にいたたまれなくなるのだが、それをかき消すように分けのの分からぬ独り言を落とす癖が俺にはあるのだった。

 左様な声を出すのは専ら自室である。往来にて人目はばからず狂気の端を見せられるほど障ってはいない。壁薄い安普請な為、隣人には全て聞こえているかもしれないのでそこは少々気掛かりであるが。もっとも、だからといってどうする事もできないのだから、お互い諦めるしかないであろう。

 この癖がいつから身に付いたのかはいくら追憶を辿ってもついぞ思い出す事はできないが、少なくとも走れメロスを始めて読んだ頃には既に奇声を発していたのを覚えている。

 あれは中学の時分、国語の授業で起立し読み上げをさせられた際に、暴君を「あばれくん」と誤読してしまい教室は爆笑。渦中にある俺は赤面し、おどける真似もできず、涙を耐えながら静と着席したのであった。その日はもうまったく悲惨の一言に尽きる。帰路の途中。皿を洗う時最中。湯浴みの内。床の中。あらゆる場面で喉から理外の言葉が零れ落ちるのである。過去の俺のなんと哀れな事だろうか。時分の事ながら同情を禁じ得ない。

 それにしても級友達の嘲りといったらなかった。同じ年に生まれ者同士、仲良く机を並べ合う仲だというのになんという薄情であろう。もし今あの瞬間に戻れたとしたら、きっと奴ら全員に正義の鉄槌を食らわしてやるというのに。まったく時間の不可逆が忌まわしい。この若き日の忌まわしき大恥が未だに忘却の霞に覆われる事なく俺の脳裏に根を張っているのは、誰一人として俺を庇うものおらず一様に笑い者として晒しあげていたからに他ならないだろう。罪人に石を投げるのと同じだ。人は他人の不幸を笑い、更なる転落を望み、そして果てる様を見て恍惚の表情を浮かべるのだ。

 なんたる悪辣。おのれ業人どもめ。決して許せる所業ではないぞ。

 当時に想いを馳せればいつも修羅。俺の心は羅刹の鬼面である。

 癖の発生は思い出せぬが、人間不信気味となったのはあれが原因であるような気がする。いや、そうに違いない。俺は薄情なる級友に性格を捻じ曲げられたのだ。このうだつの上がらぬ毎日も、奴らの被虐げが遠因となっているといっても過言でもないだろう。

 だんだんと怒りが湧いてきた。怨嗟の炎が俺の胸を焼き焦がす。あぁ恨めしや口惜しや。殺してやりたい。俺を笑ったあの邪悪の息の根を止めてやりたい。死に顔に唾を吐き捨て地獄の念仏を唱え続けてやりたい。あぁ。憎い。憎い……


「なんだって生きているんだ」


 またごちる。その言葉を向ける先は過去の級友か、それとも俺か。

 いずれにせよ鬱屈。せっかくの休日にケチがついてしまった。こんな日は読書でもして現実から離れようと思ったが、生憎と持っている小説は全て読了してしまっていた。

 溜息をひとつ。タオルと着替えを用意して浴室へ。それはなぜか。身体を清め、外へ出るのだ。

 向かう先は少し離れた古書店。読む物がないのなら買えばいい。それが資本主義社会に生きる者の正解であり模範であろう。

 古書店である理由は無論経済の困窮もあるが、実のところそれだけではない。いやむしろ、それ以外の目論見が大半を占めているというのが本当のところである。

 そこに勤めるは若い女で、名を木曽川 揖良ゆうらというのだが、その揖良を、俺は虎視眈眈と狙っているのだった。


 揖良はその書店を経営する老人の孫娘であり、腰を弱めた祖父の代わりに店番をしている心根の優しい女である。歳の頃は二十手前といったところで、学生なのかフリーターなのか、いったいぜんたい何をしているのかまったく分からぬが、ともかく若く瑞々しい身体をしている。出不精のせいか血色は芳しくないが肉付きは良好で、そこがまた庇護欲を、もっといえば嗜虐心をそそるのである。あの薄幸そうな女を床の上で好き勝手に扱えるのであれば、それは実に背徳的で、罪悪感を伴う快楽を得られるであろう。

 こうした妄想は人として最低であると分かってはいるが、どうにも止められぬ魅力が揖良にはあるのだ。俺はあの娘を犯しくて堪らない。押し倒し、まじまじと顔を見つめた後激しく接吻をしたい。揖良の秘部に手を伸ばし無遠慮愛撫したい。何もかもを忘れて、ただ二人で、横たわる魚になりたい。

 もしその願望が叶うのであれば、俺はきっぱり一美と揚羽の誘惑を断ち切る事ができるだろう。揖良の魅惑は、それだけ男を狂わす魔性を秘めているのだ。対面して、目を合わせ、一言二言交わせば胸の高鳴りは遠方にまで聞こえるのではないかというくらいに高く響く。あの不健康で貪られるために生まれてきたような身体は男をとことん邪淫へと駆り立てるのだ。宿世か因果か、罪作りな事である。


 ……


 揖良の姿を思い浮かべていると、下腹部に血が集まっているのに気付いた。心音高く、弾む。

 なんとしても持て余す肉への渇望。これはいかんなと、浴室で立ち尽くしていた俺は冷水を浴び、荒業めいた手段で心頭の滅却に努めた。動物さながら鼻息を荒くして人目に触れるわけにはいかない。 まずは落ち着かなくてはどうにもならぬ。


「それにしても、あぁ、性よな」


 水を浴びた俺はそんな戯言を呟きながら余所行きで着飾り、本を買うため、揖良に会うために部屋を出た。

 陽の光に目眩を覚え、やはり頭は痛く億劫ではあったのだが、心の鼓動は、未だ高いままであった。

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