第9話

 俺と揚羽は席に着くとビールを頼んだ。別段ビールが好きなわけではないが、社会の慣習として一杯目はビールと決まっているわけだからその秩序を乱すわけにはいかない。乾杯にはとにかくビール。ビールなのだ。


「それでは、お疲れ様です」


「あ、はい」


 その社会的な構造に組み込まれているビールが「お待ちどうさまです」と卓に運ばれてきたので、軽く肴を頼んだ後、揚羽の調子に合わせてグラスを鳴らした。お通しは小鉢に盛られた筑前煮が出されたのだが、残念ながら俺は人参が好きではない為、箸をつけることはないだろう。


「それにしても村瀬さん。格段にギターがお上手になりましたね。覚えも早いですし、素晴らしいです」


「あ、はい」


 社交辞令である。沈黙の魔を恐れ、かといって本音を出す面倒も避けたく、揚羽は左様な日和見を口にしたのだ。

 しかし無理もない。先に俺が見せた年甲斐もない狼狽は揚羽の言葉を選ばすのに十分な威力を発揮したであろう。腫れ物に触るような真似は誰であれしたくはないのだ。つまらぬ会話を望むのもいわば当然。仕方のない事である。


「先生の教え方が上手いおかげです」


 故に俺は揚羽に乗る形を取りおべっかを合わせた。平となり単。起伏なき無駄口。そこに生ずるは乾いた笑いと愛想のみ。互いが距離を保ち壁を作れば実のある話題など出ようはずもない。入ってこぬ言葉の礫は床の中で聞こえる軋みに同じ。何か鳴っていると理解はできるものの得体はちっとも知れないのである。要する、二人の間にて無益な会話が続いていたのだった。いつの間にやらグラスが三つ空いていた。酒を飲む以外にないのだ。揚羽にいたっては焼酎まで啜りだす次第である。話すために飲み、意識が曖昧となれば回らぬ舌でよく分からぬ話をするという、まったくだらしのない酒宴がたけなわもなく進められている。これでは手酌と変わらぬ。壁に向かって話していた方がまだましではないかと、俺は退屈を持て余しながら、追加の酒を流し込むのであった。


「ねぇ、村瀬さん」


 そんな最中である。景気良くボトルを空けていく揚羽の声が、途端に艶めいて聞こえたのは。


「村瀬さんは、お付き合いしていらっしゃる女性、いますかしら」


 揚羽の問いは脈絡なく突拍子のないもので、あぁ酔ったのだなと理解したが、別段妙な期待は抱かなかった。それまで定型文のようなやり取りをしていたのだからそれも当然で、いかに酔って無防備に見えようとももはや攻める気は起きないのである。要は、揚羽は酔いに任せて暇潰しをしたいだけなのだ。ほんのちょっと魔が差した真似をし、愚弱な俺をからかいたいのだ。これは大変な侮辱であるが、俺も俺で揚羽に対し失態を晒しているわけだから怒るのは狭量で、むしろ、自ら進んで退屈な酒の席に一興を投じるその姿勢は感謝さえしなければならないような気もするのであった。

 となれば、これに付き合ってやらねば祟られかねないと、俺は道化になるつもりで揚羽の話題に乗ることにした。どうせ飲んでいるのだ。失言があっても酒のせいにしてしまえという投げやりも多少はあった。


「いや。おりませんね。どうにも、縁がないようで……然るに、いかがですか先生。僕なんかと男女の仲となるのは」


 酒を一飲みし、身振り手振りを交えて、如何にも仰々しくそう言った。これだけわざとらしく滑稽に見せれば間違っても本意とは取らぬだろう。軽く言葉を流し、別の話題に繋がればそれで良い。


「まぁ。本当でございますか。それは大変嬉しい申し出でございます。しかし、村瀬さんのような殿方には私のような賎俗な女はきっとお似合いにはなりませんので、謹んで辞退させていただきますね」


 嫌味を煮詰めたような慇懃無礼。言葉を吐いた顔のなんと悦に満ちている事か。ここまで虚仮にされれば、本来であれば腹を据えかねる。

 だが、揚羽に限っていえば、その俯瞰した微笑がまた美しいのである。蔑む眼のなんと美麗な事か。心が現れ、憤怒の積は崩れていく。

 俺はここにきて、揚羽の魅力に、その冷淡に宿る色気に虚ろい、一時いっとき我を忘れた。やはりこの女は美しく、また、一夜を過ごしたく思うのだ。女として見ぬと、師として接しようと誓った矢先の、舌の根も乾かぬうちの翻意である。これにはさずがに、自身の事であるにも関わらず失笑を禁じ得ず、俺は体良く交際を断られた揚羽を見つめながら目尻を下げたのだった。


「いやはや、敵いませんね」


 惚れた弱みである。俺は一言本音を落とし酒を煽った。敵わぬ相手への叶わぬ恋に乾杯。そして完敗。どうにも上手くいかぬが、それもまた面白く思えたのは果たして酩酊のせいばかりなのか定かではなかったが、揚羽と飲む酒の味は随分と美味く感じるのであった。渦巻いていた冷たい空気が暖まっていく。どうやら、勝手ながら俺の中にあったわだかまりは解けたようだ。



「ねぇ。村瀬さんは、どうしてギターを始めようとお思いになったのかしら」


 しかし、不意に投げられたこの質問には返答を窮した。正直に「モテるためです」と言っていいものか。相手は曲がりなりにもプロである。左様な理由で志を持ったと知れば、不埒者と俺を罵り怒り心頭に鉄槌を下すことも十分に考えられる。

 しかし、ギタリストになりたいなどと虚偽を申すのもはばかられる。これはどのような選択がマストであるか。血にアルコールの混じった状態では、中々に適解が出せぬ。




「……ギターを弾けたら、変われると思ったからです」


 数秒の思案を経た俺の答えであった。他に言葉が浮かった故の、止むに止まれずの選択。考えた割につまらぬ、普通で、普遍的なものである。せっかく打ち解けたような気もしたが、これでは元の木阿弥か。また退屈な男と見られるなと、俺は揚羽からカウンターへと視線を移した。


「……奇遇ですね。私も、そうなんですよ」


「……え」


「私も、自分を変えたくって……まぁ、結局変われなかったんですけどね」


 遠くを見るように、手の届かぬものを望むように目を細める。麗しく、艶やかに濡れる瞳。


 ……これはよもや……もしかしたら……出たのだろうか。瓢箪から駒が。苦し紛れの一言から揚羽の心を震わせたのだろうか。そうか。下手の考え休むに似たり。恋愛とはひょんなきっかけで発展するものとハウツー本にも記してあったがこれがそうか。なるほど。ならば押せば今宵……


「帰りましょうか。村瀬さん。私ちょっと飲みすぎてしまいました」


 ……そうだろうな。

 分かっていた。そんなわけはない。俺は揚羽の申し出に「そうですね」と相槌をうち、まったく満足したかのような笑顔を作ってみせた。結局何も起こらぬままの終焉。この結末に納得はしている。だが、不思議な事に心残りと下心の残骸は感じられた。煩悩とは中々断ち切れぬものである。


「あ、すみません。お勘定……」


 そんな中でも、せめて男は見せようと思い支払いは持とうとした。しかし。


「半分ずつにしましょうか」


 揚羽は俺が勘定を済ませる前に三千円をカウンターに置き、残っている酒を飲み干してから、要領よく帰り支度を終わらせて席を立ったのであった。


「本日はお付き合いくださり、ありがとうございました。それでは、お先に失礼いたします……」


「あ、はい……」


 押し付けられたような金と別れの言葉。その勢いに流され、俺は唖然としながらも相槌を打ち直立した揚羽を眺めた。ちなみにこれは後から思った事だが、この場面は途中まで送るか、車を呼ぶのが正解であったのだろう。覆水盆に返らずである。


「あ、それと」


 最後に揚羽はこう付け足した。


「露骨に女性の胸を見るのはおよしになった方がよろしいですよ」


 俺はヒールの音を高らかに鳴らし、暖簾をくぐり直していく揚羽を見送る。


 露呈していたか……なんともはや……


 心中にて恥を沸かし顔が赤面しているだろう俺は、無理を言ってもう一杯酒をもらってから店を後にした。酔いに酔ってしまった俺は当然ジムには行けず、真っ直ぐに帰宅し、全てを忘れ床に就いたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る