第8話

 待ち続け、仰ぎ見た空星々を、線で結びて話を紡ぐ。

 暇な待ち時間の不毛な一人遊びである。手持ち無沙汰な俺は、柄にもなく夜空にロマンの星重ね勝手気儘かってきままに独自の神話めいた物語を創造していたのだが、揚羽がやってきたのは、丁度4つ目の星座が完成した頃合いであった。


「ごめんなさい。遅くなりました」


 ケースに入ったギターと小さなバッグを持った揚羽は少し息を切らしていた。急いで来てくれたのだろうか。悪いなと思う反面、気に掛けてくれたねかと嬉々し、惹かれた。


「いえ。苦ではありませんでしたから」


 俺は適当な返事を投げ、もたれていた電柱から離れた。浮いていた爪先が靴の底に触れ冷とした感触が伝わる。なるほど、それなりに長い時間待っていたのだと自覚が生まれると、自然と空腹感に襲われ小さく腹の虫が鳴いた。幸い揚羽には気付かれなかったようだが、少々格好が悪く気恥ずかしい。


「揚羽さんは何か食べたいものなどありますか。といってもあまり外食をしませんので案内はできないのですが……」


 既に鳴ってしまった腹の音を掻き消すが如く、俺は矢継ぎ早に言葉を続けた。本来であれば行きつけのレストランなどにエスコートすべきなのだろうが貧困にあえぐ俺が洒落た店など知るはずもなく。であれば、率直に存ぜぬと申した方が潔いだろうと思い、無様を承知で真実を述べる。これでイニシアチブは取れぬにしろ、不甲斐なさから生じる不信感を先んじて軽減できるであろうとたかをくくったのであったが、これが甘い算段であった。まさか、ところがの自体が起こったのである。


「そうなんですが。村瀬さんは、存外駄目なのね」


 俺を俯瞰する揚羽の視線。しくじった。いきなりの手抜かりである。小手先ばかりの浅知恵が裏目に出てしまったのだ。揚羽の失望を招いてしまった事態に内心焦燥。斯様な事になるならば予め調べておけばよかったと先に立たぬ後悔をたられば。この瞬間、俺はもう肉体関係への脈が断たれたような気がして膝をつきそうになった。僅かとはいえ射していた光明に陰りが生じたとあらば、悔やんでも悔やみきれぬ大失態であろう。これはご破算も免れぬ。いや、きっと揚羽は俺に蔑みの目を向け、食事の約定をいとも容易く反故にするだろう。そうだ。そうに決まっている。女と食事に行く際にリードできぬ男など、彼女はきっと、お呼びではないのだろうから。


「すみません……」


 謝る他なく頭を下げ許しを請うた。なんたる惨憺さんたんであろうか。まさかこうも簡単に頼みの綱が絶たれようとは。俺は女と食事をする事さえまかりならんというのか。

 あぁ惨め。あぁ哀れ。俺はこの先、生涯において満帆叶わず、ただ流されるままに、漂う海月の如く難破の遭者として彷徨い続けるしかないような気がしてならなかった。糞にまみれた人生に救いなし。もうどうしようもない。


「仕様もない人なんですね。村瀬さんは。ま、いいです。では、私の行きつけのお店に行きましょうか」


「あ、はい」


 何と、食事は共にしてくれるのかと内心驚く。しかしその声色は、俺の心臓を潰すかの如く、淀んでいた。まるで子供に向けるような声を落とし、揚羽は溜息を吐いたのだ。


 二十五を迎えた男がこれか。気の利いた店も知らぬようでは生きる価値もないだろう。今宵はこちらから誘った手前仕方なく付き合ってやるが、次はないぞ。


 読心の心得はないが、そんな俺への中傷を腹の中で呟いているのではないかと疑心暗鬼に陥る。現に俺がしでかした此度の痴態は失笑に値する迂闊であり、女からしてみれば有り得ない所業であろう。男女平等が叫ばれ、かつて抱かれていた偶像とは真逆の強い女が社会に進出する昨今ではあるものの、未だ頼り甲斐のある男がモテている現状であり、俺のような惰弱で怠惰で、女を求めるばかりで、女に与える事をしない男はお呼びではないのである。世知辛い現実。直面する世の理。いっそ死ねたらどれだけ楽か。授かりし求不得苦に唇を噛む。世の無情。愛は哀なり。


「あら、本気になされました。すみません。少し、冗談が過ぎてしまったようです」


「冗談……」


 幕開きされた我が人生の悲劇に消沈する中、揚羽は口を開きそう言った。


「えぇ。冗談。戯れです。そんな顔されるなんて思いもよりませんでした。申し訳ないのですけれど、その、ちょっと、面白かったです」


「あ、あぁ。そうですか……」


 声を上げて笑う揚羽に対して、俺は愛想笑いを返すのが精一杯であった。そうか。冗談か。まったく人の悪いと、さも一杯喰わされたように振る舞ったのだが、俺は知っている。揚羽の態度が取り繕いであるという事を。本音を吐き出したはいいものの、予想以上に俺が狼狽えた為に軽口だったと不自然な宣言をしたのだ。プライペートな付き合いとはいえ俺と揚羽は講師と生徒。体裁。建前は必要不可欠。しがらみだらけの人の世においての処世術といえよう。これにて蜜月が引くは確定。彼女との私的な交際は本日限り。進展のない一方的なプラトニックラブ。悲しいかな。これが二十五歳童貞非正規雇用の限界。是非もなし。


「では、参りましょうか」


「あ、はい……」


 俺は先に歩く揚羽の後を力なくついて行った。夜長に響くヒールの音が耳に刺さる。まるで母親に窘められ歯医者へ向かうような面持ちである。楽しげな催しがもう台無しにされた気分だ。この先揚羽に対して、どんな顔をしてどんな会話をすればいいのか分からぬ。つまらぬ顔をして酒を飲む彼女に対してくだらぬ世間話を聞かせればいいのか。「今日アルバイトで常連のおばさんに叱られました」などと、恥知らずにも申せばいいのか。左様な真似をしたら道化にもなれぬ。八方塞がり。四面楚歌とはこの事か。

 ……もういい。どうせ望みがなくなったのだ。こうなったらもう開き直ってしまおう。揚羽を女と意識せず、一人の人間として酒を酌み交わすのだ。さすれば傷も残るまい。そうだ。俺は師と飲むのだ。ヤレる。ヤレないなど関係あるか。邪を忘れ、純たる心根、気概で臨めば道も開かれよう。


「着きましたよ」


「あ、はい」


 たどり着いたのはこじんまりとした小料理であった。なるほど。ムードはないが、どうせヤレぬのであればちょうどよかろう。俺は心頭を無に塗り、暖簾を潜る揚羽に続いてゆっくりと店の敷居を跨いだ。「いらっしゃいませ」と歓迎する女将の声が、無気力を誘った。

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