第7話

 とはいえレッスンであるのだから、教わる側も、また教える側もそれ相応の立ち振る舞いが必要とされるわけであり、俺も揚羽も、その後は何事もなかったかのように教示する側と師事する側の関係を一貫していたのであった。

 不意の発生した事故に揚羽は何を思っているのか不安はあったが、そもそも、その事態の直後に目が合っただけで、揚羽の山頂を仰いだ眼福……いや切腹ものの不始末は悟られていないかもしれない。そう考えると、取り立てて気にする必要もないように思え、俺は居直ったかのように大胆となりて演奏の稽古を続けたのだった。そうして残念ながら……幸いな事に二度にたび神秘の山頂を拝む機会はなく稽古は終了。時間は二十時を過ぎたところで、多少の空腹と多大な疲労感はあったが充足した受講内容に喜びはひとしおであった。


「お疲れ様です。とりあえずではありますけれど、一通り弾けるようになりましたね」


「おかげさまです」


 スタジオにある貸出用のギターを磨きながら俺の血は熱くなり顔が赤くなるのが分かった。慣れてはいないが、人から認められるのは悪い気はしない。


「この調子ならすぐ上達するでしょうし、そろそろ、ギターを買われたらどうですか。安いものでしたら、五本も指を折ればお求めいただけますよ」


 そう言って五本の指を立てた揚羽の手は白く美しかった。ところどころに見られる傷や腫れは、ギターを演奏する際につくものなのであろう。

 揚羽が言わずとも、ギターの購入については確かに考えてはいた。実際やり始めて、手ごたえというか、やり甲斐のようなものは感じていたわけであるから専用のものを欲しいと思っていたのである。しかし、指五本。つまりは五千円の支払いというのは非正規雇用にとって大変な痛手であり容易には出せかねぬ金額。そんな金があるならスーパー銭湯と焼肉バイキングにて日頃の鬱憤を晴らし明日への活力へと繋げたいのが本音である。だが、左様な刹那的な、まったく動物的な欲求発散ばかりに金を使うというものもなんだかさもしいし、何より女受けが悪いしだろう。貧していても品格を落とす事まかりならぬ。武士は食わねど高楊枝。現状、金子のアテはないのだが、これから切り詰めれば来月には必要分は賄え無事ギターを手に入れる事もできよう。

 ……致し方なし。大小は武士の魂なれば、入魂せしめる器は必要不可欠。これもモテるため。ヤルためである。爪に火を灯す思いで工面せねばなるまい。


「そうですね。来月か、再来月の給金をいただいたら、買いましょう」


 男村瀬。渾身の見栄を切る。


 日々細々ともやしなどで飢えをしのぐ身においては一大なる決心であるように思え、感覚のない指が震えた。果たしてギターをこの手にするまでに生きていられるかと一抹の不安が頭を過ぎったが、やらぬ事には始まらぬ。女を得るには必要な苦しみであれば、未来の自分の忍耐力に望みを託そう。俺は信念を内に秘めギターをさらに磨く。


 耐えねばなるまい。忍ばねばなるまい。しかして望め。肉の喜びを。俺はギターを買い女を侍らすのだ。そのための貧苦なのだ。今この時この苦境こそが祝福への道標となるのだ。あぁ我が身よ。我が心よ。降り掛かる理不尽にどうか屈してくれるなら。降り注ぐ呻吟しんぎんの雨を抜ければ、女神の微笑が太陽となろう。故に、耐えよ。俺。


 呪文めいた決意が俺の覚悟に芯を通した。

 ギターを買う。その一念が、俺の魂を輝かせたのだ。これからしばらくは節制と節度のある生活をせねばならぬ。酒など飲んでいる場合ではなくなった。この後はジムへ行き、メニューを終えたら早々に帰宅しようと、そう思った矢先であった。


「あらよかった。それなら、どんなギターがいいか、お話ししませんか。お食事でもしながら……」


「……え」


 お話し。お食事でもしながら。


 揚羽は確かにそう言った。まさかの事態。食事に誘われたのだ。この俺が女に。その異様に声を発する事も、息をすることも忘れてしまった。

 斯様な出来事は無論前代未聞である。一寸、これは罠かとも考えてもしまったが、ギター一本満足に買えない俺を騙していったいなにをするのかと改めると左様な邪推は一蹴された。つまりこれは好意ではないか。揚羽は俺に対して、少なくとも悪い感情を持っていないのだと、そう理解できるのではないか。思わず、揚羽を凝視する。


「嫌かしら」


「いいえ。是非行きましょう」


 二度目の誘い。これはもう即答にて応ずる。邪念が晴れたのならば迷う必要なし。ジムなど行っている暇はなくなった。生まれて初めての女との食事。ふいにするわけにはいかぬ。急いで立ち上がった俺は、表情筋を全て使って笑顔を作り、言葉だけではなく、全霊を賭して共に卓に着きたい旨を示した。


「そう。よかったです。それなら手早く準備をしちゃいますから、外で待っていてくださいね」


 講師は講義の終わりに簡単な事務作業があるそうで、また、荷物も事務室に置いてあるから、すぐには行けぬという。同じ非正規雇用だというのに大変なものだと思うと同時に、技術も能力も不要な仕事しかできない自分に恥じ入る。さらに言えば揚羽はセミとはいえプロのギタリストである。何もなし得ない俺とは雲泥の差ではないかと自覚すると、どうにも陰鬱とした空気が腹にたまり、醜悪な汚言を吐き出したい気持ちに駆られた。


「分かりました。それでは、後ほど」


 だが、それはこの場では相応しくない。せっかくの宴の前。それに水を差すような真似をするわけにはいかぬだろう。かつてない大好機をみすみす逃しては大間抜け。食事というからには大人同士、合間に酒が入る事も考えられる。であれば、揚羽にも油断も生じるかもしれない。なれば、勢い余って、もしかしたら、万が一にも、何かの拍子に、揚羽との間に男女の間違いがあるやもしれぬ夜。その可能性を潰すは愚策と言わざるを得ないだろう。例え多大な不安があろうとも、僅かばかりの希望を信じて俺は揚羽を笑顔で送り、一足お先にスタジオの外へ出た。火照った身体に風がまとい、汗を乾かしていくのが爽快である。


 棚からぼたもちな展開を迎え少々仰天し舞い上がってしまっているが気を引き締めねばなるまい。あわよくば明日より未童貞を名乗れる千載一遇。この機を失するとなれば生涯未使用の地獄も想定せねばならないのだから抜かりは禁物である。


 俺は冷えていく頰に手を添え不乱となった。今宵は決闘。刹那の間にも気は抜けぬ。


 風を数え星を仰ぎ、俺は灯った情炎を燃やし続け揚羽を待った。汗はとうに引き身体は冷えきってしまっていたが、胸の熱だけはどうしても消える事はなく、心の鼓動は、かつてないほどに早く、高くその音を響かせていたのだった。

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