第6話

 一美いちみの慈愛により軽くなった足取で向かうは稽古先である駅前のスタジオであった。

 習いたてのギターは未だ形にならず四苦八苦してやっと童謡の音頭がとれる稚拙な腕前であったが、それでも音を曲へと繋げるのは至福であり、性根しょうねが清くなるような思いがするのである。これが何とも心地よく、もし学生時分に触れていたならば、多少なりとも陰が晴れ、現在のような、暗澹あんたんとした営みを送るはめにはならなかったかもしれない。


 スタジオに着き入り口を抜け地下へと続く階段を降りると、そこにはすぐにブースがある。広くもなく狭くもない室内に多くて3人の人間が入りギターの修練を行うわけだが、連絡版を見る限りどうやらこの日は俺一人のようであった。各々予定もあるだろうし義務でもない為、無理に参加する必要など微塵もないのだが、性格的なものか、どうにも他の連中は怠惰なのではないかと想像してしまうのだ。俺自身の堕落を棚にあげた、極めて身勝手な空想である。

 しかしだ。実のところ、一人の方が都合がいいというのは伏せている話で、もっと言えば、ずっと誰も訪れなくていいと思っているくらいで、それがなぜかといえば、講師を務める風間 揚羽あげはこそが、俺が狙う第二の女に他ならないからである。


 揚羽はセミプロのロックギタリストであるが、セミプロ故にギター一本では食っていけず講師のアルバイトをして生計をたてているのであった。風貌はジャケットにシャツと、ロックンローラーらしく簡素で重厚なのだが、その下に隠れる柳のように細くしなやかな四肢の艶やかさといったら堪らなく、また、肩までもない真っ黒な髪と、病的に白い肌の色が艶やかなコントラストを生み出し、異国の女神のような神秘ささえ感じるのだった。胸はやや控え目だが、それが逆に魅力的に映ってしまうのだから不思議なものだ。スタイルの良さからか、はたまた彼女が持つ蛇のような瞳に催淫効果があるのか……いずれにせよ、一美とは別の方向で唆られる女であるのは確かである。

 

「あら。今日は村瀬さんだけ。何というか、寂しいですね」


 講義開始五分前にブースへ入ってきてそう言ったのは、他ならぬ揚羽本人であった。嫌味のない歯に衣着せぬ言葉が、自然と口角を上げる。


「なんなら、俺も休みましょうか」


「それは困っちゃいますね。私、食いっぱぐれになっちゃう」


 鼻を鳴らした笑い声が小気味良く、また、切り揃えられた前髪がそろりと揺れ優美である。傾国の美女とはまさにこういう女の事をいうのであろう。肉体的に劣情を抱くのが一美であれば、揚羽においては精神的な情念を呼び起こす何かがある。俺はギターを教わりに来る度、そうした揚羽のまとう色気にどきりと刺されたような思いをするのだ。

 モテる為に始めた習い事であったが斯様な出会いがあるとは想定外で、これは上手くすれば手段の半ばで目的が達成できるのではと皮算用を巡らす事数度。入門して日が浅い為に未だちょっかいをかけてはいないが、今夜の講義受講者が俺一人というのはもう誘えという天啓ではなかろうか。


「じゃあ、村瀬さんはそろそろ童謡以外も弾けるようになりましょうか。いい加減、きらきら星やアマリリスも飽きてきたと思いますし」


「あ、でも、まだ慣れていないので……」


「そんな事を言ってると、一生格好が付けられないですけど、よろしいですか」


「いえ……」


「なら練習しましょう。そうですね。メタリカ辺りからやってみましょうか。enter sandmanなんていかがですか。弾きごたえもありますし、練習にはちょうどいいと思うのですが」


 ……これは駄目だ。揚羽は俺を単なる不出来な生徒としか見ていない。やはり彼女を手篭めにするにはギターの技術をそれなりに習得する必要があるのだろう。共通の趣味と特技を持ってして、自然とその手の会話ができるようになれば俺にも好機はやってくる。今はそう信じ、ギターに打ち込むしかない。


「分かりました。では、精進いたします」


 決意を新たに意思表明。これもモテるため。童貞卒業のためである。努力は惜しまず、前のめりで進まなくてはならない。


「よろしい。なら、最初のコードは……」


 マンツーマンのレッスンが始まる。心音すら聞こえそうなほど雑音のないブース。外界と遮断された世界で響くギターのうねりは音色の一つ一つに熱が付加されているように俺の体温を上げていく。拙いながらも音が曲になっていくのはパズルを解いていくような悦を覚え、奏でが耳に入ると酒が入ったような高揚を感じる。下手の横好きとはよく言ったものだと思う。俺はまさしく、できないながらにギターに魅せられ、一弦を弾く毎に喜が湧き上がるのであった。





「楽しそうにお弾きになりますね」


 揚羽からそんな言葉をいただいたのは、ちょうど一息つき、一美から下賜された、ぬるくなった缶コーヒーを飲んでいる時だった。


「……そうですね。上手い下手はともかくとして、楽しいです」


 少々迷ったが、俺は素直にそう答えた。未熟な人間が楽しいなどと口にしていいのか分からなかったが、何もギターの道に進むわけでもない。照れはあるが、正直な気持ちを打ち明けた方が快いように思えたのだ。


「そうですか。それはいい事だと思いますよ」


 例の如く、鼻を鳴らして笑う揚羽。その姿はやはり妖艶で欲情をそそる。あぁこんな女を抱けたらどれだけ幸せだろうか。会話を交わしながら揚羽との交わりを想像すると、先までギターに向けていた熱意が鎮火し肉欲のトーチに火が灯った。

 これはまずいと、俺は自分の考えが悟られぬよう目をそらす。するとどうだろうか。揚羽の胸元は、大きく開いているではないか。思えば、黒いシャツにレザージャケットという出で立ちは随分無用心である。デコルテなどない衣装であるにも関わらず、つい秘匿された領域に目が向いてしまうのだ。控えめな揚羽の胸囲は、少し屈めばその全貌が露わとなってしまうだろう。男としては垂涎必至。泳ぐ目のたどり着く先である。しかし、だがしかしである。人として、左様な卑劣な行為が許されるものだろうか。いや、許されるわけがない。他人の恥部を隠れて覗くなど俗悪の一言。断罪されても仕方のない罪業である。


「誠もったいなきお言葉を賜り恐悦至極にござりまする。つきましては、更に業前上達したく、今一度、練磨、修練に励み、本日お時間の許す限り、弦を鳴らしたく候」


 動揺から訳の分からぬ言葉を並べ立て俺はギターを握った。その際、揚羽が微笑を浮かべ揺れた隙に胸元がれ、不可抗力にて不可侵の領域が目に入ってしまった。僥倖とはこの事であるが、直後に揚羽の蛇目と視線がかち合い、どうにも気まずく、俺は罪悪感に曇るのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る