/5 寄宿舎(六月九日)

 ――暗い日曜日。


 窓の外の曇天を横目に、わたしは寄宿舎二階、東側の最奥の部屋――双子の住まう二一六号室へ足を運んだ。

 

 ここ数日の寝溜めのお陰か、日曜にも関わらず早くに目を覚ましたわたしは、調査の遅れを取り戻そうと、朝から動き始めていた。


(とはいえ、少し早かったかな)

 

 時刻は九時過ぎ。平日なら講義も始まる頃だが、本来休日であるし、聖霊降臨祭ペンテコステ礼拝は十一時からだ。 


 元より体調に不安のあるミナなどは、まだ寝ているかもしれない――そんな風に、ドアの前でノックを躊躇っていると、どこからかキイキイ甲高い音が響いていることに気づいた。


 すぐに人の声と気づき、初めは硝子の声かと疑ったが、ここは彼女の立ち入らない寄宿舎だ。それにどうやら、声は部屋の中から聞こえてくる。耳をそばだてるに、片方がもう片方を一方的に叱責しているようだ。


 諍いが止み、今度は床を踏み鳴らす音が聞こえてくる。まっすぐこちらへ向かってきているらしい。


 わたしがドアから距離を取った直後、勢い良くドアが開き、部屋の中から制服姿の上級生が現れた。


「お早うございます、碓氷先輩」


「――貴家さん」


 戸惑うような間はあったものの、末奈はすぐに忌々しげにわたしを見下ろした。それでも以前より刺々しさが感じられないのは、目を赤く腫らしているせいか。


「こんな朝から、一体何の用?

 まさかとは思いますが、調査に進展があったのですか?」 


 そう訝しみながら、末奈がドアノブから手を離した。彼女はおもむろに眼鏡を外すと、綻びを繕うかのごとく目の下を指で拭った。彼女の背後で、ゆっくりとドアが閉まっていく。


「残念ながら、まだ報告できるほどのことは分かっていません。

 ですが、ちょっと確認しておきたいことが出てきたので」


 特に三月中の外出履歴について、とはあえて言わないでおく。姉妹はそれぞれ異なる思惑で動いている。ならば探りを入れるとしてもひとりずつだ。さしあたっては、わたしを毛嫌いしている本来の依頼者より、手強いが理屈の通じる姉と話がしたい。


 わたしが答えてすぐ、末奈は侮るように鼻を鳴らした。


「やっぱりね。だってあなた、ここ数日病欠していたもの。

 時間がないと伝えたはずですよね。まったく、良いご身分ですこと」


 末奈は眼鏡をかけ直すと、わざとらしく眼鏡の橋を押し上げた。わたしが彼女の偽証に気づいているとは毛程も考えていないらしい。


「いや面目次第もございません。

 それで、お姉さんに用があるんですが、入って構いませんか?」


 姉に対する呼び方が鼻についたのだろう。末奈が露骨に眉を顰めた。彼女はしばらくの間、わたしの顔をじろじろと眺めていたが、最後には大きな舌打ちを寄越した。


「――勝手にしてください」

 

 末奈はそう吐き捨てて、案の定その場を立ち去った。あの手合いは頑なな分、取り引きに持ち込み辛いが、煽って動く場面では実に扱いやすい。軽く見ているのはお互い様というわけだ。


 今のやり取りも中に聞こえていたと思うが、一応はノックをしておく。返事はなかった。すぐに寝入ったとも思えないので、一拍置いてから入室する。


 入ってすぐは窓もなく、朝だからか明かりもついていなかったが、正面の居室から光が漏れたので、歩くのに障りのない薄暗さだった。わたしは特段躊躇もなく、なれど足元に気を払いながら進み、居室へと至った。


 瞬間、おぞましさに身体が総毛立った。


 ――あれは、何だ。


 正面奥、左手窓際のベッドの上。部屋着姿の碓氷ミナが半身を起こしていた。。彼女の顔は一層やつれていたが、所詮は予想の範疇だ。


 問題は、彼女の下腹部にいるの方だった。


 いる、というのは正確ではないかもしれない。しかしそう表現せざるを得なかったのは、その何かが生き物にしか視えなかったからだ。


 それは、。いや、


 そもそも大きさがおかしい。まだ手足すら生えていない、肉の塊そのものであるのに、既に新生児ほどの大きさがあった。


 その不自然な影が、


 だからこそ、それが実際どこに存在するのか分からなかった。あるいはどこにも存在しないのか。肉塊には臍の緒こそ見当たらなかったが、それこそ羊水に浮かんでいるみたいに、ぷかぷかとその身を揺らしながら、一所ひと ところに留まっている。


 恐らく虚像に過ぎない肉塊は、しかしそう断言できないほどに異様な存在感があった。薄い表皮の下に、あるはずもない血管や臓器が透けて、脈動する様が視えた。


 理解不能な光景に、思わず後退あと ずさりする。自分が視ているものが一体何なのかすら分からない。その一方で、何故だか奇妙な既視感があった。


 プツリ、と。熟れきった果実のように、肉塊きよぞうの上部が裂けた。いや、あれは――瞼だろうか。わたしが視ているのは胎児の正面ではなく、横顔であるらしい。


 裂け目が広がり、柔らかくふやけた肉の下から闇色が覗いた。やがて不自然に大きな球体が――黒々とした水を湛える瞳が現れて、ぎょろりとわたしの方を向く。


 ――肉塊の正体が何であるのか、わたしはそれで完全に理解してしまった。


「貴家さん、来てくれたんだ」


 叫ぶよりも早く、ミナがわたしに声をかけた。


 我に返ると、既に胎児の姿はどこにもなかった。


「お休みのところすみません、先輩。

 ――先ほどは、随分白熱していたみたいですね」


 わたしは額に滲んだ汗を軽く拭い、大きく深呼吸をしてから、彼女のベッドへ歩み寄った。


「気にしないで。マナちゃんとは、最近いつも喧嘩ばかりなの」


 どうやらミナには、先ほどのあれが視えていなかったらしい。彼女はごく自然な呼吸で、控えめに笑って見せた。だとしても、随分と力ない笑みだ。青白く痩せこせた彼女の顔は、雲の合間に覗く日の光を受けてなお、ほとんど幽鬼じみている。


 刻限が差し迫っているというのも、あながち嘘ではないらしい。いずれにせよ今回は、礼拝の時刻までに切り上げなければならないのだし。


「それで、今日はどうしたのかな? こんな格好で申し訳ないけど、何か分かったんでしょう?」


「ええ。

 ですがその前に、先輩の不在証明アリバイを確認しても良いですか?」


 近くにあった丸椅子を、ベッドの傍らまで引き寄せて腰掛ける。へえ、とミナが相槌を打った。彼女の声色はあまりに淡白で、わたしの問いすらも予期していたことを伺わせた。


「アリバイだなんて、穏やかじゃないね。

 もしかして、本気で私の売春を疑っているの?」

 

「そんな訳ないでしょう。単なる事実確認ですよ。

 良いですか。ミナ先輩は春休み――いや、今年の三月には学院の外に出ていない。間違いないですね?」


「うん。家にも帰ってないよ。それがどうかした?」


「何故嘘をくんですか」


 ――ようやく、ミナの表情から笑みが消え失せた。


 わたしは今一度呼吸を整えて、続く言葉を吐き出した。


「舎監室で外出申告書を見ました。貴女は――いや貴女たち姉妹は、頻繁に外出していたみたいですね。

 ミナ先輩、貴女は通院のためですか?」


 ミナに驚いた様子はない。彼女はただ、わざとらしい静寂のあと、二、三度大袈裟に頷いて見せた。


「成程、申告書ね。

 もしかして貴女なら、と思っていたけど。すごいな貴家さん。まさかそんな伝手つてがあるなんて。

 神代さんの目利きは正しかった」


「すごくなんかありませんよ。ただ運が良かっただけです」


 口先だけの賛辞を受け流す。彼女からすれば、わたしがここまで辿り着くことも織り込み済みだったはずだ。


 それに実際、わたしは何もしていない。舎監室に忍び込むなんて芸当ができるのはまひろだけだ。わたし一人では、本来もっと地道な調査が必要だったろう。

 

「今更私が何を隠したところで、あなたならすぐに突き止めちゃうんだろうね。

 ――貴家さんの言う通り、三月中は一度きりだけど病院に行ったよ。

 元々胸が悪くてさ。今はもう定期的にという訳じゃないけど――それでも学院に入ってからも、念のために月一、二回は診てもらっていたの。

 嘘だと思うなら、付き添いのひもろぎ先生に訊いてみて」


「疑いませんよ、そんなことは。

 ――しかし、四月に入ってからは一度も病院に行っていない。生理が来ていないことを知られたくなかったんですね?」


 ミナがほとんど項垂うな だれるようにして頷いた。


「結局、勘づかれちゃったけどね。私の体調のことは、あのが一番よく知ってるし。

 生理のたびに寝込んでいた私が、そんな素振りもなく、胸のことで病院にも行かない。変に思って当然だよね。

 いいえ――それも後づけかな。マナちゃんも、最初から全部気づいてた。気づかないふりをしていただけ。今でも、きっと」


 そう言って窓を見た彼女につられて、わたしも遠くに視線をった。


 随分と、雲の流れが早い。まだ早朝だというのに、日の光もすっかり見えなくなっていた。じきに雨が降り出すだろう。


「だから、わたしにも通院について知らせなかったと?」

 

 ミナは、こちらを見ないまま首肯した。末奈は、姉の通院とその理由を初めから知らされていたのだ。


「マナちゃんも、貴女にそれを伝えていなかったからね」


 当たり前だ。ミナの売春を主張した末奈にとって、姉の通院の事実は致命的な矛盾となる。理由は分からないが、やはり末奈は姉を陥れようとしているようだ。


 仮に末奈が姉の妊娠の傍証として、通院についてわたしに吹き込んだとする。しかし通院の際、ミナに不審がなかったかどうかは、教職員に確認すればすぐに分かってしまう。ミナ自身に口添えしてもらえれば、教職員側も外出について隠し立てはしないだろう。


 ――ああ、そういうことにしたのか――


 以前、わたしが姉妹の外出を確認したとき、確かミナはそう零した。わたしの話を聞くまで、自身の通院について、妹がわたしに伝えていると思っていたのだろう。


「わたしを試しましたね、ミナ先輩」


 初めから通院のことを話してくれていれば、余計な手間をかける必要もなかった。


 ミナはゆっくりとこちらへ向き直ったが、すぐに目を伏せて、謝罪の言葉を口にした。


「ごめんなさい。あなたを信じて良いのか、あのときはまだ分からなくて。

 でも、私たちを救ってくれる人なら、こうやって突き止めてくれるって思ってた。

 それに、マナちゃんを怒らせたくなかったから」


 ミナの言葉は、本心からの吐露に聞こえた。それが余計にわたしを苛立たせる。


「貴女は――末奈先輩が死ねと言ったら死ぬんですか?」


「――そうだね。きっと死ねると思う」


 伏し目がちだったミナが、今はまっすぐわたしを見ていた。生気なく青褪めた顔に、弱々しく震える肩。そんな状態でも、彼女は自分を張り続けようとしていた。


「そこまで言うなら、何故末奈先輩に妊娠について訊かれたとき、貴女は否定したんですか?

 貴女の行動はちぐはぐです。何故対外的には妊娠を否定しながら、妹の嘘を取り繕おうとしたんです。何故居もしない天使を視たなどと言ったんですか?」

 

 ミナが語る末奈の言葉は――その存在は、絶対的に聞こえた。しかし彼女は妹に服従していない。


 ならば彼女を従わせるものは何だ。彼女は何のために、他人を欺いたのか。


「決まってるじゃない、そんなの。

 あのの呪いを引き受けるためだよ」

 

 ――その答えだけは、まったく予想がつかなかった。


「ミナ先輩。貴女は――」


 自分の声が、半ば震えていることに気づく。怒りからではない。むしろ冷水でも浴びせられた気分だ。


 彼女たちが呪いに関わっていることは分かっていた。ミナは自ら天使の目撃を証言したのだ。生理不順の理由付けとして、先行する少女Sの呪いを利用することもできたはずなのに、ミナはそうしなかった。


 彼女は自身の生理不順と、少女Sとを結び付けられたくなかったのだ。だから処女懐胎の説話に擬えようとした。それこそできすぎているくらいに。


 そしてそれは、逆説的に少女Sと彼女たちが深く結びついていることを示していた。ミナ自身、妹が彼女に囚われていると零したくらいだ。


 それでも、妹の呪いを引き受けたいというミナの願いは、わたしの予想を超えていた。

 

「だって、もうそうするしかないでしょう?

 もし私の症状が露見して、売春をしていたなんて噂が広まったら、マナちゃんも同じように疑われる。あのだって毎月病院に通っていたんだよ?

 一度噂になれば事実なんて関係ない。たとえ私がきちんと検査を受けて、本当のことが分かったとして、噂が――この呪いが消えるとは思えない。

 いいえ、きっともっと恐ろしいことになる。もしかしたら、明かされるべき事実こそが、呪いそのものなのかも知れない」


 聞く側を不安させる抑揚のなさで、ミナは淡々と語った。彼女の穏やかに垂れたまなこは、今や卑屈に歪んでいた。


 不意に、ミナが自らの腹部をさすり始める。、彼女の肚は以前より少し膨らんで見えた。


「私の目的はね。あのをすべての苦しみから救うことだけ。

 そのために、少しでも考える時間が欲しかった」


 ミナの声は柔らかで、同時に逼迫したものを感じさせる。彼女にとってそれは、どうしようもなく切実な願いなのだろう。


「末奈先輩の外出も通院だったんですね」


 ミナが小さく頷く。多少驚いたが、一応は予想していた。


 外出を認められる理由はそう多くない。末奈の外出は月に一度、決まって第一土曜日だ。外出日に規則性がある分、ミナよりもむしろ通院に説得力があるだろう。


「私も、最近まで知らなかったけどね。

 二月の初めだったかな。たまたま先生たちが寄宿舎の廊下で話しているのを聞いてしまったの。碓氷を病院へ連れて行く、って。

 ――その日、私に病院へ行く予定はなかった。だから、マナちゃんのことだってすぐに分かった」


 俯き、ミナが回顧する。艶めく淡い色の髪が、重さで首から流れ落ちた。


 窓の外からは、雨の音が聞こえ始めていた。


「その場で先生たちを問い質しても、後で両親に尋ねても、誰も事情を教えてくれなかった。

 それで、結局はマナちゃんに直接訊くしかなかったよ。怒られるって分かってたけど、どうしても訊かずにはいられなかった。

 だって、私はそれまでマナちゃんに隠しごとなんてしたことがなかったから。体調が優れないときは当然、病院に行くときだってちゃんと伝えていたのに。

 だから、私にもそのくらいのことは知る権利があると思ったの」


 窓をたたく雨粒が気になったのか、ミナは再び外を見た。しかし、彼女はすぐにまた視線を落とした。


――そんな風に、マナちゃんは言ってた。

 あのときの私には、どういうことか分からなかった。けど今なら分かる。マナちゃんの言うことは正しかった」


「――それは違います。

 多分、貴女たち姉妹のどちらかが責めを負うべき事柄じゃない」


 思わず口を挟んでいた。


 姉妹に何があったのか、詳しくは分からない。しかし、それが呪いによって齎されたであろうことは、容易に想像がついた。つまりそれが、碓氷末奈の通院の理由だろう。


 わたしの言葉が気休めにも聞こえなかったのか。ミナは顔すら上げないまま溜息だけを返した。


「それでも、何も分かっていなかったあのときの私は、つい食い下がってしまったの。

 マナちゃんは笑ってた。当たり前だよね。あのが何に苦しんでいたかなんて、考えればすぐ分かったのに。

 ――けれど、そのときのマナちゃんの答えだけは、今でも理由が分からない」


「あの人は、何と――?」

 

 ミナが、ゆっくりと顔を上げた。彼女は笑顔とも泣き顔ともつかない表情のまま、口を開いた。


だって言ったの。

 通院なんて嘘だって。先生の目を盗んで、外で男の人と会っていたって」


「――馬鹿な」


 それではまるで、彼女が姉に被せようとした、サマリア会の噂そのものだ。


「分かってる。そんなこと、できるがわけないって。でも、だったら何でマナちゃんは私にだけ嘘をいたの?」

  

 沈痛な面持ちで、ミナがわたしを仰ぎ見る。わたしにも、碓氷末奈の真意がどこにあるのかは分からなかった。

 

「末奈先輩の言うこと確かに気になります。ですが、今はそれを考えているときじゃない。

 病院に行ってください、ミナ先輩。貴女の身体はもう限界です。

 それに貴女が恐れているのは、貴女のせいで末奈先輩にも売春の噂が立つことでしょう。なら、なおさら事実を明らかにすべきだ」


 少なくともミナが抱える問題は、聖霊の働きによるものではない。福音を告げる天使など方便に過ぎない。そんなもの、初めからいるはずはなかったのだ。


「意地悪を言うんだね。

 それができないから、あなたを頼っているのに」


 ミナの瞳が、失望に揺らいだ。


 わたしが今告げた選択肢は、初めから存在していた。ミナはそれを最後の手段と位置づけていたのだろう。だからこそわたしを試し、頼ろうとした。


 だが生憎、わたしは彼女が望むような名探偵ではなかった。誰もが驚き称賛する推理や真実を披露することなどできなかった。


 ――わたしにできるのは、いつだって当たり前の話だけだ。


「先輩の言うように、事の起こりが暴かれれば、呪いはより色濃くなるかもしれません。

 けれど先輩は――いやわたしたちは、まだ誰一人としてを把握できていない。

 どうせ、最後にはすべて知れることです。座したまま破滅を待つよりは、僅かな望みに賭けてみてはどうですか?」


「――それでも、私はマナちゃんをこれ以上苦しめたくない」


 ミナの小さな拳が、羽毛布団を握り込んでいる。それこそ、誰かの代わりに引き受けた苦しみを、堪えているようにも見えた。


「何故ですか? 何故先輩は、末奈先輩のためにそこまでするんですか?

 貴女が売春していると言ったのは、ほかならぬ末奈先輩です。彼女がそう触れ回る理由さえ、貴女は知らされていないんでしょう?

 それなのに何故、貴女は自分を陥れようとする彼女だけを守ろうとするんですか!?」


 純粋に疑問だった。末奈はあんなにもミナを疑い、軽んじているのに、ミナの思考はすべて末奈を中心に回っている。そもそも、誰かのために命を擲つことができるという人間は、この世にどれだけいるのだろう。


 ――かつて、わたしの目の前で身を投げた彼女を想う。彼女もまた、わたしのために死んだと考えるのは、自惚れだろうか。


 しかし、ミナの答えはまたしても予想だにしないものだった。


「――だって、私とあのは同じ人間だったから」


「貴女は――」


 ――何を言っているのか。問い返そうとしたわたしを、ミナが視線で制す。


 部屋の中が、不意に暗くなった。空を見れば、一段と分厚い雲が立ち込めていた。


「ねえ、貴家さん。

 貴家さんは、私とマナちゃんの見分けがつく?」


「当たり前でしょう。

 髪型も、声も、物腰も、何もかもが違うじゃないですか」

 

 口に出してすぐ、強い違和感を覚える。


 本当に――そうだろうか。わたしは初めて彼女に会ったとき、どう感じていた?


 わたしの迷いに気づいたのか、ミナが諭すように小さく笑った。


「じゃあたとえば私が眼鏡をかけて、前髪を編み込んでみたら?

 あのみたいにムスッとして、黙って二人で並んでいたら――それでもあなたは、私たちの見分けがつくと言い切れる?」


 ――二人はそう、この部屋と同じだ――


 ――装いが違えど、生徒の私室はすべて同じ間取りなのだから、どうしたって似てしまう――


 ――碓氷ミナと碓氷末奈は、その存在があまりに共通していた――


 何も言い返せなかった。彼女たちがその気になれば、わたしに二人を見分けることなどできない。


 ただそれだけのことで、どうしてこんなにも不安に駆られるのか。


 言葉を詰まらせたわたしを見て、ミナは満足げに――しかし寂しげに頷いた。


「見分けられるはずないよね。だって本当は、私たちも区別なんてしていなかったんだもの。

 ――子どもの頃は、もっとずっとそっくりだったの。

 同じ顔、同じ髪、同じ声、同じ服。私たちにはそれぞれ名前があったけど、そんな記号に意味なんてなかった。姉と妹なんて、どちらが先にお腹から出てきたかの違いでしかない。

 そんなものに拘っている周りの人たちが、可笑しくて仕方なかった」


 ミナの声が、また段々と平坦になっていく。いや、今度は声だけではない。彼女の顔から表情が、機微が、精細が失われていく。その様子が無性に恐ろしくて、わたしは声も上げられなかった。


 部屋は、ほとんど夕方のような暗さだった。雨音も、随分強くなっている。

 

「だけど大人たちは、あくまで私たちを姉妹として区別しようとした。

 馬鹿げた話だよね。両親は私たちをいつも平等に扱おうとしたけど――私たちへの施しを秤にかけた時点で、私たちに姉妹という区別ゆうれつをつけてしまった。

 目には見えないものを、同じだけ与えるなんてこと、できるはずないのに」


 話しながら、時折ミナが身じろぎする。窓の外に、自分の手に、わたしに視線を向ける。普段には気にも留めないだろう、何てことのない彼女の仕草。そのすべてから、鉄の軋む音を幻聴した。


「優れているのが姉で、劣っているのが妹。誇らしいのが姉で、可哀想なのが妹。そう

 出来の良し悪しなんかは、都度宛てがわれる物差しによって簡単に変えられる。だからミナは、いつだってマナより優れていた。

 上手くできたミナは褒めてあげて、できなかったマナは慰めてあげる。そういうことにしておくのが一番楽だった。

 それが本当の意味で平等を実現する方法だって、きっと大人たちは信じていたんだと思う」


 ――この女は、誰だ。


 壊れた機械みたいにカタカタと音を立てながら、彼女は語り続けた。無論、すべてはわたしの錯覚だろう。


 同時に、もはや何者とも知れないこの女を、わたしは随分前から見知っているような気がした。


「下らない価値観は、私たちをどんどんいびつにした。

 ――マナより褒められているミナが、妬ましかった。

 ――ミナと比べられて、慰められているマナが、惨めで仕方なかった。

 何より、すべては私たちしまいのための営みであるという事実が、ひたすら虚しかった」


 誰かの声が、言葉が、感情が昂ぶっている。しかしそれは、まるで録音を垂れ流しているかのように実感がない。


 耳障りな音が、わたしの意識を蝕んでいく。


「そのうちあのは、私とはまったく別の存在として振る舞うようになった。きっと比べられることが――私たちしまいでいること自体が嫌になってしまったんだね。

 ――今ではもう、何を考えているのかすら分からない」


 彼女の言葉から、徐々に勢いが失われていく。霞みがかっていたわたしの思考も、すぐにまた精彩を取り戻す。


 その先に、彼女の能面じみた顔が見えて、ようやくその正体に気がついた。


 ――これはだ。


 目の前の彼女は、きっとまだ別たれていない。ここにいるのは、自らをミナともマナとも認めることのできない、名も知れぬ子どもだった。

 

 いつの間にか、随分雨音が激しくなっている。遠くの空で、雷が走るのが見えた。


ミナには、ただマナだけがあれば良い。幼い頃はマナもそうだったのはずなのに――それでもあのは、ミナを拒絶した。

 だけど――いいえ、だからこそあのは、私以外にを求めた」


 ――その言葉に、再び身が強張る。


 彼女マナが求めたが何かなど、考えるまでもない。


「あのひとだけはいけないと、私は言ったの。あの深くて、暗い――夜の海みたいな瞳にだけは、取り込まれてはいけないと。

 けれどマナちゃんは聞く耳を持たなかった。他人ひとを愛したことがない――自分しか愛したことがないミナに、マナのことなんて分かるわけないって」

 

 覚えのある話だった。胸の奥がじくじくと痛み出す。無意識に、鳩尾みぞおちのあたりを手で抑えていた。


 ――――


 あのときのミナの言葉の意味も、今なら分かる。ミナは売春の噂だけではなく、少女Sからも妹を遠ざけたがっていた。だから何もかもを天使のせいにしようとしたのだ。


 苦悶するわたしには目もくれず、彼女は独白にも似た台詞せりふを吐き続けた。

 

「私は、あのを想ってる。私はあのためなら何だってできる。

 それでも、私の想いも多分、今はもう別たれたあのに対するものじゃない。もしかすると、私が愛しているのは――かつての私でしかないのかも知れない」


 そこでようやく彼女――碓氷ミナは、わたしに向き直った。先ほどの無表情ではなく、わたしの知る姉としてのミナの顔に戻っていた。


 罅割れた唇を震わせながら、ミナが口を開く。


「貴家さん。愛って何?

 私たちは、何故こうなってしまったの?」


 ――それだけは、わたしには答えようもない問いかけだった。


「どうして、わたしにそれを訊くんですか?」


「どうしてだろうね。

 何となくだけど――あなたは、私に似ている気がしたから」


 胸の痛みが、形容しがたい熱に変わっていく感覚があった。


「――だったら、なおのことわたしに分かるわけがない」


 身勝手にも同情を寄せる彼女を、わたしは拒絶した。


 ミナは、わたしの嫌悪やまいを知らない。しかし鈴白と同じく、それを感じ取ったというのなら、なおさらその無神経が許せなかった。


 わたしは一度だって、自分さえ愛せたことなどないのに。わたしはもう二度と、愛を取り戻すことができないのに。


「――そっか。

 あなたも、私に愛を教えてはくれないんだ」


 ミナが、静かにわたしを蔑んだ。だが彼女の瞳には、哀れみにも似た色が浮かんでいた。


 自覚する。わたしはミナに嫉妬しているのだ。愛を知らぬと嘯きながら、自分だけの愛の形を保っている彼女が、羨ましかった。


 そしてミナも、わたしは何も知らぬと理解して、諦めがついてしまった。


「ああ――」


 私たちを隔てる世界ものは、全部消えてしまえば良いのに――


 ――己の肚を見下ろしながら、か細い声でミナが呟いた。


 遠くの空が、仄かに明るくなり始めている。雲が少し、薄くなっているのか。晴れ間は見えない。雨もまない。それでも次第に、濃い闇が部屋の隅へと追いやられていく。雷鳴だけは、何故だか少しずつ迫っている気がした。


「わたしに先輩の――先輩たちの気持ちは分かりません。だから、どうするかは先輩が決めてください。

 わたしに愛は分からないけれど、わたしもそれを知りたいと思っています」


 窓の方を向いた彼女にそれだけ言って、わたしは席を立った。


 わたしができることは、もう何もない。あとは彼女が心を決めるだけだ。


「ありがとう、貴家さん」


 居室を出る寸前、背後から声をかけられて、わたしは踵を返した。


 ベッドの上の碓氷ミナが、あのすべてを諦めた目で笑っていた。


「やっぱり、あなたの言う通りね。やるべきことなんて、本当は最初から決まってた。

 だから――もう一つだけ手伝ってくれる?」


「――わたしに、できることなら」


 ミナはもう一度小さく礼を言ったあと、一呼吸置いてから切り出した。


「これはあなたへのお願い――いいえ、挑戦かな。

 私はこれから、すべてを明らかにするつもり。そのあとに、もし貴家さんがを教えてくれたなら、代わりに一つ、良いことを教えてあげる。

 私の身体がどうしてこうなってしまったのか――私とあのを納得させられるだけのを」


 残された力を振り絞るように、ミナが言った。


 ――理由。わたしの提案通り事実を明らかにする代わり、納得のいく説明を施せという。それができなければ、恐らく呪いが解けることもない。事実がどうであるかは、彼女たちにとって二の次なのだろう。


 しかし――、彼女たちを納得させることなど、果たしてできるだろうか。

 

「先輩は、何を知っているんですか?」


 そしてそれ以上に、ミナの言葉が気にかかった。


 彼女は何を以て、わたしと取引しようというのだろう。


「――勿論、少女Sの真実ことに決まってるでしょう」


 ミナの背後で、雷光が音もなく閃いた。

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