/4 寄宿舎(六月六日)

「――どうしてこうなった」


 見慣れた天井の下でそう零すと、すぐ隣から呆れたような溜息が聞こえてきた。


「日頃の不摂生が祟ったんだろう」


 ベッドの傍にかけたシェーファーは、小刻みに銀の髪を揺らしながら言った。その手に握られていたのは、彼女に似合いの銀の刃。何も見えていない筈なのに、もう片方の手に持った林檎の皮を、つかえる様子ひとつなくスルスルと剥いていく。


 平日の真っ昼間に――とは言っても外は夜闇に等しい曇天だが――自室で横になったまま過ごすのは、実のところ久しぶりだった。往診を受け、熱も大分引いていたが、先日の怪我や逃亡の前科ゆえに、引き続き修道女直々の看護、という名の監視下に置かれることとなった。ありがたいやら気恥ずかしいやらで、ついつい掛け布団で顔を隠したくなる。


「何を今更恥ずかしがっているんだか。

 お前、倒れたあと神代にお姫様抱っこで運ばれたんだぞ?」


「それを言わないで下さいよ。せっかく忘れようとしてたのに」

 

 抗議のため布団から顔だけ出すと、シェーファーが呵々と笑うのが見えた。


 やはり夢ではなかったか。いや、わたしにとってはほとんど悪夢だった――よりにもよって、あの女に身を預けることになるなんて! あとで散々からかわれるに決まっている。


「何にせよ、しばらく安静にしていることだ。御母堂の心配は結構だが、自分が倒れてしまったら文字通り本末転倒だぞ。

 それに今週末は聖霊降臨祭ペンテコステだからな。ちゃんと治して、聖餐式ミサにも出席するんだぞ」


「そういえば、もうそんな時期ですか」


「ホームルームで何度も言っている筈だが?」

 

 見えていないと分かっているものの、睨みを利かせる担当教諭から、ついつい顔を背けたくなる。

 

 聖霊降臨祭ペンテコステは、降誕祭クリスマス復活祭イースターと並ぶ、キリスト教三大祭日の一つだ。復活祭同様、移動祭日だから、毎年日付は微妙に異なるわけだが、今年は六月九日――つまり、今週の日曜日になるらしい。


 非信徒も多く在籍するこの学院では、普段の礼拝は強制されていないが、三大祭日は行事としてスケジュールされているため、基本的に全員参加となる。とは言っても特別なことをするわけではない。普通の聖餐式と違うのは、司祭様の説教が倍増で長くなることくらいだ。


「ほら、剥けたぞ」

 

 枕元にある小さな棚を机代わりに、林檎の載った白い皿が置かれた。定番のうさぎ型。本当に器用なものだ。


 シェーファーは律儀にゴミや道具を片付けてから、今度は小さな銀のフォークを取り出して、皿の上の果実に刺した。当然そのまま手を離すものと思って、わたしも上体を起こすと、計らっていたシェーファーが、そのまま一切れ、わたしの前に差し出す。


「あーん」


「やめてくださいよ恥ずかしい」


「恥ずかしいことあるか。だろう? 良いから、あーん」


 珍しく意地の悪い笑みを浮かべながら、シェーファーが急かした。からかい混じりだろうが、厚意があるから無碍にもし辛い。


 観念したわたしは、目の前の林檎を一口に――するには少し大きいので、とりあえず端っこを齧ってみる。口内にじんわりと甘い蜜が広がり、染み込んでいくのを感じながら咀嚼する。


 わたしの態度がお気に召したのか、シェーファーが頬を柔らかく綻ばせる。


「どうだ、美味しいだろう?

 夜になったら、また何か消化の良いものを持って来るよ」


「先生、わたしのこと子どもだと思ってませんか?」


「分かっているじゃないか。

 手のかかる娘ほど、可愛いと思っているよ」


「――構い過ぎだっつの」


 ほとんど口の中で呟いたつもりが、彼女の耳には届いていたのか、シェーファーは小さく笑声を漏らすと、誘うみたいにフォークを軽く揺らした。


 実際誰も見る者はなく、わたしは空腹を感じており、そして切り分けられた林檎に罪はない。わたしは言い訳がましく思考を巡らせながら、ようやく一切れ食べ終わると、シェーファーがもう一切れ、更に一切れと差し出して来る。


 ――そんな、児戯めいたやりとりしばらく続けていると、


「また、何か良からぬことに首を突っ込んでいるらしいな」


 唐突に、シェーファーが平坦な声で尋ねた。


「ちょっと心当たりがありませんね」


「とぼけるな。神父様から聞いているぞ」


「カマかけようたって駄目ですよ。鈴白先生は特別に講義をしてくれただけです。そんな話はしちゃいません」


 シェーファーが不満そうに眉を寄せたのは、決してわたしが服の袖で口元を拭ったことに気づいたからではあるまい。わたしの答えはその場しのぎの言い逃れに過ぎなかったのに、彼女も追及を続けなかった。


 小さな、しかし酷く耳障りな甲高い音が聞こえた。シェーファーがフォークを置いた皿の上には、林檎がまだ何切れも残っている。


「――先生は、聖霊の働きを感じたことはありますか?」


 少しの思案ののちに、こちらから探りを入れてみる。


「何だ藪から棒に。

 お前、遂に改宗する気になったのか?」


 冗談めかしたシェーファーに、わたしはこっそり胸を撫で下ろした。


 もし彼女が碓氷ミナの病状に勘づいていれば、質問の意図を確かめようと詰問しただろう。この様子を見るに、幸いにも今のところ、彼女の耳に妊娠の話は届いていないらしい。


「生憎ですが、今のところその予定はありませんね。

 ただの興味本位ですよ。説話には聖霊に満たされ、異言を語ったとありますが――非信徒のわたしからすれば、正直解釈に困ります。

 それに学校行事とはいえ、謂れもろくに知らないまま、参加するのも不誠実でしょう?」


 出任せだが、まったくの嘘でもなかった。聖霊降臨について、わたしが知っているのは、あくまで聖書に記されている言葉のみだ。


 キリストの昇天から十日後、五旬祭の日に集い、祈りを捧げていた彼の弟子たちに、突如として天から――聖霊が降り注いだ。聖霊とは三位一体、神の位格ペルソナの一つだ。その聖霊に満たされた弟子たちは、――異言で語り出したという。


 この奇跡を以て、初期キリスト教会の成立と見做すのが一般的だ。つまり聖霊降臨祭ペンテコステとは、教会の誕生を祝う祭日とされている。だが、わたしが本当に訊きたいのはそんなことではない。


 聖霊の働き――処女おとめを孕ませる何者かを、あるいはそれを謳う意味を知るために、会話のいとぐちとしただけだ。シェーファーが碓氷ミナの件を知らないとはいえ、どこかの司祭を相手取るときと違って、一応の言い訳は必要だろう。


「随分と殊勝なことを言うじゃないか。

 しかし――確かに、分かりやすいくだりではないな」


 値踏みするような間があったものの、シェーファーが変わらず穏やかでいることに安堵する。彼女は「そうだな」と意味のない言葉で空白を埋めながら、虚ろな瞳を中空に遣った。


五旬祭ペンテコステが、旧約聖書では七週祭シヤブオツトと呼ばれていることは知っているか? これは過越祭パスカ仮庵祭スコートに並ぶユダヤの祭日なんだが、ほかの二つほどは重要視されていなかった。

 だがキリストの昇天後、五旬祭の最中さ なか、弟子たちに聖霊が降り注ぎ、そしてを語らせた。復活したキリストが、予め弟子たちに伝えていた通りにな。

 つまりこの説話は、ユダヤ人のための祭日が、あらゆる民族に開かれた教会が誕生した日へと移行したことを示しているんだ」


「異言――というのは方便ってことですか?」


 わたしが疑問を差し挟むと、シェーファーは何かを案じるような声音で否定した。


「誰もそうは言っていないだろう。

 思うに、貴家は少し考え過ぎなんだと思うよ」


「と、言いますと?」


 飛躍はあったかもしれないが、素朴な疑問のつもりだった。もし聖霊の働きが方便であるのなら、その結果である処女懐胎は、果たして現実に起こり得るだろうか。


 だからこそ、シェーファーの表情に一瞬深刻な影が差したことを、見逃せるはずもなかった。


 彼女は――一体何を案じているんだろう。


「最初の質問だが。私はただの修道女で――それにこんな身体だからね。特別な体験をして来たかと訊かれれば、そんなことはなかったと思うよ。

 物心つく頃から信仰が身近にあったから、主を信じることが当たり前だったし――それを疑問に思った時期もあったがね。

 主の存在を、誰にも説明できるような、明らかな形で実感したことはなかった。

 ――しかしだからこそ、と言えるのかもしれない」


 シェーファーの声は、すぐ元の穏やかな調子に戻ったものの、その言葉の意味はまだよく理解できなかった。


 困惑するわたしに、彼女は銀糸の髪を揺らしながら、唇で小さく孤を象った。


「聖霊の働きというのはね。聖書にあるような素晴らしい回心や体験、導きは勿論だが――私たちも日々の生活に見出すことができるんだと思うよ。

 神の位格ペルソナである聖霊は、ヘブライ語のルァハ、ギリシア語のプネウマと対応している。これらは本来、風や息といった意味だ。

 神の息吹である聖霊はであり、同時にでもある。つまり主に選ばれた特別な人間が、使命を成し遂げるための恵みであるわけだが――私たちが主を信じる限り、私たちもまた、その息吹を感じて然るべきだ。

 たとえば、昨日は弾けなかった難しい曲に挑戦したり、友人の菜園の世話を手伝ったり、お世話になっている人に手料理を振る舞ったり。

 そういったささやかな決断と行いを、主はきっと後押ししてくれているのだと、私はそう思うよ」


「可愛い生徒の見舞いに来たり、ですか?」


 わたしの軽口をシェーファーは咎めず、花のように笑った。


 そして彼女は、その白い手をゆっくりとこちらへと伸ばし、わたしの頭を優しく撫でた。


「お前が誰かのために一生懸命になっていることだって、主は知っておられるはずだよ」

 

「――だから、わたしはキリスト教徒じゃないですってば」


 そうだったな、と彼女は少し寂しそうに言って、わたしの髪から手を離した。


 ――他人に髪を触られるなんて、死んでも御免だと思っていた。


 だと言うのに、気づけばわたしはシェーファーにもたれかかるように身を寄せていて、彼女もまたあやすかのようにわたしを腕に抱いた。


「今日は、やけに甘えたがりだな」


「――先生が、いつもより優しいんです」

 

 彼女の胸元に顔を埋めたまま、わたしは言った。


「当たり前だろう。弱っている子どもを突き放したりはできないよ」


 一層優しい声色で、シェーファーが言った。顔を見なくても分かる。彼女はまさに慈母のような笑みのまま、私を見下ろしているのだろう。わたしはそれが恐ろしくて、顔を上げられないでいた。


 ――この人に視えている世界は、きっとどうしようもなく美しいのだ。


 温かい。彼女の手は、胸は、その肉体は、これ以上ないほどに、わたしに人の温もりを感じさせた。


 ――それでも、わたしはそれを尊いとは思えなかった。


 彼女の生きる世界が妬ましかった。その清廉さに吐き気を催した。


 分かっている。わたしが不快に感じているのは、尊さすら認められない自分自身の醜さだ。


 だからわたしは、彼女の胸で泣くことすら叶わなかった。


「――まだ、少し熱があるかな。

 さあ、もう横になりなさい。夜になったら、また来てあげるから」


 しばらくの間そうしていたが、シェーファーは壊れ物を扱うかのような手付きで、わたしをベッドに横たえると、丁寧に布団までかけてくれた。

 

 たったそれだけことで、どこからともなく現れた睡魔が、わたしの視界を霞ませる。胸のうちには、まだあの悪心がこびりついたままなのに。


「――先生、先生」

 

 幽かな彼女の姿に向けて、わたしは謝罪の言葉を口にする。自分がどういうつもりでそれを言ったのか、眠たい頭ではもうよく分からなかった。


「お前は身勝手で無鉄砲だが――正直者だ」


 誰かの影が、雫のように言葉を落とす。しかしその温かさは、わたしの体に染み込むことなく、ベッドに滑り落ちていった。


「――だから、貴家。

 サマ――会を――」


 ――眠りに落ちる前、とても大切なことが聞こえたはずなのに。


 わたしの都合の良い脳は、その尊い声を虫食いにした。



   ✳



「起きてたんだ。調子はどう?」


 入浴から戻ったらしい、部屋着姿の栗毛の少女は、ペタペタと足下でスリッパを鳴らしながら、わたしの居るベッドの方までやって来た。


「大分マシかな。まだ立つとふらつくけど」


 わたしはそう答えて、読みかけの文庫本を閉じて枕元に置いた。


 目を覚ましたのはつい先程だった。いい加減、眠るのにも飽きたから起きていたが、決して本調子というわけではない。流石に出歩く元気はなく、とにかく暇を持て余していた。


 退屈を察したのか、まひろが屈んでわたしの顔を覗き込む。


「うん、顔色は大分良さそう。ご飯も先生と食べたんだよね?」


「お粥だけな。それもかなり早い時間に」


 これがかえって空腹感を煽ることになり、余計に辛かった。とはいえこれ以上は胃が受け付けそうにないのも事実だが。


 わたしの飢餓感など知らないまひろは、良かった、と素朴な感想を述べると、手に持っていた袋を自分のベッドに放った。中で化粧水やら乳液の瓶が擦れたのだろう、カラカラと硬質な音が鳴った。


 てっきりそのままベッドに腰掛けるか倒れ込むものと思っていたら、まひろは何故か踵を返して、部屋の入り口の方へと引き返した。


 すぐに水音が聞こえてくる。ここからは見えないが、洗面所にいるらしい。


「もしかしてオートミール?」


 水流と張り合うみたいに、まひろが声を響かせた。水流も時折押し負けるかのように勢いが弱まったり、すぐにまた強くなったりを繰り返している。


「いや、普通に米だったよ。

 あの人、調理師に手間を取らせたくないからって、自分で作ってくれたみたいでさ。それで、わたしも偏見と思いつつ訊いてみたんけど、実は麦粥が嫌いなんだと。意外だよな」


 対するわたしの声量は、いつもよりむしろ抑えめだったが、ちゃんと向こうまで届いたらしい。まひろの笑い声が微かに聞こえた。


「そうなの? 外国の人って、皆オートミール好きなんだと思ってた」


「分かる。

 わたしとしては、先生に好き嫌いがあったこと自体びっくりだね。あの人、昆虫食とか異様に詳しいぞ」


 うええ、とまひろが大袈裟に悲鳴を上げた。気持ちは分かる。我々の師は、良くも悪くも得体が知れないのであった。


(これも偏見なんだろうが)


 当人もいないのに、勝手に微笑ましさを覚えていたところで、急に水の流れがんだ。


 それからと、何かを締め上げる音が、しばらく聞こえていた。


 ひやりとした汗が頬を撫でる。理由なく無言でいたが、まひろもまた口を閉ざしたままだ。


 そしてようやく、まひろが部屋に戻って来た。


「よし。じゃ、服脱ごっか」


 ――数拍。


「あの、まひろさん?

 わたし今風邪引いてるので、そういうのはちょっと」


 静かにベッドの隅まで移動したわたしを、まひろが不可解そうに眺める。


「だからでしょ。

 お風呂入ってないんだし、汗で体、気持ち悪くない?」


「何だ。それを先に言えよ」


 今更気づいたが、まひろの手には湯気立つタオルがあった。何のことはない。先程はこれを用意していたのだろう。そして今度は勝手に箪笥からわたしの着替えを取り出している。


「まあ、じゃあお言葉に甘えますけど」


「素直でよろしい。それじゃ動いた動いた」

 

 まひろがベッドに上がり込み、わたしの背中を押す。どさくさに紛れて裾を掴み上げようとする彼女の手を払い除け、自分でさっさと服を脱いだ。


「うわ、大胆」


「馬鹿か」


 わざとらしく顔を覆ったまひろだが、普通に指の間から目が見えている。


 大胆も何も、裸なんて散々見ているだろうに。主に風呂場とか――あとはそう、風呂場とか、風呂場とか。


 今更恥ずかしがることなんてない、と自分自身に言い聞かせながら、下着まで剥ぎ取られないように、念のため胸をガードしておく。


「それでは、失礼して」


 まひろは自分の後ろ髪を縛ると、ゆっくりとタオルを握った手をこちらに近づけて来る。


「っ――」


 温かい生地が肌に触れる。まずは項から首を一周し、鎖骨のあたりまでを拭われる。


「はい、腕上げて」


 促されるまま左腕を上げる。肩から上腕、下腕を辿ったあと、指先は絡めるように。そこからまた腕を上って、腋は筋肉の凹凸まで丹念になぞられた。それが終わって、わたしが胸を押さえる腕を入れ替えると、今度は右腕で同じ流れを繰り返す。


「捌かれてるときの魚って、こんな気持ちなんだろうか」


「捌かれてるときは、大体もう死んでるんじゃない?」


 鼻歌交じりのまひろを横目で睨みつけてみたが、とぼけた表情しか戻って来ない。


「お前は随分楽しそうだな」


「楽しいよ? どこに何個ほくろがあるか数えるの」


「真面目にやって」


「ちゃんとメモに残します」


「そうじゃなくて」


 こちらは本気で指摘しているのに、冗談としか思っていないのか、まひろがクスクスと笑った。大きな溜息をくれてやったあと、少しどきりとする。一転、まひろの顔つきがとても大人びたものに見え出したから。


「――この間の怪我も、痕にならなくて良かった」


 まひろの細い指が、わたしの肩に触れる。彼女の長い睫毛が、微かに揺れていた。


 ――五月末、わたしは鐘楼の階段から突き落とされた。直後のまひろの取り乱し方は、これまでに見たことがないほどだった。


 彼女は、心底わたしの身を案じていたのだろう。


 わたしが何も言えずにいると、まひろは沈黙を埋めるように微笑んで、再びタオルを動かした。とはいえ上半身だけならすぐに拭き終わってしまう。

 

「下は――」


「自分で拭く」


「ちぇー」


「ちぇーじゃない」 


 まひろからタオルを奪い取り、一通り身体を拭いたら、そのまま着替えまで済ませてしまう。


 その間にまひろがネットと籠を持って来てくれたので、下着はネットに入れてから、タオルと部屋着のワンピースとまとめて籠に放り込む。あとは籠を所定の回収場所に持って行くだけで良い。


 衣類の入った籠を、まひろが壁際に移動させる。


「後で持って行くからあのまま置いといてね」


「悪いな。何から何まで」


「いえいえ。むしろ役得と言うか、料金前払いみたいなものですので」


「――まさか、もう調べがついたのか?」


 自分のベッドに腰掛けて、わたしと向かい合ったまひろが頷いた。

 

 確か、頼みごとをしたのは今朝だった筈だ。あのときはまだ意識がぼんやりしていたし、元々こんなに早く結果が出ると思っていなかったから、それ自体すっかり頭から抜け落ちていた。


「というか、はなから看病のつもりじゃなかったのかよ」


「そのつもりじゃなくても、結果的には看病になってるから良いんじゃない?」


 まひろがあっけらかんと下心を正当化する。良し悪しを決めるのは彼女ではなくわたしだと思うのだが、追及するのももう面倒だった。


「それで、どうだった?」


 まひろが髪を解きながら、うん、と一拍挟んだ。


「たみちゃんの言ってた通り、ミナちゃん先輩は、三月の日付で一度だけ外出の申告してたよ。

 というか、ミナちゃん先輩はほとんど毎月名前があったけどね。それでも、先月と今月だけはまだ記入がなかったから、外出してないんじゃないかな」


 まひろの説明は、概ね予想の範疇だった。


 学院の生徒が、敷地の外に出るためには、二種類の書類が必要となる。一つは、外出そのものの許可を得るために、担任教諭に提出する外出届。もう一つは、舎監室――寄宿舎の管理人室で記入を求められる、外出申告書だ。


 外出届は、基本的に外出予定日の三日前までに提出するよう義務付けられている。これは長期休暇中の帰省についても同様だ。記入項目は学年、氏名、外出予定日、外出事由に至るまでかなり詳細で、担当教諭の承認と学長の決裁も必要とされる。


 これは即ち、学期中にごく私的な理由で外出すること自体、普通は許可が下りないということだ。ただし、やむを得ない事情――急病や訃報など急を要する場合は、書類の提出を後回しにでき、特例的に外出が認められるという。


 外出申告書は、個々人が記入する体裁ではなく、複数人が一行ずつ書き込んでいく表形式で、外出前と帰校後に寄宿舎の舎監室で記入を求められる。あくまで舎監が生徒の動向を把握しておくための書類らしく、用意されている記入欄も部屋番号と氏名、そして出入日時だけだ。


 しかし――申告書は一覧表であるために、誰がいつ外出したかだけなら、わたしたち生徒にも見ることができてしまう。


 尤も通常その機会は、外出届が既に承認されており、舎監室で実際に申告書を記入するときに限られる。また当然、特定の誰かがの外出したかどうかを確かめる権利も、わたしたち生徒にはない。それなのに、舎監の目の前でバラバラと申告書の束を捲って見せれば、咎められずには済まないだろう。


 つまるところ、本来であれば現実的ではないのだが、都合の良いことに、その制約はわたしたちとっては――いや、


「ミナ先輩は、平日にも外出していたんだな?」


「うん。出かけてた曜日も時間もバラバラだった。だいたい日帰りだったけどね」


「となるとやっぱり病院か。

 逆に生理不順を自覚してからは、行くのを控えてるんだろう。本人もそのことを隠しておきたいようだし」


 末奈は姉の外出を疑っていたが、それ自体は誤りではなかったらしい。むしろ、それだけ外出していれば、同室で暮らしていて気づかない方がおかしい。家族であれば、教職員からある程度の事情の説明もされているはずだ。


 だというのに、末奈は姉の外出を曖昧に語った。サマリア会が姉の売春の手引きをしているなどと世迷言を口にしていたあたり、姉を陥れる意図さえ感じる。


 一方で、もし姉のミナが言う通り、彼女がなら、そう自覚した時点で、病院できちんと診断を受けた方が、余計な疑惑を生まずに済む筈だ。ミナが外出していたと分かった以上、外部の男性と関係を持った可能性を完全に否定することはできない。とはいえ通院ならば教職員の付き添っていただろうから、密会などまず不可能だろう。


 一度整理してみる。碓氷ミナは生理不順に苦しんでいる。ミナは表向き妊娠を否定しながら、同時に妊娠を仄めかすような天使の目撃を証言している。


 相反する二つの主張を掲げるミナは、既に錯乱しているのか、あるいは周囲を撹乱しようとしているのか。ひとまず前者ではないと信じたい。そして後者なら、既に流布している幻視譚――少女Sの呪いについて、敢えて言及を避けているように思える。


 だとすれば、彼女の生理不順と、少女Sには何か関わりがあるのだろうか? もしそうであるなら、彼女はではない。ミナのそれは、明らかに外的要因によるものとなる。


 長考していたが、まひろが一切口を挟んでこないものだから、かえってその様子が気になって来る。


「珍しく難しい顔をしているな。何か気になることでもあるのか?」


「ひっどい。あたしだって、ちゃんと考えてるんだから」


 まひろがわざとらしく腕を組み、ぷりぷりと立腹した。釣り上げた眉がむしろ愛らしくて、自分の頬が綻んだことに気づく。


「悪い悪い。お前はよくやってるよ。

 で、どうしたんだ?」


 拝むように手を合わせ、茶番に付き合ってやる。まひろも得意げな笑みを返し、しかしすぐに真面目な表情になった。


「外出申告書だけどね、ミナちゃん先輩だけじゃなくて、末奈先輩の名前もあったの。

 それも毎月、決まって第一土曜日に外出していたみたい」


「――それ、本当か?」


 マジマジ、とまひろ。


 しかし姉からも、そして妹自身からもそんな話は聞いていない。言う必要がないと考えたのか、それとも言いたくなかったのか。


(あのときのミナの反応は、これが理由か?)


 わたしが三月中の外出について尋ねたとき、ミナは酷く動揺していた。わたしは外出していないことを確認したのだ。

 

 だとすれば、ミナも妹の外出について知っていた。あのときミナはわたしの言葉を聞いて、妹が自身の外出を隠そうとしていることに気づいたのだろう。


「碓氷――末奈先輩の外出はいつ頃からだ?」


 まひろはすぐに首を横に振った。どうやら彼女も気にしていたらしい。


「そこまでは分かんない。

 今年の申告書は、クリップボードごと壁にかかってたからすぐに見つかったけど、去年より前の表は一緒じゃなかったの。多分別に保管してるんじゃないかな。

 少なくとも、今年に入ってからは毎月外出してたよ」


 残念ながらそれ以上の裏取りはできなかったらしい。しかし――

 

(碓氷末奈が、このことを隠していたのなら)

 

 姉が売春していただなんて思い込みはブラフだ。自分だって同じように外出していたのだから、少なくともそれだけを理由にサマリア会と――売春なんて与太話と結びつけたりはしないだろう。


 加えてミナが外出するようになったのは、恐らく以降だ。外出の理由も察しがつく。


 だとすれば、呪われているのは一体誰なのか。


 ――でも、これは本当。私が視たのは間違いなく天使だった――


 彼女の顔が脳裏に過る。あの言葉の真意を確かめるときが来たのかもしれない。


「一応訊いておくけど、このことを神代は」


「教えてないし、知らないと思うよ。

 たみちゃんこそ、知ってるでしょ? あたしの特技」


 ――その声は、何故だが酷く無機質に聞こえた。


「知ってるよ。単なる確認だ」


 。この二つにかけては、まひろの右に並ぶ者はいないだろう。


 それが分かっているからこそ、わたしも彼女に舎監室への侵入を頼んだ。担任にする外出届については、誰がどこに仕舞っているかは分からないが、外出申告書を束ねたクリップボードが舎監室にあることは周知の事実だ。何せ舎監室で生徒が直接記入するのだから。


 とは言え、まひろも鍵を破れるわけじゃない。舎監に気づかれずに部屋へと侵入し、書類を確認することは決して容易ではなかった筈だ。


 向かい合う彼女の顔を見る。わたしと変わらない背丈。ふわふわの栗毛。星の光を孕んだ大きな瞳。


 ――わたしの知る中で、一番女の子らしい女の子。


 そんなに、わたしは盗人紛いのことをさせている。それもわたしと彼女のためにじゃない。、だ。


「――まひろ。この間はごめん」


 口を突いて出た言葉だった。


「どうしたの、今頃。

 そのことはもう仲直りしたじゃん」


 まひろが控えめに微笑む。その表情が余計胸に痛くて、わたしは言葉を連ねずにはいられなかった。


「それでも、ごめん。

 いつもいつも、ごめん。わたしのために無理をさせて、ごめん」


 温室での秘事。わたしはあの亀裂さえ、その場凌ぎの言葉で塗り固めて、誤魔化していた。


 熱で目の前がゆらゆら滲む。風邪のせいだろうか。今日は何だか感情を抑えることができない。喉奥に込み上げる薄っぺらな謝罪を、吐き出さずにはいられない。


 突然、まひろがわたしの右手を取った。驚くわたしを愛おしむように、まひろはわたしの手に自分の顔に近づけて、優しく頬ずりをした。


「たみちゃん、前にこう言ってたね。あの娘の――少女Sの呪いを解きたいって。

 だったら、呪いが全部解ければ、あたしのところに戻って来るんでしょう?」


 落ち着いた声音。わたしのことを信じて疑わない、その愚昧に怖気立ちながら、その言葉を否定することはできなかった。


「――ああ、勿論」


「だったら、良いの。

 たみちゃんがあたしを好きじゃなくても、、後は何だって良い」


 まひろはそう言って、祈るようにわたしの右手に自分の両手を重ねた。


 ――彼女は一つ、大きな勘違いをしている。わたしが解こうとしているのは、わたし自身にかけられた呪いじゃない。わたし以外の人間にかけられた呪いだ。むしろ、他人の呪いを解けば解くほど、わたしの呪いは深まっている。


 初めは声も聞こえず、書庫でかすかな姿を視るのみだった。しかし二つの呪いを解いた今、あの幻影は学院を闊歩している。辛うじてこの寄宿舎には現れていないが、もしまた誰かの呪いを解けばどうなるのか、自分でも分からない。


 重ねられたまひろの両手に、わたしも左手を添える。震えているのはわたしと彼女、果たしてどちらだったのか。


 ――わたしは、嘘に塗れた人間だ。


 両親にも、兄にも、妹にも、師にも、生まれてからずっと嘘を吐き続けている。だからわたしは、たった一人の友人にだけは、誠実でありたかった。それなのに――


「分かってる。わたしは、嘘を吐かないから。お前だけには絶対に」


 誓い合うように、お互い手と手を取る。


 亡霊の哄笑が、どこか遠くで聞こえた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る