/6 聖堂~相談室(六月九日)

 聖餐式ミサを終えて、夕方。わたしと神代は、揃って司祭棟の相談室に呼び出された。


 呼び出しの理由は分かり切っていた。できることなら逃げ出したかったが、どうせひとりではこの学院から出ることすら叶わない。


 一連の騒動で気疲れしていたわたしは、相談室前で神代と合流しても、言葉を交わす気は起きなかった。向こうもそれを分かってか、何も言わずにドアノブを握った。


「神代、貴家。二人とも座れ」


 正面――窓を背負って座すシェーファーが、厳しい声で言った。わたしたちは、速やかに彼女の対面に着席する。


 部屋の空気は、空模様と同じくらいに重々しい。


「何故呼び出されたかは分かっているな?」


 修道女の顔つきが一層険しくなる。それだけで、わたしは何も言えなくなってしまった。怒っている。当たり前だ。わたしたちには、叱責を受けるだけの理由があった。


「いえまったく。皆目見当がつきません」


 だというのに、隣に座る泣きぼくろは飄々と言ってのけた。


 絶句するわたしの鼻先で、神代は片手をひらひらと振って見せる。任せておけ――いや、引っ込んでいろとでも言いたいのか。


「白々しい。碓氷末奈はお前たちに相談したと言っていたぞ。

 ――碓氷未奈の妊娠を知っていながら、何故報告しなかった」


 修道女が凍えた色の瞳を細める。どうやら先に妹の方を締め上げていたらしい。


 わたしたち以上に混乱しているであろう彼女マナが、何をどこまで話したかは分からないが――果たして言い逃れの余地など残されているのだろうか。


「まだ妊娠していると決まったわけじゃないでしょう。

 それとも、もう調べがついたんですか?」


 だというのに、それでもなお神代は強気だった。


 彼女の奇妙な態度にシェーファーも困惑したのか、一瞬だが怯んだように見えた。


「――未奈は、麓の病院で検査中だ。細かい検査結果は明日以降になるだろうが、エコーの結果だけならすぐに分かるだろう。

 だが事実がどうであれ、彼女には妊娠の疑いがあったのなら、私たちに知らせるべきだった。違うか?」


 眼光が、すぐにまた鋭さを取り戻す。しかしそれも、神代は真っ向から受けようとはしなかった。


「姉先輩と妹先輩は、ぼくを信頼して打ち明けてくれたんです。簡単には裏切れません」


「随分と自信があるようだな。

 それとも、私たち教師は信頼されていないとでも言いたいのか?」


 声量こそ控えめだったが、言いようのない圧があった。神代も流石にそれを感じ取ったのか、彼女の表情に僅かな焦りが滲んだように見えた。


「まさか。そんな滅相もございません。

 ただ――先生方が相手だからこそ、話しづらいこともあるのでは? ここ二ヶ月、担任のひもろぎ先生は、姉先輩に避けられていたそうじゃないですか」


「出過ぎた真似だと言っている」


 ぴしゃり、と。放たれた一言が、反論を打ち切った。


「言い訳を聞くために呼び出したつもりはない。

 すべて、話してもらうぞ。お前たちの知っていることはすべてな」


 有無を言わさぬ口調で、シェーファーが迫った。


 諦めたような溜息の後、神代がこちらに視線を寄越す。その意図を察して、わたしは軽く頷いておく。


「仕方ありません。承知しました。

 では、順を追ってお話ししますが――」


 神代が口火を切った横で、わたしは今日の事件を思い返した。

 


   *



 薔薇を自室に置き忘れたことに気づいたのは、定刻より少し早い十時五十分頃――会衆席に着いた後だった。


 聖霊降臨の主日は、全生徒が聖餐式ミサに参加する。いつもは閑古鳥の鳴く聖堂も、今日はほとんど満席だ。律儀なことにどの生徒も、胸に赤い薔薇のコサージュをつけている。前日に配布されたそれは、普段の聖餐式では用いられない、この日のための特別なものだ。


 取りに戻ろうかと考えたが、腕時計を見てその気も失せた。十分では往復すら厳しいし、聖餐式が始まってからの入堂はできない。それに普段と違って今日は席順まで決まっている。聖歌隊など一部の生徒を除いて、会衆席の三列目から学年順、出席番号順に座るようにあらかじめ指示されていた。わたしの席は真ん中あたりの列だから、ギリギリ戻って来れてもかなり目立ちそうだ。


 別に薔薇の着用も絶対ではないだろう。諦めようとしたわたしの右肩に、何かの先端が軽く触れた。


「たみちゃん、これ忘れもの」


 隣の席のまひろがわたしの肩をつつきながら、もう一方の手でコサージュを差し出した。


「悪い。助かった」


「ありがとうでしょ」


 そう笑ったまひろに軽く礼を言って、コサージュを受け取る。神代がいなくて良かった。先日、温室でまひろとの関係について嫌味を言われたばかりだ。どう絡まれたか分かったものじゃない。通常の席次では、貴家と曽我部の間に、当然神代が挟まるが、彼女は侍者を務めるため、後から司祭とともに入堂する。持者の席も前方から二列目と決まっていたはずだ。


 席次といえば、かつてはわたしと神代の間に挟まっていた彼女も、今日はまだ視ていない。堂内を軽く見回してみたものの、やはり亡霊の姿はなかった。先日の一件以来、聖堂にも現れるようになったから、てっきりその辺りにいると思ったのだが。

 

 じきに定刻となり、起立を促されたわたしたちは、立ち上がって身廊の方を向いた。右手に見える楽廊――聖堂入り口の真上に配された中二階から、パイプオルガンの前奏が聞こえてくる。典礼音楽特有の、不協和音を混じえた複雑な音色おん しよくだ。


 楽廊に立つ聖歌隊が入祭唱を歌い出し、十字架や蝋燭、香炉を持った白い長衣アルバの侍者たちを伴って、司祭が入堂する。男は赤い長衣に加え、首に赤いストラをかけていた。相変わらず左腕は吊ったままだから、正直不格好にも見えたが。


 行列は会衆席を通り過ぎ、聖堂の奥――内陣へと至った。鈴白は司祭席の前でこちらに向き直り、十字を切った。


「――父と子と聖霊の御名によって」


「「アーメン」」


「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに」


「「また司祭とともに」」


 鈴白と会衆で交互に唱える。入祭の挨拶を終えると、司祭は一度会衆席を見渡して、それから満足げに頷いた。


「皆さんこんにちは。今日は聖霊降臨の主日礼拝です。一年生は初めてですね。

 とはいえいつもの聖餐式ミサとそう変わりはありません。一年生の皆さんも、一度は授業で聖餐式ミサを経験していますし、あまり構えずに。

 ――それでは皆さん、神聖な祭りを祝う前に、我々の犯した罪を認めましょう」


 鈴白が一瞬頭を下げて沈黙する。


「全能の神と」


「「兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください」」


 鈴白の先唱に続き、その後全員で回心する。途中で会衆は一度言葉を切り、その先を鈴白ひとりで唱える。


「全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいますように」


「「アーメン」」


 最後は全員でアーメンを唱えた。回心が終わり、合図とともに再びオルガンの演奏が始まる。


 ――主よ、あわれみたまえ。


 ――キリスト、あわれみたまえ。


 聖堂にあわれみの賛歌キリエが響く。さらに栄光の賛歌グロリア、司祭による集団祈願を経て、ことばの典礼へと続く。


「――五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした」


 ことばの典礼――第一朗読は一年生の担任である千明ちぎら教諭が務めた。読み上げられたのは、使徒言行録の第二章だ。


 続く答唱詩編の先唱は前生徒会長の鹿毛か げが、第二朗読は三年生の担任である胙教諭がそれぞれ務めた。


 それからアレルヤ唱、聖霊降臨の続唱を終えると、司祭が朗読台へ移動し、福音書を朗読した。


「――聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。

 キリストに賛美」


「「キリストに賛美」」


 鈴白は一礼した後、皆に着席を指示する。聖餐式が始まって、既に約三十分。しかしぞっとしないことに、本当に長いのはここからだ。


 説教を始める前に、鈴白は先ほどと同じように会衆席を端から端まで見渡した。


「生憎の天気ですが、皆さんと共に今日この日を祝えることを、とても嬉しく思っています。長くなりますので、どうか楽にして聞いてください。

 ただし寝ないように。特に二、三年生は、毎年似たような話を聞いているとは思いますが、それでも居眠りは厳禁ですよ。テサロニケの信徒への手紙にはこうあります。『ほかの人々のように眠っていないで、目を覚まし、身を慎んでいましょう』と。君たちもなのですから、年に一度の行事くらいは、最後まで起きていてくださいね」


 長ったらしい前振りに、思わず欠伸が出そうになった。本人は場を和ませようと言ったつもりかもしれないが、衒学的な言い回しがいちいち鼻につく。


 空気の読めていない司祭は、またしても満足そうに頷いていた。


「皆さんもお気づきのように、今日の朗読箇所はいずれも聖霊降臨に因んでいます。講義でもたびたび触れていますが、せっかくなので今日がどんな日なのか、改めて確認しておきましょう。

 一般に、降誕祭クリスマスはキリストの誕生日だと言われます。厳密ではありませんが、ひとまず置いておくとして、これと同じように教会の誕生日と言われるのが聖霊降臨祭ペンテコステです。

 ご存知の通り、キリストは十字架にかけられた三日後に復活し、その四十日後に昇天しました。そしてさらに十日後、五旬祭の日に、集まっていた弟子たちへ聖霊が降り注ぎました。先ほど千明ちぎら先生が朗読した使徒言行録第二章ですね」


 講義と変わらない調子で、司祭が説明を始めた。とはいえ、ここまではそれこそ講義で何度も聞いた内容だった。男の話は、まだまだ始まったばかりということだ。


「まず『激しい風が吹いて来るような音が天から起こり』とありますが、これは聖霊の出現を示しています。何故ならば聖霊は神の息吹であり、そしてしばしば風に象徴されるからです。

 また、弟子たちの上に留まったも、聖霊の象徴のひとつです。同時に、舌というのは言葉を象徴しています。直後の異言を暗示しているわけですね。

 この舌を模して、聖霊降臨祭ペンテコステではしばしば赤い薔薇が用いられます。たとえばイタリアでは、聖餐式ミサで薔薇の花びらを撒くそうです。

 皆さんがつけている素敵なコサージュも、これにあやかっています。皆さんは今まさに、聖霊に満たされているのです」


 会衆の誰かの胸を示すように、鈴白が怪我をしていない右手を差し出した。コサージュは去年も配られたが、謂れについては初めて聞いたように思う。


「さて五旬祭の日、聖霊に満たされた人々は、異言――異なる言葉で話し出したとあります。これは誰もが異なる言葉で話しているにも関わらず、神の偉大な業を語っていると理解できた、ということです。創世記におけるバベルの塔――神に言葉を乱され、お互いの意思の疎通ができなくなったときと、まったく逆の出来事が起きたわけですね。

 神によって言葉を分かたれた人間が、神によって再び言葉が通じるようになる。この出来事こそが新たな共同体――教会が誕生した契機とされます。また、このとき溢れるほどに注がれた霊によって、三位一体が完全に啓示されました」


 鈴白は、そこで一度言葉を切った。会衆が咀嚼するのを待っているのか。少しの間を置いて、男はまた語り出す。


「この出来事は、聖霊の働きを端的に示しています。聖書には、ほかにも様々な奇跡が記されています。

 しかし聖霊の働きは、常に劇的というわけではありません。

 そもそも我々は――失礼、皆さんの多くは洗礼を受けていませんでしたね。念のため、他意はないことを断った上で言いますが、そもそもキリスト者は皆、聖霊を受けています。聖霊は誰しもの中に住まうのです。まさにそのコサージュが示すように。

 神が人を愛するように、人も人を愛することができます。それは神が、神自身の性質を人に分け与えてくださったからです。これが聖霊の内住であり――」


 ――唐突に、鈍い音が説教を遮った。

 

 周囲が振り返ったのにつられて、わたしも背後を見た。そうして初めて音の正体に気づいた。聖堂の扉が開かれたのだ。


 入り口の両扉が、自重でゆっくりと閉まっていく。その扉の前に、見覚えのある誰かの姿があった。

 

 ――碓氷ミナだ。


 ミナは体を左右に大きく揺らしながら、ゆっくりと身廊へと踏み入った。見れば、彼女は寝間着のワンピースのままだった。髪もろくに調えておらず、靴だって履いていない。


 明らかに、尋常な様子ではなかった。

 

「何事だ!」


 ざわめきを掻き消すように、前方に控えていたシェーファーの怒号が響いた。聖堂が一瞬静まったのを見計らって、シェーファーは携えた白杖をつくこともなく、ミナへと駆け寄ろうとする。


「待ってください」


 ――しかし、場を取り仕切る司祭がそれを制した。


 修道女が足を止め、朗読台へ振り返る。ここからでは彼女の背中しか見えないが、どんな表情かは容易に察しがつく。


「少しで構いません」

 

 鈴白が短く言った。


 一旦任せる気になったのか、元いた前列の柱近くまで下がったシェーファーは、案の定険しい顔つきをしていた。男はほかの教職員にも目配せして、異論を挟む者がいないことを確認した後、ようやく身廊を進む彼女に声をかけた。


「未奈くん。体調はもう良いのですか?」


 不思議とよく通る低い声で、司祭は酷く場違いなことを言った。


 身廊の中程――わたしの座る列を通り過ぎたあたりで、ミナは立ち止まった。


 彼女の横顔は痛みを堪えるかのように引き攣っていて、立っていることすらやっとに見えた。


「ごめんなさい、先生。

 どうしても、今ここでお訊きしたくて」


「はい。何でしょう?」


 どこか、覚えのあるやりとりだった。


「先生は、聖霊の働きを信じているのですか?」


「勿論。それがどうかしましたか?」


 愚にもつかない問いかけに、司祭が淀みなく答えた。未奈が一度、大きく肩で息をした。


「――では、もし独りでに子を身籠ることがあれば、それは聖霊の働きによるのでしょうか?」


「さて、どうでしょうか。必ずしもそうであると断言はできません。しかし、そんなことはありえないと否定することも、僕にはできません。

 処女おとめマリアや、ザカリアの妻エリザベトは、聖霊の働きによって身籠ったとされます。そのような奇跡も、ときには起こり得るのかもしれない」


 鈴白が危なげなく答える。会衆席の空気が、微かに弛緩した。妙な状況だったが、男の落ち着き払った態度が、わたしたちを安心させた。シェーファーも、それを分かって任せたのだろう。


 このままミナが質問を終え、温順おとなしく退出すれば、男は何事もなかったかのように、聖餐式ミサを再開するに違いない。

 

?」


 ――だが、その先は得体がしれなかった。


 司祭の顔から、笑みが消える。


「未奈くん、それは――」


「子どもなんて欲しくなかった。そんなこと考えもしなかった。


 俯き、独白するようにミナが言った。呼吸が一定していない。声量と強勢の狂った言葉の塊は、妙に不安を掻き立てた。


「私はひとりで良かった。ほかに誰も要らなかった。

 だったら何故、が在るの?

 神が愛だと言うのなら――私のも、愛によって齎されたと、そう仰るのですか?」


 顔を上げた彼女は、しかしこの場にいる誰かを見てはいなかった。そしてまた、この場にいる誰が、彼女の問いに答えられただろう。あの鈴白要でさえ、既に返す言葉を失っていた。


 ミナの叫びは、止めどなく噴き上がる彼女の感情そのものだ。

 

「落ち着いてください、未奈くん。

 君はいささか混乱している」


 鈴白が再び周囲に目配せをした。どうやら無理矢理にでもミナを退出させるつもりらしい。


「――そうでしょうね。

 私には、が何によるものなのか、本当に分からないから」


 囁くような声で、ミナが誰にでもなく呟いた。


 内陣にいた胙が、ミナへと歩み寄って行く。


 不意に、ミナが身を翻した。逃げ出そうとしたわけではなかった。彼女はその場に留まったまま、天を仰ぐようにおとがいを上げた。


 ――嫌な、予感があった。


 ミナの視線を辿る。その先に何があるかなど、考えるまでもない。彼女は中二階を見ていた。


 ――そこにいたのは、怯えた表情で階下を見る、彼女の半身だった。

 



「だから、ここにいる皆に、私の愛を視て欲しいんです」




 そう言って、ミナはワンピースのボタンに手をかけると、そのまま


 石の聖堂が、しんと静まり返る。


 誰もが彼女の行動を理解できず、ただ呆然と眺めていることしかできなかった。


 だからこそ、違和感を覚えた者も少なくなかっただろう。身廊に立つ下着姿の少女の腹部は、やはり不自然に膨らんでいた。


 わたしは――わたしたちは、もうそれに釘付けだった。


 ミナの肚の上で、黒い花弁が広がる。いや、あれは胎児だ。巨大な眼球だ。


 彼女の皮膚を食い破り露わになった闇色の瞳が、周囲を見渡すように忙しなく動き出す。


 直感する。あれに見られてはならない。気づかれてはならない。


 あの血走った眼球に、今度こそ正気を保ってはいられないだろう。だからわたしは、ただ息を殺すのに必死だった。


 その眼球に――肉塊たいじに指を這わせながら、ミナがよこしまに笑った。


 総毛立つ。自分が宿しているものの正体に、彼女は既に気づいていたはずだ。は聖霊の働きによるものではないと理解していたはずだ。だから余計に、こんな真似をしでかす意味が分からなかった。


 不意に沸き起こった思考の渦に呑み込まれて、わたしは出口を探すように、ひとつひとつ言葉を検めていく。


 碓氷ミナ。


 鈴白要。


 聖堂。


 聖餐式。


 典礼空間。

 

 碓氷末奈。


 胎児の虚像。


 変性意識の伝播。


 幻想の投影。


 ――まさか。


 空間が、大きく脈動した。

 

 周囲を見回す。ここにいる誰もが、碓氷ミナを見ていた。


「――たみちゃん。あれ、何――?」


 隣席のまひろが、恐怖に声を震わせて言った。


 何故気づけなかった。


 ――誰かの悲鳴が、空気を切り裂いて、


 ――狂騒は、たちまち燃え広がった。



   *



 初めにひとりが叫んだら、それでもうお仕舞いだった。


 すぐに誰かがその場に倒れ込んで、抱え起こそうとした別の誰かが嘔吐した。


 恐ろしさからか、逃げ出そうとした誰かがいた。それが一人であれば良かったのに。同じように逃げ出そうとした者同士で聖堂の入り口でぶつかって、また叫び声が上がった。何人もが将棋倒しみたいに積み重なっていって、鍵もかかっていないのに、入り口は決して開かなかった。


 混乱していたのは生徒たちだけではない。大人たちも、同じように狂騒に駆られていた。を視て平静でいられる人間など、いるはずはなかった。

 

 ――気がつけば、聖堂内は叫び声で溢れていた。


 視えている者もそうでない者も、皆怯え、取り乱し、狼狽えていた。


 混乱の最中、鈴白とシェーファーだけは比較的冷静だったらしい。修道女は騒然とする堂内を一喝し、司祭は速やかに別の出入り口からミナを連れ出した。


 その後シェーファーは正気に戻ったほかの教職員と連携し、依然不調を訴える生徒たちを、順番に退出させた。


 騒ぎが収まるまでに、結局三十分近くを要した。皮肉なことに、わたしはあの手の幻を視慣れていたためか、大した影響は残らなかった。


 しかし、保健室に連れて行かれた生徒だけでも十余名。そしてその中には、わたしのルームメイトも含まれていた。


 歯噛みする。まひろは今、部屋のベッドで眠っている。わたしがミナを焚きつけなければ、彼女に塁が及ぶこともなかったのだろうか。


「一応は、こんなところでしょうか」


 神代がそう締め括ったのを聞いて、わたしは視線を上げる。


 ――神代の説明は一見整然としていた。


 まずは碓氷末奈から相談を受け、わたしに任せるまでのあらましを語り、そして碓氷姉妹に何が起きていたかを順繰りに説明した。


 神代は、ミナの生理不順が妊娠に起因するとは断定できないと主張した。そしてミナが視たという天使と、末奈が疑っているサマリア会について、いずれも生理不順との因果関係を証明できないとした。


 一方で神代は、ミナの天使に関する証言が、ミナ自身による妊娠の否定と矛盾することについて言及しなかった。


 わたしはわたしで、補足のために時折口を挟んだが、わたし自身の目的とミナの切望については伏せておいた。また神代はともかくとして、シェーファーは把握はしているだろうが、妹の外出履歴についても話題にしなかった。


 シェーファーはすべてを話せと言ったが、具体的に何について話せとまでは、予め指示しなかった。


 だからまず要点から話して、細かいことは訊かれたときに答えれば良い――というのは勿論建前で、実際は余計なことを言って藪蛇になるのを避けたかった。


「結局、お前たちは姉妹から相談を受けていたものの、妊娠ではないと思ったから、教職員に知らせなかったと言うのか? 自分たちだけでも十分解決できると?」


「いやいや、そこまで思い上がってはいません。あわよくば、がなかったとは言いませんがね。

 妹先輩にはここだけの話にして欲しいと相談されていたのに、即日密告はできませんよ。流石にバレるでしょう。

 我々の調査というのは、つまるところ両先輩へのアリバイ作りであり、先生方にお伝えする機会を伺うための時間稼ぎでした。

 それに、姉先輩の様子がおかしいことはご存じだったのでしょう? もし今日の出来事が起きず、たとえ我々が報告しなかったとしても、そろそろ強硬手段に出るつもりだったのでは?」


 神代このおんならしい姑息な責任転嫁だった。わたしたちが報告を怠ったことを棚に上げ、教職員が事態を認識しながら後手に回ったことを非難しているのだ。


 教職員としては、頻繁に通院している姉妹らを気遣ったのかもしれないが、もっと早く、無理にでも事情を聞き出していれば、今日の出来事は起きなかっただろう。


「こちらの認識不足と管理不行き届きは認めよう。だがお前たちが報告を怠ったことは別問題だ。

 貴家。お前はどうだ。あの姉妹について、直ちに報告すべきだと、少しも考えなかったのか?」


 これに人徳によるものか。開き直りともとれる言い分は、しかし話をすり替えようとしている風には聞こえなかった。どこぞの生徒会長とは大違いだ。

 

「まったく考えなかった、と言えば嘘になります。

 しかし、神代の言い分も決して嘘ではありません。こんなことになるだなんて、思わなかったから」


 ひとつひとつ、慎重に言葉を選びながら答えた。シェーファーは一度目を伏せてから、小さく溜息を吐いた。


「もう一つ、訊いておこう。

 神代、何故聖堂の鍵を閉めなかった? お前のことだ。まさか忘れていたわけではないだろう?」


 鋭い眼差しが、再び神代を射抜いた。


 聖餐式ミサの最中は、特別な理由がない限り入退出できない。察するに、司祭が入堂する際、侍者が内側から施錠するのだろう。


 痛いところを突かれたのか、ようやく薄ら笑いを止めた神代は、シニヨンの後ろ髪を引っ掻いた。


「姉先輩に頼まれたんですよ」


「頼まれただと?」


 流石に聞き流せない一言だった。神代は苦々しい表情を浮かべながら、歯切れ悪くも続けた。


「ええ。

 体調が優れないから間に合わないかもしれないけど、どうしても聖餐式に参加したいと姉先輩が言うんでね。

 拙にこっそり頼むくらいだ。てっきりもっと目立たないように入ってくると思っていましたよ。

 それがあんな真似をしでかすだなんて、拙にとっても予想外でした。当然その後のこともね。

 我ながら言い訳がましいと思いますが、軽率だったと反省しています」

 

 珍しくしおらしい様子だった。彼女らしからぬ迂闊さに違和感こそ覚えたが、しかし反省しているというのも本当のようだ。


「そうだろうな。

 あんなことになろうとは、誰にだって想像できるはずがない」


 一応は納得したのか、シェーファーが肩を竦める。実際何もかもが、わたしたちにとって予想外だった。


 だとしても、このまま済まされて良いはずがない。空隙を見計らって、最大の疑問に切り込んだ。


「わたしからも訊いておきたいんですが、ふたりは、その――何も視ていないんですよね?」


「――貴家さぁ。

 それは愚問、もしくは失言というやつじゃないか?」


 隣で椅子を傾けながら、神代は溜息混じりに言った。盲人であるシェーファーにする質問ではないと言うのだろう。しかし尋ねないわけにもいかなかった。


 ――あの肉塊が、視覚だけに依るものとは限らない。


 幸い、シェーファー本人はわたしの発言を咎めはしなかった。そして生憎、質問には首を横に振って返された。


「それについて、一応報告は受けている。

 逆に訊こう。貴家、?」


 まっすぐと、こちらへ向いた瞳の冷たさに、思わず息を呑む。


「何を、かは分かりません。

 それでも、強いて言うなら――わたしには、胎児に視えました。

 信じては、もらえないかもしれませんが」


 自分の視たものを、まひろ以外に詳しく話したのは、これが初めてだった。勿論、彼女たちに硝子のことまで打ち明けることはできないが。


 それでも、シェーファーは穏やかな声で「信じるよ」と言った。

 

「お前と同じことを、あの場にいた何人もの人間が話しているからな。咲耶――胙先生や、神父様までそんなことを言うんだ。お前たちは、あのとき確かにを視ていた。

 そのことについて、未奈本人から詳しく聞けてはいないが、あのときの彼女の言葉を考えるに、そうなることが分かっていたはずだ。彼女の行動こそが、直接の原因になったのだろう。だが――」


 シェーファーはそこで言葉を切った。ミナに何故そんなことができたか、何故そんなことをしたのかが分からないのだろう。


 前者については、おおよその仕組みは予想がついた。要は交霊会と同じだ。典礼空間という非日常体験を利用して、自らの幻視を伝播させたのだ。あの状況でさえ何も視えなかったふたりには、説明したところで理解されないだろうが。


 後者については、わたしにもまだ確かなことは言えなかった


 ――私はこれから、すべてを明らかにするつもり――


 恐らくこれこそが、ミナの言っていたわたしへのなのだろう。


 突然、ベルの音が鳴り響いた。音の出所は、入り口近くの壁面に取り付けられた受話器からだ。どうやら内線が繋がっているらしい。


 シェーファーは少しだけ迷っていたが、結局立ち上がって、受話器を取った。


 通話時間は、一分もなかったと思う。彼女は簡単な受け答えだけに終始して、またすぐに席に戻って来た。


「エコーの結果が出たんですね?」


 わたしが尋ねるよりも早く、神代が訊いた。


「これ以上、お前たちに隠し立てする意味はないな。

 話す前にふたつ約束しろ。まず今から言うことは他言無用だ。この件についてほかで話題にすることも極力避けなさい。

 もうひとつ。当分の間、お前たちから姉妹に接触することを禁じる。

 ――分かったら返事をしろ」


 分かりました、とふたり声を揃えて答える。これ以上この件に関わるなということらしいが、ひとまずここは頷いておくほかない。


 わたしたちの答えを聞き届けたあと、ゆっくりとシェーファーが語り出した。


「まず簡易検査を行なったが、陽性反応は出なかった。そのあと、念のためエコー検査を行ったが、胎児の姿は勿論、子宮筋腫などの様相も確認できなかったそうだ」


「妊娠もしてないし、病気でもないってことですか?

 しかし、そんな――」


 神代が前のめり気味に訊き返す。彼女が驚くのも無理はない。彼女の様子については、わたし以上に把握していたはずだ。


 だがわたしからしてみれば、シェーファーの話は驚くに値しなかった。ミナが何を患っているのか、わたしは今朝の時点で確信を得ていたのだから。


 ――だからこれは、気分の悪い答え合わせに過ぎなかった。


「ああ。彼女の月経は止まっているし、悪阻つわりに似た症状も出ていたはずだ。妹はそう言っていたし、本人も問診で同じように答えたらしい。

 ――それが本当なら、彼女には

 つまり、俄かに信じがたいことだが、恐らく――」


 シェーファーの言葉が、そこでまた途切れてしまう。


 続く言葉は、もう分かっている。修道女が言おうとしているのは、既に排除したであろう可能性だ。わたし自身、一度はそれを否定していた。


 子を求めず、男とも交わったことのないミナに関して、その推測はあまりに非現実的だった。しかしほかならぬ目の前の現実が、その可能性を肯定している。


 ――少しの思案があって。修道女は意を決したように、灰の瞳をまっすぐわたしたちへ向けると、その先を口にした。


「碓氷未奈は、想像妊娠だ」


 この絶望は、うに予感されていた。

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