/3 夢~聖堂(五月十八日)

 心臓痕硝子の死は、公的に自殺として処理されている。しかし彼女の死について、奇妙な点が多く遺されていることもまた事実だった。


 そもそも硝子が何故自殺したのか、その理由すら分かっていない。彼女の遺書は未だに発見されていないからだ。


 入学以来、孤高を貫き続けた彼女の死を予想できた者は皆無だったが、同時にそれは周囲にある種の納得を齎した。心臓痕硝子を知る誰しもが、彼女が自ら死を選ぶはずはないと考えると同時に、また誰しもが、彼女ならいつでも己の生を無為に出来ると確信していた。結局のところ、あの異物かのじょの心の裡を真に理解していた人間など、いるはずもなかったのだ。


 だが心臓痕硝子の死に纏わる最大の謎は、にあった。


 昨年九月十四日の放課後。心臓痕硝子は、この鈴懸女学院の屋上から墜落死した。しかし彼女の死亡直後、教職員が屋上に到着した時点では、屋上へと繋がる扉は施錠されていたという。


 屋上の扉は内鍵になっており、学舎内から合鍵を使用して施錠及び解錠を行う。つまり屋上へ出るためには、職員室で管理されている鍵を持ち出さなければならない。そして、仮に硝子が鍵を使用して屋上に出たとしても、内鍵である以上、施錠することはできないのだ。


 硝子の遺体からは屋上の鍵を発見されなかった。第一、屋上には貯水槽があるくらいで、教職員も生徒も基本的に立ち入ることはなく、毎晩用務員による施錠確認も行われていたという。


 彼女一人ではこの状況を作り出すことは出来ない。有り体に言えば、密室というやつだ。


 飛び降りてすぐ、硝子は庭園にいた教職員らに発見された。彼らが屋上から飛び降りたということに気づき、警察への通報と現場の保全を済ませた上で、屋上に到着するまで、およそ十分の時間があったという。屋上に第三者がいたとして、誰にも気づかれずに立ち去ることは不可能ではなかった。


 ――だとしても、これは意味のない密室だ。


 密室工作は、本来他殺を自殺に見せかけるために行われる。しかしこの密室は逆に、硝子の死の瞬間にことを示している。密室を作り出した者に何のメリットもない。彼女の死は殺人であると喧伝するに等しい。


 Sは、世間一般にもセンセーショナルに受け止められた。全国的にも有名な全寮制ミッションスクールの生徒が、学院の敷地内で遺書もなしに自殺したのだ。密室の件は学院の基本的に伏せられていたものの、ゴシップ誌やワイドショーは競うように事件を脚色し、扇情的な文句と共に発信したという。


 それでも結局、警察は彼女の死を自殺と発表した。学院に出資している有力者の力でも働いたのか、詳細は一学生であるわたしの知るところではない。


 あの日たまたま屋上の扉が開放されたままになっていて、それにたまたま気づいた心臓痕硝子が屋上から独り飛び降りた――そういうことになったらしい。扉はしっかりと施錠されていたという教職員の証言は勘違いであり、同時に管理不行き届きを免れるための虚言であると一蹴された。かくして心臓痕硝子の死は、学院生活における孤立を苦にした自殺という、実につまらない筋書きに落ち着くこととなった。


 あの日から、気づけば半年以上が経った。世間は彼女ことなどすっかり忘れてしまったらしい。


 一方で、学院には今でも彼女の影が色濃く残っていた。いや、むしろある意味では、生前より存在感を強めていると言えるのかも知れない。何せ心臓痕と遭ったこともない下級生まで、Sを信じているのだから。


 曰く、生徒の不可思議な消失たいがくが後を絶たない。


 曰く、夜になると学院を囲む深い森へと誘う声が聞こえる。


 曰く、相次ぐ転落事故の被害者が誰かの影を幻視する。


 Sと呼ばれる怪異譚は、大半が取るに足らない眉唾だ。今や少女Sは、この学院で起きる不可解な事象すべてに対する、妖怪じみた説明装置と化している。


 あるいはこれこそが、彼女の遺した呪いそものなのかもしれない。彼女の謎めいた死の真実が明かされない限り、この学院ではこれからも、少女Sは現れるだろう。


 それでも――わたしだけは知っていた。


 あのとき、屋上の扉は本当に施錠されていたことを。


 そして、心臓痕硝子は間違いなく自らの意志で飛び降りたことを。


 あの日、硝子が何を思ったかは知らない。それでも彼女がどんなことを話して、どんな顔であの場所から飛び降りたのか。他の誰が知らなくても、わたしだけはずっと覚えている。


 ――だからわたしは、彼女の名誉を貶める呪いの存在を、見過ごすわけにはいかなかった。



   *



「――みちゃん。起きて。たみちゃん」


 回顧する私の意識を、聞き知った声が引き揚げる。


 まず目に入ってきたのは、聖域に見える磔の聖者像。続いて祭壇と聖櫃。それからようやく、講壇に立つ黒い祭服カソックの男――張り付いたような笑みを浮かべる鈴白要すず しろ かなめ教諭と、わたしの周囲の席を固めるクラスメイトらの姿を認めた。


 ――美しく弧を描く交差ヴォールトに、見事な柱頭装飾。側廊と身廊から構成される三廊式の空間。十字バシリカを象った聖堂の会衆席にわたしはいた。どうやら今は聖書の講義の真っ最中であるらしい。


貴家さすが君。体調が悪いのですか?」


 鈴白が穏やかな口調でわたしを慮った。男はわたしのを知らされている数少ない教師だ。純粋に心配してくれているのだろう。


「いえ――すみません、居眠りをしていました」


「それはいけませんね。以後気をつけるように。貴女は講義に出られる機会が他人ひとより少ないのですから、どうか大切にしてください」


 正直に謝ると、鈴白も安堵した声で窘めるだけで、それ以上咎めることはなかった。男は聖書台に視線を落とし、講義を再開した。


「さて、ここまでは愛敵という考え方について、旧約聖書レビ記を参照しましたが、今度は新約聖書でどのように触れられているかを見てみましょう。

 それでは貴家君、ヨハネ福音書の二十一章の十五節から十九節までを朗読してください」


「は、はい」


 慌てて聖書を繰ろうとするわたしに、隣席のまひろが該当ページを開いた自分の本を差し出す。先ほどわたしに声をかけて起こしてくれたのも彼女だろう。小声で礼を言ってから指定の箇所を読み上げる。


 キリストが復活したのちに、弟子の一人であるペトロと言葉を交わす場面だった。彼はペトロに対し、三度「自分を愛しているか」と問い、ペトロも三度同じ答えを返す。そしてキリストはペトロの将来における殉教の可能性を示し、二人の問答は終わる。


 指示された場面を読み終えると、鈴白は一度大きく頷いた。


「ありがとう。そこまでで結構です。

 さて、ここでキリストはペトロに対して繰り返し質問をしています。三回というのは、キリストが囚われる直前、ゲツセマネの園で祈りを捧げた回数であり、ペトロがキリストとの関係を否定し追及を逃れようとした回数でもあります。三は聖なる数字とされているので、今挙げた場面以外でもしばしば象徴的に用いられていますね。しかし――」


 鈴白はそこで言葉を区切ると、会衆席に座るわたしたち生徒を見渡した。


「キリストはペトロに対して、ただ同じことを三回尋ねていたわけではありません。ここでのキリストとペトロの応答には一様に『愛』という訳語が用いられていますが、本来はそれぞれ異なる意味を持つ語彙が用いられていました。皆さんが今お持ちの新共同訳はもちろん、残念ながら欽定訳など欧州圏の聖書ですら、そういったニュアンスが翻訳過程で削ぎ落とされていますが」


 そう言って、鈴白は講壇の隣に置いてあったホワイトボードの前に移動すると、いかにも神経質な筆致で板書を始めた。


「キリストが一度目と二度目に問うた『わたしを愛しているか』の『愛』は、ギリシア語聖書ではἀγαπᾷςアガパイスと表記されています。皆さんもご存知のαγαπηアガペが変化したものですね。

 一方でペトロの『愛』はすべてφιλωフイロウ――友愛の意味を持つφιλiαフイリアで答えています。

 三度目の問いではキリストもφιλωフイロウと言い直していることから、この場面においては意図的に表現が使い分けられていたということが分かります。アガペとフィリア、二つの愛が交錯しているというわけです」


 ホワイトボードには日本語で『キリストの愛』と『ペトロの愛』と書かれた横に、それぞれ対応するギリシア語も記されていた。勿論、わたしたち生徒にそれが読めるはずもないが。


「こういった細かいニュアンスの脱落は、翻訳上無理からぬことでもあります。異なる言語体系において、必ずしも対応する概念が存在するわけではないからです。

 旧約聖書においても、創世記二章十五節にという表現がありますが、この『耕す』も、ヘブライ語原文に含まれていた『仕える』という意味合いが、翻訳の過程で書き落とされています。人は大地の管理者であると同時に、大地に奉仕する者であるとされていたのですね」


 今度はヘブライ語で書いているのだろう。鈴白はとシンプルな線文字を三つ記したあと、日本語で「仕える」と添えた。


「すみません先生。質問をしてもよろしいでしょうか」


 鈴白がこちらを振り返るタイミングを見計らい、わたしは右手を挙げる。


「構いませんよ。何でしょうか?」


「はい。アガペとは、神が人間に与える無限の愛と教わったのですが、キリストが人であるペトロに求めたアガペについて、どのように理解すれば良いのでしょう? それはペトロが答えた友愛フイリアとどう違うのですか?」


 失態を取り返そうという下心がなかったわけではないが、半ば純粋な好奇心からわたしはそう尋ねた。鈴白は満足げに頷きながら、右手を己の胸に置き口を開く。


「ありがとう、良い質問ですね。そのことについては丁度お話しするつもりでしたが、皆さんが意欲的に学ぼうとしていることはとても喜ばしい。

 さて、それではお答えしますが、確かに貴家さんの仰る通り、アガペという言葉は神の愛という意味で理解されます。しかしそれは必ずしも一義的なものではありません。

 例えば新約聖書には愛について様々な教えがありますが、ギリシア語版ではアガペに類する語彙が頻繁に使用されています。神から人に対する愛を語る場面でなくてもです。また、フィリアとその変形の登場頻度はかなり少ないものの、厳密にアガペと区別された上で使用されているというわけでもないようです。

 しかし先程も説明した通り、ヨハネ福音書二十一章においては、明らかにアガペとフィリアが異なる意味合いで用いられていますね。ここでキリストが語るアガペはキリストのため――あるいは十五章にあるような、友のために自らをなげうつことさえできる自己犠牲的な愛と解釈できますが、それではこの自己犠牲的な愛とは何か、もう少し具体的に見ていきましょうか。ルカ福音書の十章二十五節を開いてください」


 鈴白がそう言うと、あちこちから紙を捲る音が聞こえた。わたしもまひろに聖書を返して、今度こそ自分の本を開く。


 指定の箇所はキリストとユダヤ人律法学者の問答の場面だった。善きサマリア人のたとえと呼ばれる有名な逸話だ。


 律法学者が永遠の命を受け継ぐ法を尋ねたとき、キリストは主と隣人を愛するように言った。ならば隣人とは誰かという律法学者の問いに対し、キリストは強盗に襲われ倒れた人を介抱するサマリア人のたとえを持ち出す。


「祭司とレビ人は怪我人を気づきながらも通り過ぎて行き、しかしサマリア人だけが手を差し伸べました。

 キリストはたとえ話の最後、この怪我人の隣人とは誰であるか、律法学者に問い返します。そして律法学者もこのサマリア人こそが隣人であることを認めました。サマリア人は、ユダヤ人からは差別の対象であったにも関わらず、躊躇うことなく怪我人を介抱したからです。そしてこのときキリストが語った愛はやはりἀγάπηアガペであります。

 また初期キリスト教におけるラテン語文献では、アガペの訳としてcaritasカリタスが選ばれています。英語のチャリティの語源ですね。カリタスは友愛、兄弟愛などとも訳されることがあります。

 つまり聖書に見えるアガペとは、神が人に与える無償の愛であると同時に、共同体の垣根すら越境した、人による自己犠牲的な愛とも理解できます。友愛カリタス隣人愛フイリアは、その極限において神の愛アガペと重ねられるのです」


 そこで鈴白は何かに気づいたように言葉を切り、そしてすぐに直上から重い金属の音が響いた。正午を知らせる鐘が鳴り止むと、鈴白が再び口を開く。


「区切りも良いことですし、本日はここまでとしましょう。特に課題は与えませんが、今日お話しした内容について、時間のあるときに一度振り返ってみてください。

 それでは皆さん、良い休日を」


 鈴白の言葉を皮切りに、クラスメイトが各々のタイミングで席を立ち始める。ある者は足早に、またある者は友人と連れ立って、次々と聖堂を後にして行く。


 会衆席の長椅子では、外側の生徒が出ていかなければ動きようがない。わたしは周囲が捌けるまで待ってから、ようやっと立ち上がった。


「怒られなくて良かったねえ」


 間延びした声に振り向くと、ルームメイトの顔が間近にあった。緩慢な空気を纏った彼女――曽我部まひろは、わたしの数少ない友人の一人だ。


「日頃の行いのおかげかな」


「違うでしょ。あたしのおかげ」


 後ずさりしつつ距離を取ると、まひろが子どものように頬を膨らませる。わたしと同い年のはずなのに、その仕草には何のてらいもなく、素直に微笑ましいと感じられた。


「はいはい。ありがとう、まひろ。助かった。

 あといい加減たみちゃんはやめてくれ」


 わたしが手を伸ばすと、まひろは一転して甘えるように顔を擦り寄せてくる。ふわふわとナチュラルにウェーブのかかった長い栗毛は、庇護すべき小動物を想起させた。尤も、さほど上背がないのはお互いさまだが。まひろの場合、くりっとした丸い瞳と、あどけなさを残した顔貌かお かたちが、童女のような雰囲気をより強くしているのだろう。


 そうしてまひろの手触りの良い髪を弄んでいると、背後からわざとらしい咳払いが聞こえた。わたしは反射的にまひろから手を離し、音のした方を振り返る。


「ああ、貴家君。

 申し訳ないのですが、このあと少しだけ残っていただけますか」


 身廊の中央に立つ鈴白が言った。どうやら居眠りのお咎めなしというわけではなかったらしい。


「あたし、先に食堂行ってるね」


 素っ気ない声でそう言うと、まひろは鈴白に軽く頭を下げてからその場を退出する。小さな聖堂には、わたしと鈴白の二人だけが残された。


「ええと――先生、さっきはすみませんでした」


「頭を上げてください。別に責めるつもりはありませんよ。

 それより本当に体調は大丈夫なのですか?」


 とりあえず先に頭を下げてみたものの、案の定、鈴白は単にわたしの身を案じていただけのようだ。鈴白らしいというか、いかにもな聖職者ぶりだ。


 鈴白要という男は、元よりこのような人物だった。温厚で篤実。自身より他者を優先し、自分以外の誰に対しても平等であろうとする。絵に描いたような人格者だ。この気質に清潔感ある容姿と柔らかな微笑が伴えば、学院でも数少ない男性職員でありながら周囲の信頼が篤いことにも納得がいく。


 愛徳アガペ――自己犠牲の愛を実践できるのは、まさにこのような人物なのだろう。だからこそ、わたしは男を信頼することができなかった。


(鏡を見ている気分だ)


 顔を上げ背筋を正す。目の前に立つ男の背丈は軽く一八〇はあるだろうか。加えて姿勢も良い。わたしの背ではどうあっても見上げる形となるが、薄い胸板とのせいか、威圧感は欠片も覚えなかった。これもこの男の美点と言えるかもしれない。


「貴家君?」


「――いえ。大丈夫です、先生。わたしはいつも通りですから」


 あえて含みを持たせてみても、鈴白はそれ以上追求しようとせず、半ば苦々しくも見える曖昧な笑みを返した。


「それなら良いですが。

 自分でも、こんなことを言えた義理ではないとは分かっているのですが、やはり貴家君のことはどうにも気になってしまいまして」


 無理からぬ話だ。元々わたしのカウンセリングはシェーファー教諭ではなく、鈴白が担当する予定だったのだから。それというのも、鈴白との顔合わせが終わったあと、すぐにわたしが担当の変更を要求したせいであった。


「その節は本当にすみませんでした」


「ですから謝罪は構いませんと。

 対人関係にはどうしても相性があります。そしてそれは、カウンセリングにおいて最も重視すべき要素のひとつです。合わないと感じてすぐに担当の変更を希望した君は賢明でしたし、誠実さゆえの申し出であったことも理解していますよ。

 しかし、僕は教師でありこの聖堂を預かる司祭でもあります。何かあればいつでも遠慮せず相談してください」


 告解も受け付けていますからね、と鈴白は冗談めかして付け加えるが、わたしは明後日の方を見ながら笑って誤魔化した。誠実も何も純然たる嫌悪感から願い出ただけなのだが、善意の塊のような当人に直接言えるはずもなかった。


「それじゃあ、せっかくなのでお訊きしたいんですが。

 先生はについてどう思っていますか?」


 話の流れでそれとなく尋ねたつもりだった。しかし鈴白の笑みが一瞬凍りついたように見えたのは、決して気のせいではないだろう。


「――あれはなどではありません。

 ただの事故です。決して、誰かが故意に他者を傷つけたわけではありません」


「あくまで噂話に過ぎないと?」


 鈴白は微かに目を伏せながら、首を小さく横に振った。


「流言蜚語にほかなりません。そういった噂が広まってしまっている現状には憂慮しています。具体的には言えませんが、教職員でも対応を検討している最中です」


「では目撃されている少女S――心臓痕の霊は」


 聖堂の空気が、一層冷え込んだように感じた。


「――貴家君。ここは聖堂です。それでなくても亡くなった方を侮辱するのはおしなさい。貴女は彼女のクラスメイトでしょう」


 静かな口調で鈴白が諭す。しかしその微笑には、先程までは感じられなかった凄みがあった。


「失礼しました。

 でも先生はそのことについて、一年生から相談を受けていたんじゃないですか? 怪我をした三人が交霊会セアンスを行っていたことはご存知でしょう?」


「勿論知っています。しかし貴家君、貴女の質問に対する答えを、僕は持ち合わせていません」


「――そうですか」


 問われれば嘘はつけないが、相談内容そのものを教えることはできないという。まったくこの男は腹立たしい程に徹底している。わたしだって「心臓痕の霊が突き落とした」なんて話を本気で信じているわけではないが。


「それに、たとえ一年生が何かを見ていたとしても、それが彼女であるはずがありません。姿


「――? どういうことですか?」


 鈴白がまっすぐにわたしを見た。その視線は怯えのような感情を孕んでいて、またその笑みはどこか卑屈なものを感じさせた。


「君なら分かるはずでしょう。

 一年生はのです」


 当たり前の言葉じじつが、激しくこころを揺さぶった。


 ――名の通り、硝子のように透き通った瞳が印象的な娘だった。


 ――あの瞳は、いけない。初めて見たときから、そう感じ取っていた。


 ――彼女を知る誰しもが、あの瞳に囚われていた。


 今の一年は知らない。心臓痕硝子という生命球せかいを前にしたとき、湧き上がるあのを。彼女と出遭った者以外に分かるはずがない。あの凄絶で鮮烈な存在を言語化できるはずがない。だからわたしたちは、今でも彼女への想いに囚われ続けているのだ。


 悄然とする男を見る。鈴白は自らが発した言葉に酷く動揺しているように見えた。キリスト者である鈴白ですら彼女の魔眼には抗えなかったのか。だからこそ男は、無知な下級生たちの心臓痕げんかくは、取るに足らぬと言ったのだろう。


 ――ああ。もしかするとこの男は、真実わたしの鏡像であるのかもしれない。


「――少し、話し込んでしまいましたね。

 もう戻った方が良いでしょう。あまり遅くなると食堂が閉まってしまいますよ」


 長い沈黙は、しかし実際は数秒もなかっただろう。鈴白はいつもの聖人じみた胡散臭い笑みで退出を促した。これ以上わたしに取り合うつもりはないらしい。実際男の言う通り、土曜に午後の講義はないが、食堂がずっと空いているというわけではない。半ば幽閉生活に近いわたしたちの数少ない楽しみを逃すのは愚行というものだ。


「そうですね。長々とありがとうございました」


「こちらこそ。次は時間のあるときにゆっくりお話ししましょう」


 軽く一礼だけして踵を返す。収穫はあった。赤木からも聞いていた通り、鈴白の反応にはやはり違和感がある。しかし男と話をするのは、もう少し裏を取ってからが良いだろう。


 わたしはようやっと今日の昼食のメニューに思いを馳せつつ、聖堂から出ようとしたそのとき、


 ――右手の側廊の奥、跪く誰かの影が見えた気がした。


 立ち止まり、右方を見る。側廊の壁面には、オリーブを咥える鳩をあしらったステンドグラスが配されている。当然、その下で跪く何者かなどいるはずもなかった。


 気の迷いを払うように、かぶりを振って聖堂を出る。こんな場所に硝子がいるはずはない。だってわたしの悪霊は、未だ学舎から出たことがないのだから。

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