/4 食堂~薔薇園(五月十八日)

 学舎一階南端の出入り口は日中のみ開放されている。そこから屋根付きの外通路に出てしばらく進むと、鬱蒼とした木立の間に白い外壁が見えて来る。


 やがて通路が途切れ、開けた場所に出ると、学舎より少しだけ小さな擬洋風建築の全体を認めることができる。全生徒八十余名に加え、寮監と三名の担任教諭が生活する、この学院の寄宿舎だ。葡萄の意匠が鮮やかなステンドグラスが嵌め込まれた両扉を開き、建物へと踏み入った。


 玄関を過ぎてすぐの大広間は、一、二階が吹き抜けになっている。両翼には生徒たちの自室が並ぶ長い通路が伸びており、また大広間の左右奥にはそれぞれ上下階へ繋がる階段が配されている。そしてその中央――つまり正面には食堂の入り口が見えた。


 入り口に近づくと、に金属のプレートが掲げられており、何やら文字が刻まれていると分かる。Thou shouldst eat to生きるために食べよ; not live to eat.食べるために生きるな――誰の言葉だったか。


 食堂の中は、この酔狂な学院の中でも特別大袈裟な広さを誇っていた。二階はないが、天井は吹き抜けの大広間より更に高い。大きな天窓から降り注ぐ陽光を、幾重にも交差する剥き出しの梁が遮り、空間全体を柔らかく照らし出す。モノトーンを基調とした内装も、色面構成の巧みさ故か、いかめしさよりもむしろ穏やかさを感じさせた。


 手早く注文を済ませ、食事を受け取ってから適当な席に腰掛ける。全生徒より多くの席が用意されているため、いつ来ても必ず座れるのが美点だ。管理維持する側からすれば苦労もあるのだろうが。強いて挙げるとすれば、座椅子が聖堂の長椅子並みに固い上、細工も凝っている分、重くて動かし辛いのが難点だろうか。


「おーい、たみちゃん」


 声のした方を見ると、少し離れた卓からまひろが手を振っていた。わたしが手を振り返すと、すぐさままひろは立ち上がり、同席していたクラスメイトらに声をかけてから、盆を持ってわたしの正面に移動してきた。


「いいのかよ中座して。わざわざ来なくてもいいんだぞ」


「そんなこと言って、あたしがいないと淋しいくせに」


「子どもじゃないんだから飯くらい一人で食える。どうせ部屋に帰ったら嫌でも顔を合わせるだろうが」


 彼女――曽我部まひろは、つまるところ学院の人気者だ。絵本から出てきたような童女じみた雰囲気と、嫌味のない人当たりの良さを併せ持つ彼女は、あの悪夢のような女と違って、至極真っ当な意味で人目を引く。


 そんなまひろを昼夜問わず独り占めするのは正直忍びないのだが、何故だか彼女はわたしのことをいたく気に入っているらしい。


「もう。あたしがたみちゃんと一緒にいたいんだからいいの。あんまり口が悪いのでかき揚げは没収します」


 反論する間もなく、まひろはわたしの天ぷら御膳から野菜かき揚げを強奪し、己の口へと運ぶ。仕返しに一品戴こうと向こうの盆を見ると、ヒステリックな色の麻婆豆腐が鎮座ましましている。苦手料理を前に行き場を失ったわたしの箸は、妥協の末手前の皿に残っていた鱚の天ぷらを掴み取った。


「それでお説教はどうだったの?」


 奪い取ったかき揚げを小気味良い音で咀嚼してから、世間話とばかりにまひろが尋ねる。


「説教というほど大袈裟なものじゃなかったよ。単に心配してただけだった」


「やっぱり? 鈴白先生、良い人だけどちょっと心配性だよねえ」


「あれは度を越してるだろ。善人も過ぎればもはや気色が悪い」


「たみちゃんは不良だから良い人が苦手だよねえ」


 余計なお世話だと睨みつけてやるが、まひろはいつもの脳天気な笑みを返してくる。暖簾に腕押しとはまさにこのことだ。それ以上の応酬は諦めて、箸を進めることにした。


「そういえば、るいちゃんはちゃんとそっちに行った?」


「――ああ、赤木るいのことか。来た来た」


 ようやく本題を切り出したらしい。まひろの言葉は実に自然で淀みなく、故にあらかじめ用意された問いであると察せられた。赤木の相談をわたしに回した手前、様子が気になるのだろう。


「それで、解決できそうなの?」


「何とかなる、と思う。おおよその構造は見えてるから、時間との勝負かな」


 少しは安心したのか、まひろはおどけるように下手くそな口笛を鳴らす。


「流石たみちゃん。伊達に偉そうな苗字してないねえ」


「出たな苗字ギャグ。――それはともかく、あとは何であんなに拗れたのかって話だが」


 カチャリ。まひろの手からレンゲを離れ、陶器が擦れ合う微かな音が響いた。


「分かった。残りの三人の話が聞きたいんだ」


「お前も流石に察しが良いじゃないか」


「いえいえ、たみちゃんほどでは。

 ――それで、入院中の莉音ちゃんと、花枝ちゃんはちょっと難しいだろうけど」


 そう言って、まひろがわたしの背後を指差す。振り返ると、少し離れた卓で談笑する一団があった。リボンの色を見る限り一年生のようだ。目を凝らしてみると、会話の中心にいると思しきポニーテールの少女の左手首には、包帯が巻かれていることに気づいた。


「あれは――黒川咲月か?」


「正解。あの子は怪我も軽かったし、見ての通りすっかりいつもの調子みたい。前も言ったけど、ハキハキと喋るタイプだから話もスムーズだと思うよ」


 まひろの言葉には含むところがあった。死人に突き落とされたなどと触れ回る割に、黒川の表情は随分と明るく見える。自分が怪我をしていないのにも関わらずふさいでいた赤木とは大違いだ。


 恐らく、彼女は既にが落ちているのだろう。


 何にせよ仕事は手早く済ませてしまうべきだ。しかし席を立つため机に突いたわたしの手を、まひろが鷲掴みにして引き止める。


「待って。もしかして今すぐ咲月ちゃんに話しかける気?」


「駄目か?」


「駄目に決まってるでしょ。

 ただでさえたみちゃんは学内で悪名轟かせてるんだから。それでなくても見知らぬ上級生が食事中に突然因縁つけてきたら誰だってびっくりするよ。

 たみちゃんはそこ座ってて。あたしが執り成してあげるから」


 矢庭にまひろは立ち上がり、黒川らの方へ歩いていった。確かに知己である彼女が仲介した方が色々と都合良く回るとは思うが、それにしても。


「あいつ、わたしを極悪人みたいに言いやがるな」


 素行の悪さは自覚のあるつもりだが、少なくとも下級生に因縁をつけた覚えはない。それでもひとまずは任せるままに、まひろが集団に割って入るのを遠目で眺めていた。実際彼女のように、突然下級生の会話に加わって一層沸かせるような、要領と愛想の良さが自分にないことは承知している。


 そうして五分も待たずに、まひろは要件を終えたのか、軽やかな足取りでこちらへ戻ってきた。


「お待たせ。十五時くらいからなら空いてるって。とりあえず薔薇園の四阿あずまやに来てって言っといたよ」


 まひろが得意げに自己主張の強い胸を張った。しかし時間はともかくとして、場所については大いに不満があったので、ここぞとばかりに抗議を試みる。


「薔薇園だあ? 温室ならともかく、密談に向いてないだろ。大体あそこの四阿、いつも誰かしら茶しばいてるじゃん」


「ほらそういうとこ。学院ウチにたみちゃんほど口の悪い子はいないよ。それじゃ下級生は怖がるってば」


「いや、そんなことはない――と、思う」


 何だか今日は妙にまひろの圧が強い。わたしが言葉尻を濁していると、まひろは出来の悪い生徒を見た教師のように、わざとらしい溜息を漏らした。


「適度に人通りがある場所の方がガードも下がるでしょ。それとも知らない下級生をあの部屋に呼びつけるの? るいちゃんみたく自分から相談しに来てくれたわけじゃないんだよ?」


「分かった、分かったよ。でもお茶会連中はどうする。下手すると今の時間もうあの場所を占拠してるぞ」


「それは大丈夫。四阿だけなら人払いくらいしてあげるから」


「常々思うが、お前は一体何処の権力者なんだ?」


 皮肉のつもりだったが、まひろは照れくさそうに頬を赤くしてはにかんだ。実際まひろがいなければ、硝子との約束を果たすためにより多くの時間を要するだろう。人脈の広さという点では、わたしよりまひろの方が探偵役としてよほど有能であるようにも思えるが、一方でまひろは人の秘密を暴き立てることが得意ではないらしい。


 それに――まひろはわたしと違って、今でも硝子の瞳に囚われているわけではない。


「これも適材適所ってことなのかな」


 目に見えぬ何者かの采配だとすると、溜息のひとつも聞かせたくなるというものだ。


「――? 食べないならもらうけど」


「やらないよ」


 再び膳から料理を奪おうとするまひろを、わたしは追い返すように片手を振って制した。



   *



 薔薇園は学舎から見て北西――庭園の一角にある。この学院の庭園はイタリア式の幾何学庭園に近いとかで、主要な施設へ向かう道は整理されているものの、それ以外の小道はとにかく入り組んでいて迷いやすい。その中でも薔薇園は、まだ比較的分かりやすい位置にあり、景観も良いことから、特に二、三年の間では人気のスポットだ。マイナーメジャーとでも言えば分かりやすいだろうか。


 入り口のアーチを潜り、朧げな記憶を頼りに、薔薇園の中を進む。聞くところによると、五月は多くの薔薇が満開を迎える季節らしく、門外漢であるわたしにも今の彩りが格別であることは理解できた。今日は天気も良く、なおさら多くの生徒が行き交っていても良さそうなものだが、やはりまひろの差金によるのか、周囲の人影はかなりまばらに思われた。


 いくつかの分かれ道を経て、辿り着いた長い緑廊パーゴラを進む。薔薇園ひとつでこの複雑さだ。この学院に立体迷路がなくて本当に良かった。


 蔓棚が終わると、突如現れた高い塀が眼前を塞ぐ。しかし塀には一箇所だけ切れ目があり、そこに小さな扉が取り付けられていることも、その扉の向こう――塀の内側に白い四阿ガゼボが見えることも、わたしは随分前から知っていた。


 扉を開き、四阿まで歩く。周囲の塀は白薔薇で埋め尽くされており、この一角だけまるで塗り忘れたかのように真っ白だった。


「さながら秘密の花園だな」


 あくまで人気のない今日に限った話だが。それに小説と違って、ここはヨークシャーでもなければ、わたしが見つけて手入れをしたわけでもない。


 どうやら、待ち人もまだ到着していないようだ。わたしは屋根の下に入り、円卓の周りに置かれた椅子の一つに腰掛けると、しばらくの間、独りコマドリの囀りに耳を傾けていた


 そうして十分ほど待っただろうか。誰かが駆ける足音と、いくつか飛び立つ音が聞こえた。先ほどわたしが通ってきた緑廊の方を見ると、割合背の高い下級生――黒川咲月が小走りでこちらにやって来ていた。


「遅れてすみません。貴家先輩、ですよね?」


 よほど慌てていたのか、黒川は肩を大きく上下させながら、息を切らしたままそう尋ねた。


「ああ。まずは座ったらどうだ? 何のもてなしも出来なくて心苦しいけど」


 促されるがままに黒川は着席し、しばし息を整えていたかと思うと、わたしの姿を上から下までしげしげと、まるで珍獣でも見るかのように眺め回した。


「何か?」


「いえ、先輩が『書庫のあるじ』で良いんですよね」


「不本意ながら、そう呼ばれているらしい」


 どうやら黒川はわたしの通り名だけ聞いてあらぬ想像を膨らませていたらしい。誰が言い出したかは知らないが、そんな深窓の令嬢めいた渾名をつけられてはたまったものではない。こちとら学院の外では中学生、下手すると小学生の、しかも男の子にすら間違えられるのだ。以前は短くしていた髪も、ようやく肩口に届くようにはなったし、背丈も多少は伸びたが、顔立ちだけ見れば未だに男女の別がつけられない有様だった。中性的と言えば聞こえはいいが、要するに幼いのだろう。まひろの容姿をどうこう言えた義理はあるまい。


「意外でした。てっきり物静かなまひろ先輩みたいな人が出てくると思ってたんで」


「――っははははは!

 静かなまひろか! それは良いな! 今度本人にも言っておいてやろう」


「――! すみません! 別に、そんな、変な意味じゃ」


 吹き出したわたしを見て、黒川が己の失言に狼狽え出す。


「いや失礼。改めて、二年の貴家いたみだ。ご覧の通り、淑やかさとは無縁の風体ナリだが、よろしく頼むよ」


 黒川は複雑そうな表情のまま気のない返事をした。小生意気というか、思ったことを口や表情に出し過ぎるのだろう。本人にも自覚がありそうなあたり、下馬評よりは心証もいくらかマシだった。


(容姿で得している分はあるか)


 ミディアムヘアを高く纏め上げたポニーテールは、体格の良さも相まって、彼女を一層活動的な印象に仕立てていた。切れ長の目とすっきりと通った鼻筋を見ても、彼女が周囲からどのような視線を送られているのか察しがつく。


 赤木が黒川を眩しく思うのも無理からぬ話だ。黒川の気取りのなさは、このお嬢様学院では希少だろう。


「さて、本当はもう少し四方山話でもしてからにしようと思ったんだが――正直なところ、回りくどいのは性に合わなくてね。ここは黒川さんを信用して、簡潔に訊こうか。

 ――黒川さんさ。金澤さんのこと、正直どう思ってた?」


 黒川は露骨に眉を顰めて訝しむ。


「これ、の話なんですよね? 先輩は私を疑ってるわけですか?」


「まさか。君が金澤さんを突き落としたなんて思っちゃいないよ。

 そもそも君、本当は少女Sなんか視ていないだろ」


 黒川が勢いよく立ち上がった。椅子の脚と石畳が擦れる甲高い音が、静かな四阿に響く。


「――先輩は、どこまで知っているんですか?」


 真意を推し量るかのように、黒川はじつとわたしを見る。どうやら彼女も隠しごとは得意ではなさそうだ。しかしまひろの奴め。この下級生、わたし相手に物怖じする様子なんて欠片もないじゃないか。


「落ち着けよ。君たちの行動はある種の自己防衛だ。その理由も察しているつもりだし、それを他人に吹聴するつもりもないよ」


 黒川の左手首に視線を注ぐ。巻かれた包帯の下が膨らんでいるように見えるのは、湿布の厚みだけではなく、実際に怪我をしているからだろう。まったく律儀なことだ。


 金澤、白瀬、黒川――交霊会のあと負傷した三名は、いずれも少女Sの存在を主張している。注目すべきは、黒川と白瀬が少女Sの外見について言及している点だ。白瀬は長い黒髪の生徒を目撃しており、黒川と居合わせたルームメイトも階段の踊り場で黒髪が翻るのを見たという。


 少女Sの――心臓痕硝子の髪は確かに長かった。それこそ腰まで届くほどに伸びた美しい黒髪だった。そんなことは写真でも見ればすぐに分かる話だろう。


 しかし、いやだからこそ、黒川たちの証言には大きな違和感があった。彼女らが真実わたしたちと同じ悪霊ものを幻視していたなら、について語っているはずだ。あの瞳こそが、心臓痕硝子を異形たらしめるのだから。


 無論、これだけで黒川らの幻視体験そのものを否定することはできない。だが先ほどの反応を見る限り、少なくとも黒川にとっては図星であったらしい。


 鈴白の言った通りだ。たとえ彼女らが何か視ていたとしても、それがわたしたちの知る心臓痕硝子と同質のものであるとは思えない。結局のところ、あの瞳を前にしたときに胸の内に湧くは、彼女と現実に行き遭った者にしか理解できないのだ。


 黒川はわたしの言葉をしばし吟味していたようだが、観念したのか再び着席した。意外と物分かりが良くて助かる。


「誤魔化し通すのは無理みたいですね。

 質問の答えですけど、特別どうとも思ってないですよ。莉音はただのクラスメイトで、友人です」


「君と聖歌隊の三人は、お世辞にも相性が良いとは思えないんだが。険悪になったことはなかったか?」


「まだ会って一月ちょっとですから。あの三人とは寄宿舎の部屋も違うし、喧嘩するほどお互いのこと知らないですよ。

 それで相性? は気にしたこともないですね。重要なんですか? それって」


「重要、というか普通気にするんじゃないか?」


 かくいうわたしにも自信はなかった。人付き合いについてどうこう言えるほど友人が多くはないから。黒川も納得がいかなかったのか「でも」と返した。


「相手のこと全部が全部好きになれることの方が少ないでしょ? 誰だって良いところもあれば悪いところもあるんだし、そんなのを最初から気にしてたら、友達になんかなれないじゃないですか」


 成程。意外とドライな性格かと思ったが、鈍感なだけだったらしい。どうやらわたしとは相性が悪そうだった。


「じゃあ、あの三人を降霊術に誘ったのは何故だ?」


「たまたまですよ。ほかにも誘った子は何人かいたんですが、断られちゃいました。こういうのは好きな子だけでやるのが一番ですしね」


「金澤さんは嫌がっていたんじゃないのか?」


 赤木からの話では、金澤は半ば無理やり参加させられていた印象だった。よほど意外だったのか、黒川は切れ長の目を大きく見開いた。


「最初は怖がってましたけど、途中からむしろ積極的に見えましたよ。

 というか、流石に本気で嫌がってたらやらせないし。怖いもの見たさだったんじゃないですか?」


 筋は通っているように聞こえるが、やはり赤木からの話とは随分様子が違う。赤木が大袈裟なのか、黒川が鈍感なのか。このあたりは、白瀬からも話を聞けば擦り合わせられるのだろうか。


「もうひとつ良いか? 金澤さんは何故少女Sになんて言い出したんだと思う?」


 本命の質問だった。これさえ分かってしまえば、わたしも目出度くお役御免だ。


 残念ながら本人に確認しに行くことはできないし、それをしている時間もない。少なくとも赤木が事実に気づく前に、金澤の動機を突き止める必要がある。


「――もしかしたら、本当に少女Sが視えていたのかも」


 黒川はしばらくの間、思案するように押し黙っていたが、ぽつりとそう零した。


「何故だ? 降霊術は失敗したんだろう?」


「確かに何も起きませんでした。でも正直、私にももう分からないんです。

 私は少女Sなんて絶対に視ていません。それでも、視たって嘘を吐くうちに、あのときも本当は少女Sがいたんじゃないかって、そんな気がしてくるんです。

 おかしいですよね、自分のことなのに。何でか時間が経てば経つほど、どんどん分からなくなってきて」


 そう言って黒川は自虐的に笑った。その笑みは赤木の浮かべていたものとそっくりで、まるで彼女らの後悔を物語るかのようだったり


(変性意識――幻覚の伝播、か)


 てっきり黒川は既に快復したものと思っていたが。どうやら彼女の病巣は、わたしが予想していたよりずっと根深いらしい。


「最後にもうひとつだけ。

 このことをほかの誰かに相談したか?」


「できるわけないじゃないですか。そんなことしたら、今度こそ私はお仕舞いです。みんなには悪いけど、私は私が一番大事だから」


 無意識か、黒川は右手を包帯の巻かれた左手首に重ねていた。彼女のは保身であると同時に、贖罪であるのかもしれない。


「急に呼び立てて悪かったな。質問は終わりだし戻っていいよ。

 ――あと忠告しておくが、今後似たような追及があったら、多少白々しくてもしらばっくれた方が賢明だと思うぞ。他人に相談するのもした方が良い。特に鈴白なんかには絶対話すんじゃないぞ」


「言われなくてももう話しませんよ。先輩も約束通り言い触らしたりしないでくださいね。

 ところで、鈴白先生だと何で良くないんですか?」


「人一倍規律と道徳を重んじるからだよ。あれだけ物腰が柔らかいと、つい口を滑らせたくなるが、彼は司祭であると同時に教師だからな。然るべき場合には然るべき報告をするだろうよ」


 嘘ではないが出任せだった。あの男は根っからの善人で、これ以上ない聖職者だ。告解の内容を自ら漏らすような真似はしないだろう。


 だからこそ鈴白要は信頼できない。彼は嘘を吐かないのではなく、嘘を吐けないのだ。


 今朝、聖堂でわたしが「降霊術について誰かに相談されたか」と訊いたとき、男は「答えられない」と答えた。あれでは四人のうち誰かが相談したと明かしているようなものだ。実際、赤木も鈴白に相談したと言っていた。そんな人間は、たとえ信用できたとしても、信頼できるはずがない。


 彼女も心当たりがあったのか、黒川は小さく頷きながら腰を上げた。


「鈴白先生、ちょっと笑い方が怖いですよね。良い人過ぎて胡散臭いっていうか。でも――」


 黒川は何かに気づいたように言葉を切った。わずかに逡巡するような間があって、それから彼女は一礼すると、逃げるように踵を返して歩き出した。


「黒川さん」


 飲み込んだ言葉を問い質そうと、遠ざかる背に呼びかける。黒川は扉の前で立ち止まると、ゆっくりと振り返り、言った。


「――こう言うと失礼かもしれませんが。

 先輩、鈴白先生と少し似てますよね」


「――そうだな。わたしもそう思う」


 何だそんなことか。図らずも笑みが零れてしまう。当たり前のことを、黒川があまりに勿体つけて言うものだから、わたしはそれがおかしくて仕方がなかった。


 わたしたちは鏡像で、さかしまで、だからこそ似ているのだ。


 黒川は何か気味の悪いものでも見たような顔で、再び一礼し、足早にその場から立ち去った。


 どこからか、四阿に風が吹き込んでくる。空を見ると、先ほどとは打って変わって暗雲が立ち込めていた。コマドリの声ももう聞こえはしない。


 例年より少し早く、梅雨の匂いが、風に乗って運ばれて来ていた。

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