/2 書庫(五月十七日)

「呪いを解いて欲しいんです」


 長机を挟んで向かいに座る一年生――赤木るいは、憔悴しきった声でそう零した。


 こう言ってはなんだが、彼女は見知らぬ上級生を頼みに黴臭かび くさい書庫を訪れるような手合ではなかった。規則に煩いこの学院でもお目溢しされる程度に明るい髪は、丁寧に三つ編みを加えたハーフアップで上品に纏められている。気弱そうな垂れ目の下にはコンシーラーでも隠しきれないクマが浮き出ており、表情からも疲労が伺えるものの、裏を返せば化粧を気にする余裕があるらしい。身だしなみを繕おうと意地になるタイプだろうか。


「呪い、ね。赤木さんは信じているんだ。彼女のこと」


「先輩は、信じてくれないんですか?」


 縋るような目で赤木が言った。まひろのヤツ、わたしを拝み屋とでも紹介したのだろうか。クスクスと、傍らに立つ硝子が嗤う。


「さてね。でも君たち一年生よりは、二、三年の方が本気にしている人多いと思うよ。だからこそ、そういう遊びも流行ったりしないんだろうけど」


 赤木は小さく肩を震わせて、逃げ場を求めるように目を伏せた。どうにも苛めているようで、正直あまりいい気分ではない。


「責めてるわけじゃない。でも実際、赤木さんは信じてなかったし、遊びのつもりで手を出したんだろう?」


「――確かに、初めは信じていませんでした」


 S――。俯きながら、絞り出すように赤木は言った。


 少女S。心臓痕硝子という忌み名に代わり、今ではそう呼び習わされている。そして、時折わたしの元へと足を運ぶ相談者たちは、決まって少女Sに悩まされていた。


 基本的に、わたしのルームメイトで生徒会書紀を務める曽我部まひろか、生徒会長の神代祭じん だい まつりからの紹介で、二人では扱いかねるような胡散臭い話がこちらに回ってくる。


 つまりその相談内容とは「少女Sの呪い」と呼ばれる怪談奇談の類であり――この下級生も、例に漏れずその一人のようだ。


 一度腰を上げて、机上のポットを手に取り、空になっていた自分のカップに紅茶を注いだ。銘柄に詳しくはないし、このティーバッグも貰い物だが、セイロンティーのベーシックな味わいと、仄かに薫るバニラとシナモンの組み合わせは気に入っていた。


 一方で赤木はといえば、未だにカップを手に取る素振りすら見せていない。


「赤木さんたちに何があったかは、まひろから大まかに聞いているけどね。わたしとしては、当事者の口からもちゃんと話を聞いておきたいんだ。

 悪いけど最初から説明を頼めるか? ゆっくりで構わないから、できるだけ詳しく。勿論、寄宿舎の門限だけは気にして欲しいけど」


「最初からですか。ええと――」


 喉を湿しつつ尋ねると、赤木は顔を上げるも、行き場なさそうに視線を泳がせる。どうやら、話を組み立てることに不慣れであるらしい。


「相談しに来ておいてこのザマ? こういう要領の悪い子、嫌いだわ」


 無責任な亡霊が、机に顎を乗せてつまらなそうに言った。気が散るから、人と話しているときは黙っていろと何度も言っているのに。抗議の視線を送るも、硝子は一切意に介していない様子で、机上に流れる自らの長い髪を弄んでいた。


「わかった。こちらで質問していくから、詳しく答えてくれ。

 そうだな――まず交霊会についてだけど、誰からやり方を聞いた?」


 会話を誘導したくはなかったけれどこの際仕方がない。赤木は少し言葉に迷った様子ではあったが、ゆっくりと口を開いた。


「降霊術は咲月さ つき――同じクラスの黒川さんから聞きました。試してみようって言い出したのも、黒川さんで」


「いつもの呼び方で構わない。ほか三人の名前も聞いてるから」


 赤木るい、白瀬花枝しら せ はな え黒川咲月くろ かわ さ つき金澤莉音かな ざわ り おん。この四人が交霊会を行い、そして呪いを受けた。まひろからはそう聞いている。


「じゃあ、黒川さんは誰から?」


「多分、クラスの子から聞いたんだと思います。私たちより先に降霊術をした子も何人かいたらしいので。

 それより前はちょっと。すみません、分かりません」


「十分。君たち以外に呪いを受けた人はいなかったんだよな?」


 はい、と赤木はふさいだ声で答える。先に交霊会を行った生徒に何も起こらなかったからこそ、軽い気持ちで手を出してしまったのだろう。


 ふわり。長い黒髪がわたしの肩にかかる。その感触こそないものの、背後から硝子がわたしの体に腕を回していた。


「あら、本当にそれでいいの? 怪我をしなかったグループと、怪我をしたグループがあるなら、両者の違いを詳しく検討すべきじゃない?」


 耳元で惑わすような声が響く。当人たちの話を聞く前に、別の連中の話を先に聞いても仕方がない。必要があるなら、そちらはそちらで話を聞けばいい。


 追い払うように右手を振ると、硝子は不満げに口を尖らせて体を離した。当然、わたしの奇行が目にした赤木からは戸惑いが見て取れた。


「悪い。虫がいたんだ。

 じゃあ赤木さんたちは皆、少女Sの霊なんて信じていなかったわけだ」


 いえ、と赤木は一度否定したものの、続く言葉までには少しの間があった。


「――莉音は違いました。

 あの娘は最初から少女Sを怖がっていた。降霊術だって、きっとやりたくなんかなかった」


 莉音――金澤莉音は交霊会で呪いを受けただ。交霊会の翌日、五月二週目の週末に学院を離れ、現在は麓の街で入院生活を送っている。そんな彼女が交霊会を嫌がっていたという。だというのに何故、彼女は交霊会に参加したのか――その理由は、一層思い詰めた赤木の表情から察することができた。


「赤木さんと金澤さんは同室だったな」


「聖歌隊でも一緒です。花枝とも、聖歌隊で仲良くなって」


「それでも、君たちの中心は黒川さんだったんだろう?」


「――咲月は、そういう子ですから」


 その言葉には、今までとは異なる硬質な響きがあった。


「どこのグループにいたって、咲月ならやっていける。

 降霊術のことだって、そのときたまたま近くにいたのが私たちだったから、声をかけただけなのかもしれません」


 自嘲気味に赤木が呟く。


 ほかの三人同様、黒川のパーソナリティについても、まひろから多少は聞いていた。黒川は授業外で三人と特別関わりがあるわけではないようだが、どうやら女子校に潤いを与える類の少し目立つ生徒で、良く言えばフランク、悪く言えば生意気な一年だという。目の前のお嬢様然とした彼女や、話を聞く限り温順しそうなほかの二人からすれば、目映く、また恐ろしい存在であるのだろう。


「まるで不幸のヒロイン気取りね。

 他人に責任を押し付けておいて、わたしだけは悪くないと言う。自分だって、その黒川って子に逆らえなかったくせに。

 見知らぬ上級生なら、同情してくれるとでも思ったのかしら?」


 いつの間にか隣席に腰掛けていた硝子が、一層不愉快そうに呟いた。口を挟むなと言っても無駄らしいので、諦めて放っておくことにする。


「それじゃあ、赤木さんたちが行った降霊術の具体的な手順を教えて欲しいんだけど。今月の第二金曜日――五月十日か。放課後に四人で教室に集まって、それからどうしたの?」


 まひろからは「数人が机に手を添えながら霊に呼びかける」テーブル・ターニングに近い遊びだと聞いている。コックリさんのように、五十音表や硬貨などの道具を用いることはないという。


 再び静寂があったものの、赤木は思案するように頤に手を添えてから、ゆっくりと口を開いた。


「――まず教室のカーテンを引いて、扉も閉めました。そのあと四人で机の角に手を置いて、机の文字を三回読み上げて――それから少女Sに質問しました。

 S、机が揺れるはずなんですが――色々訊いてみても、結局何も起こらなかったので、十分くらいで解散したと思います」


 少し落ち着いたのか、言葉を選ぶ様子こそあったものの、話自体は十分整理されていた。しかし――


「待った。その、机の文字っていうのは?」


 思わず右手を突き出して言葉を遮る。虚を突かれたのか、赤木の口からわずかに息が漏れた。


「少女Sの席に刻んである聖句です。皆は少女Sの遺書だって」


S?」


 初耳だった。まひろもこのことについては知らなかったのだろうか。


「もしかして、降霊術は必ずその机を使って行うのか?」


 わたしが机について把握してないとは思わなかったのか、それとも少女Sの机が重要とは思わなかったのか。赤木は困惑した表情を浮かべつつも、わたしの問いに頷いた。


 ――硝子の遺書は、確かに今なお見つかっていない。彼女の死は自殺として処理されているが、未だ多くの謎が残されている。


 テーブル・ターニングなどという古めかしいまじないも、少女Sの遺物つくえが見出されたからこそ顕れたのだろう。


「それでその――少女Sの机は一年の教室にあるのか?」


「先週まではあったんですが、降霊術のあと、鈴白先生が処分すると言ってどこかに持って行ってしまいました」


 これ以上、降霊術の噂を広めたくないのだろう。しかし、少なくとも昨年度までは、一年の教室にそんなものはなかったはずだ。仮にもし、今年の四月以降に誰かが机に聖句を刻んだとして、それが少女Sの机として一年生の間で噂になったのなら、机ひとつ処分したところで何の解決にもならない。机が本当に硝子の遺物ものである必要はないのだから。


(どういうことだ?)


 つい隣を見遣ると、と目が合った。こちらの混乱を愉しむような厭らしい笑みを浮かべている。舌打ちでもくれてやりたくなるのを我慢して、わたしは赤木に向き直った。


「それで、少女Sの机には何と?」


「ええと――『わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる』」


「『生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』――ヨハネ福音書か」


 いかにもな文面だ。しかし、この文面が硝子の遺書であると、わたしにはどうしても思えなかった。


 我ながら無作法にもティーカップを煽る。しかし波々注がれていたはずの紅茶は、既に一滴も残ってはいなかった。わたしは努めて静かに、机上のソーサーにカップを据えた。


「悪いね、また脱線した。

 それでそのあとは? さっきは何も起きなかったと言っていたけど」


 赤木はまた下を向いて「はい」と答える。彼女の小さな肩がわずかに震えていた。


「あのときは何も起きませんでした。私には何も見えなかったし、何も感じなかった。咲月も花枝もそう言ってた。

 でも――」


 赤木が言葉を詰まらせる。それから彼女は、まるで自らを抱くかのごとく、自身の両肩を掴んだ。


 瞬間、視界の端を黒い絹糸の束が掠める。隣にいた硝子が立ち上がり、美しい髪を尾のように揺らしながら、ゆっくりと赤木の方へと歩いて行く。


(おい)


 小声で呼びかけるが、わたしの制止などお構いなしに、硝子は怯える少女に近づいていく。そして赤木の傍らで立ち止まると、俯く彼女を、硝子はただ見下ろした。


「でもその日の夜、寮で莉音が言ったんです。

 あのとき、本当は少女Sが来ていたって。机の下に座り込んで、私たちをじつと覗き見ていたって」


 震える赤木と、見下ろす硝子。


 亡霊の表情は、その長い黒髪に遮られ伺うことができなかった。自分を招こうとした赤木せいじやを哀れんでいるのか、それとも、嘲笑っているのだろうか。


「莉音は嘘が吐けない子だって知っていました。でも、そのときは冗談だって、そう思うしかなかった。

 だって、少女Sなんているはずがない。そんなものはただの噂話で、迷信でしかなくて、それなのに――」


「それなのに、翌日金澤さんは学舎の大階段から転落した。

 病室で彼女は言ったらしいな。少女Sに突き落とされた、と」


 赤木は、そこで初めてまっすぐわたしを見た。慄然とした表情は、すぐに苦しみに堪えるかのようなものに変わり、そしてまた俯いた。彼女に覆い被さる黒い影も、一向にその場を離れようとしない。


「莉音がいなくなった次の日、鈴白先生とシェーファー先生に呼ばれて聖堂に行きました。そこで莉音が少女Sを見たと言っていると知らされて――私も降霊術について正直に話しました。花枝と咲月も同じように呼び出されたみたいです。

 クラスでもすぐに少女Sの呪いだって噂になりました。莉音の入院は隠せないし、咲月が降霊術のことを周りに自慢していたので」


「白瀬さんが落ちたのは、その翌日だったか」


 下を向いたまま――ついには顔を両手で覆いながら、赤木は肯定した。彼女の頭上で、硝子の影が水面のようにゆらゆらと不自然に揺れている。まるで悪霊が赤木に取り憑いて苦悶させているようだった。


「月曜に莉音のお見舞いから戻ったら、今度は花枝が怪我をしていました。ただの捻挫だったけど、あの子もやっぱり誰かに突き落とされたって」


 そして同週水曜日、つまり一昨日には黒川も転落した。彼女も幸い打ち身程度で済んだようだが、やはり長い黒髪の生徒を目撃している。自分以外の三人が、皆何者かに突き落とされたとなれば、赤木がこうまで怯えるのも分かる話だ。次に落ちる者がいるとすれば、それはまず間違いなく彼女なのだから。


 ――気がつけば、随分太陽が傾いていた。


 立ち上がって、背後のカーテンを乱暴に閉める。その大袈裟な音に驚いたのか、ビクリと肩を跳ね上げた赤木と、その隣に佇んでいる彼女を尻目に、わたしは部屋の入口まで歩いて行き、壁に設えられたスイッチを操作して、部屋の照明を灯した。


 チカチカと頭上でわずかに瞬いたあと、蛍光灯が部屋の隅々まで照らし出す。私が席に戻る頃には、赤木も顔を上げ、幾分まともな表情に戻っていた。


 彼女を見下ろしていた硝子はといえば、無言のままこちらへ戻ってくると、わたしに一瞥をくれてから着席した。苛立ちと不満の入り混じったその表情は、蟻を弄んで窘められた小児を想起させた。


 ――ひとまず、まひろと赤木から得た情報を頭の中で整理する。


 五月十日、金曜日。赤木るい、白瀬花枝、黒川咲月、金澤莉音の四人が放課後の教室で降霊術――もとい交霊会を行う。交霊会には少女Sの机を使用。何も起きずに十分ほどで解散するが、金澤だけは少女Sの姿を見たとのちに話す。


 五月十一日、土曜日。放課後、学舎中央の大階段、一階・二階間の踊り場から金澤が転落。転落の瞬間を目撃していた者はおらず、気絶している金澤を数名の生徒が発見。金澤自身は少女Sに突き落とされたと証言。


 五月十三日、月曜日。昼休み、聖堂前の広場へと上がる外階段から白瀬が転落。幸いにも軽傷。白瀬もまた髪の長い生徒に背中を押されたと話すが、彼女のすぐ前を歩いていた数名の三年生は気づかなかったという。


 五月十五日、水曜日。夕食後、寄宿舎の西階段から黒川が転落。こちらも軽傷。黒川も誰かに突き落とされたと主張。黒川のすぐ前を歩いていたルームメイトも、黒川が落ちる瞬間、踊り場に長い黒髪が翻るのを見たと話す。


 あらましとしてはこんなものか。


「そういえば、さっき見舞いと言っていたけど、赤木さんも街に降りたってことか? よく許可が出たな」


 この学院では、基本的に長期休暇中か、緊急の用件以外で外出許可が降りることはない。その緊急というのも、今回のように本人の怪我や病気であったり、親類縁者の不幸であったり、ある程度の深刻さを伴うものに限られる。


「鈴白先生と一緒に行きました。

 着替えとか日用品は家族が持って来た方が早いけど、部屋にある教科書やロザリオはそうもいかないから、同室の私が持ってくるようにと」


「確かに、鈴白おとこが生徒の部屋を漁って勝手に持って行くわけにはいかないものな」


 それならそれで、生徒や女性職員に取って来させるだけで良かっただろうに。司祭然としたあの男のことだ。ルームメイトを心配する赤木に同情したのかもしれない。教師引率なら、例外的な外出も認められるだろう。


「金澤さんの様子はどうだった? 足首を砕いて歩けないんだよな?」


「骨折の程度が酷くて、手術が必要になるみたいです。

 ――なのに、あの子は前よりむしろ落ち着いていて。それが何だかすごく、怖くて」


「前より――?」


「あの子、変なんです。怪我をする前はあんな怖がっていたのに、この前病室に行ったときは『やっぱり少女Sはいるんだよ』って、すごく嬉しそうに言ったんです。まるで自分の怪我さえ誇っているみたいで。あれだけの大怪我をして、頭でも打ってたら、本当に死んでいたかもしれないのに」


 上擦る赤木の声は、込み上げるものを堪えているように聞こえた。一方で、彼女の必死な表情は、どこか白々しくも感じられた。


「鈴白教諭とシェーファー教諭は、金澤さんの怪我について何か言ってた? 降霊術についても、詳しく話したんだよな?」


「気が動転しているんだろうって言っていました。降霊術についても、二人とも真剣に話を聞いてくれたんですが、少女Sのことは信じてくれませんでした。ただの杞憂だって。

 特に鈴白先生は――その、私もしつこく相談してしまったので、気分を悪くされたみたいです」


「怒鳴られでもしたのか?」


 あの温厚を絵に描いたような男が激高する様は、正直なところ想像し難かった。この学院唯一の司祭である彼からしてみれば、亡くなった女性徒を面白おかしく噂に仕立て上げる様子は看過できないだろうが、怯える生徒相手に怒りを露わにする手合とはとても思えない。あくまで主観だが、叱るより諭そうとする性格だろう。その見立て自体は誤っていないようで、赤木も「いえ」と否定した。


「鈴白先生ですから、声を荒らげたりはされませんでした。

 それでも、いつもよりずっと強い言葉で『少女Sの霊などいるはずない、これ以上亡くなった方を侮辱することは許されない――』そんな風に言っていました」


「許されない、ね」


 侮辱されている当人はといえば、隣で無関心そうに前髪を弄んでいる。


 しかし聞く限りでは、鈴白の反応は至って常識的なものだ。鈴白は赤木たちが所属する聖歌隊の顧問であり、赤木が鈴白にだけはその胸中を伝えていたというのも、ひとえに彼の信頼の篤さゆえだろう。


 それでも、いやだからこそ、浮き上がった違和感を拭い去ることはできなかった。

 こちらを伺うような赤木の視線で、ようやく自身の長考に気づく。わたしが顔を上げると、赤木は気まずそうに視線を逸らし、何か言いたげに口をぱくつかせるが、結局押し黙ってしまう。


「ひとまず事情は分かった。いいよ。呪いを解いてあげよう」


「――本当ですか?」


 安心半分、疑心半分といった反応だった。信用できないのも分かる。つい先程まで勘ぐられていたのは赤木の方なのだから。


「ああ。でも少し準備が必要だから、今日はとりあえずこれ持って部屋に戻って」

 机の端の前衛芸術――もとい本とガラクタの山からパステルグリーンの箱を引き抜いて、赤木の方に滑らせる。


「これは――紅茶、ですよね」


「今日出したのとは違う、ちょっとしたおまじない付きのね。

 食後にでも飲んでみると良い。物自体はかなり良いやつだから、美味しいと思うよ」


 何せシェーファー教諭からの貰い物だ。ティーバッグでも、普段飲んでいる一箱いくらの安物の十倍は値が張るし、国内では通販ですら手に入れることが難しいらしい。


「それで、準備っていうのはどのくらいかかるんでしょうか?」


 からかわれているとでも思ったか、その声はわずかに苛立ちを孕んでいるように聞こえた。ここ二週間、友人三人が立て続けに怪我をしているのだ。今日にでも自分が「突き落とし」に遭うかもしれない。そんな風に考えていてもおかしくはない。


「大体一週間くらいかな。

 心配しなくても少女Sは手を出せないよ。赤木さんが二つだけ約束を守ってくれるなら」


 赤木の反論に先んじて、わたしは突き出した右手の人差し指と中指を立てて見せる。


「――約束」


「そう。契約とでも言い換えようか。

 一つは、そのお茶を毎晩ちゃんと飲むこと。まじないと言っただろう? 短い間なら、赤木さんを守ってくれるはずだ。

 もう一つは、呪いの話をこれ以上誰かとしないこと。赤木さんに呪いがかかっていることも、わたしに相談したということもね」


 赤木はようやく箱を手に取ると、不可解そうにわたしの顔と見比べた。


「それで、本当に呪いが解けるんですか?」


「勿論。来週金曜の放課後、またここに来るといい。

 別に難しいことはないさ。極端な話、わたしのことを信用しなくたって良い。赤木さんは、ただ約束さえ守っていれば助かるんだから」


「――分かりました」


 声に滲む不安の色は多少弱まったものの、赤木は依然釈然としない様子で席を立つと、丁寧に一礼した。


 わたしは踵を返した彼女の背を見送りながら、先程から無言を貫いている隣人へと視線を向ける。


「洗礼は受けているのか?」


 悪心お しんから、わたしはつい、喘ぐように声を上げた。


 扉にかけようとした手を止めて、赤木がこちらを振り返る。唐突な質問に驚く下級生の締まりのない表情は、わたしの精神に多少の安定を齎した。


「洗礼だよ。聖歌隊員なんだろう?」


 質問の意味の薄さを取り繕うように、わたしは半ば反射的に言葉を重ねた。


 カトリックの学院とはいえ、信仰を強制されているわけではない。実際に洗礼を受けている生徒は、全体の十分の一程度しかいないとさえ聞いた覚えもある。


「いえ、受けていません。確かに聖歌隊は信徒が多いですけど、それでも隊員の半分くらいだったと思います。

 ――あの、大丈夫ですか?」


 どうやら、赤木から逆に気を遣われてしまうくらい、今のわたしは酷い顔をしているらしい。


 こちらの様子を伺う下級生を前に、わたしは無理やり口角を引き上げると、我ながらわざとらしいくらいに明るく振る舞った。


「持病なんだ。いつものことだから気にしなくていい。

 つまらないことで呼び止めて悪かったね。行っていいよ」


 問い返されるより退室を促す。わたしの是非もない口調に、赤木は怪訝な表情を浮かべたものの、再び軽く頭を下げると今度こそ退室した。



   *



 赤木の返答は、概ね予想通りのものだった。恐らくあの四人のうち、金澤が唯一の信徒だったのだろう。


 口を突いて出た問いではあったが、おかげでより強い確信を得ることができた。座したまま呼吸を整える。なお滲む汗は、当分引きそうにない。


「帰してしまって良かったの?」


 歌うような声に怖気立ちながらも隣席へと顔を向けると、硝子が長机に顎を乗せたままこちらを見ていた。安堵から、思わずわたしは悪態を吐く。


「あの悪趣味な真似は止めたのか」


「随分な物言いね。他人ひとの信心を悪趣味呼ばわりだなんて」


 そう言った硝子は明らかに上機嫌だった。わたしをからかって愉しんでいるらしい。硝子がくぐもった笑いを漏らすと、彼女の長い髪が机上から滑らかに零れ落ちて、暗幕のように垂れ下がった。


「亡霊が信仰心を語るなよ。ただの嫌がらせだろうが」


 わたしの恨み節が心地よいのか、硝子は一層嬉しげに口を歪ませる。


「悪趣味さなら貴女には負けるわ。赤木るいに睡眠薬なんか渡して、一体どうするつもりなのかしら?」


「――気づいてたのか」


 赤木に渡したパックには眠剤が仕込んであった。わたしに処方された中でも比較的弱い部類だし、副作用で悪夢を見ないことも一応は確認済みだ。


 硝子は誇るでもなく、ただ小馬鹿にするように鼻で笑った。


「あんなの横で見ていれば誰だって分かるわよ。初めから押し付ける気だったの?」


「まさか。話している間に思いついただけだ。赤木の治療にはこれが最適だろうよ」


死人げんかくを前に医者気取り? 冗談も大概になさいな。

 そこまで言うからには見当くらいついてるんだろうけど、結局貴女はどう考えているの? 突き落としはどれもただの事故で、赤木るいが一連の事件と思い込んでいるだけとでも?」


「まさか。一連の転落は間違いなく必然だ。

 治療というのも、単に赤木の不安が杞憂に過ぎないからだよ。だって、彼女が突き落とされるはずないんだから」


「えらく勿体つけるのね。そこまで断定してるくせに、幻覚わたし相手に話す自信はないわけ?」


 思わせぶりな言い回しが不満だったのか、硝子はわずかに眉を寄せて頬杖を突く。


「確信があっても確証があるわけじゃないからな。要はまだ推測の域を出てないのさ。

 せっかく赤木が早まらないように時間稼いだんだ。したり顔で話すのは調べてからでも遅くないだろう?」


「だからあんな芝居がかった真似をしたのね」


 得心したようにも、呆れたようにも聞こえる声で硝子は言った。


 目下の懸念は、赤木が自らに降りかかる何もかもを少女Sの呪いと言い出しかねないことだった。それこそ赤木がそこいらで躓いて擦り傷のひとつでも作れば、彼女は一層呪いの存在を喧伝するだろう。たとえ彼女自身が口にしなくとも、周囲はそう捉えるに違いない。


 だからわたしは、硝子の言うところの手続きプロセスを、


「これから一週間、赤木に何も起こらなければ、恐らく彼女は契約の効力と誤認するだろう。実際、薬を飲んでいれば少なくとも魘されることはなくなるしな。

 彼女を突き落とそうなんて輩が実在しない以上、案外寝不足さえ解消してしまえば、馬鹿な考えも消え失せるんじゃないか?」


「成程、おまじないというのも意外と的を得ていたわけか。

 やっぱり貴女に医者は似合わないわね。その手口、それこそまじない師さながらじゃない」


「医者もまじない師も御免だよ。探偵だって気取るつもりはない」


 立ち上がり、手前と客用のカップを片付け始める。案の定というか、赤木のカップには一度も口をつけた形跡がなく、早速企ての先行きが不安になった。そしていつもの通り、何故か部屋の一角に設えられた小さな洗面台までカップを運び、蛇口を捻った。


「そういえば、いたみは嫌いだったわね。探偵小説」


 水の流れる音に紛れても、硝子の声ははっきり聞き取ることができた。カップをスポンジで擦りつつ目線を上げ、壁面に取り付けられた鏡を見る。この部屋にこんな設備があること自体不自然だが、目の前の鏡に窓際に座る彼女の姿が映り込んでいることの方がよほど奇妙に感じられた。


「別に探偵小説は嫌いじゃないよ。門外漢のくせにしゃしゃり出て、ご高説を垂れる名探偵様が嫌いなんだ」


「分かるわ。自己批判の精神って大事よね」


「いちいち嫌味を言うなよ。

 それに、素人が鮮やかに事件を解決できるのはフィクションの中だけだろう。わたしに探偵役は荷が勝ちすぎてるよ。落としどころを見つけるのがせいぜいだ」


 蛇口を逆に回して流れを断ち切ると、満ち満ちた水を小さな排水口が飲み干し、最後には汚らしい曖気あい きを上げた。


 要するに、わたしは運が良かっただけだ。これまでも、そして今回も、早々に見立てがついたのは決してわたしの力などではない。赤木るいがあそこまで馬鹿正直でなければ、恐らくはもうしばらく時間を要しただろう。


「――そうね。貴女はそういう人だった」


 諦観すら感じる静かな声で硝子は言った。何かが這い上がるような奇妙な温かさが、わたしの背筋を優しく舐った。


「謙遜も、妥協も、本当に貴女らしい。

 けれど――ねえ、いたみ。私との約束、ちゃんと覚えてる?」


 その言葉に慄然として、わたしは再び視線を上げた。鏡の中に彼女の姿は亡い。すぐに振り返ったものの、誰もいない窓際の席を認めて、わたしはしばしその場で立ち竦んでいた。


「――当たり前だろ」


 かつて彼女と交わした約束。彼女のいなくなった世界で、わたしが生きていくための、ただ一つの道標。わたしが「呪い」を解き明かすのも、すべては亡き彼女のためだ。


 そう、心臓痕硝子は既に死んでいる。無力なわたし以上に無意味な彼女には、もはや祈ることさえできはしない。


 だというのに彼女は――あのとき、立ち去る赤木を見送りながら、心臓痕硝子は祈りを捧げていた。夕日を浴びながら静かに指を組む彼女は、赤木に憑こうとしたときの悪霊めいた姿とはかけ離れた、をその身に纏っていた。


 あの瞬間、わたしの世界は完全に静止した。そして胸の内で静かに湧き上がる名状しがたい感情から、わたしは目を背けずにいられなかった。


 聖堂の鐘の音が高らかに響く。門限が差し迫っていた。硝子も今日はもう姿を見せないだろうし、何より叱責を免れるために、急いで寄宿舎に戻らなければならない。二人分のカップを布巾で拭い棚に戻すと、わたしは慌ただしく長机へと戻り、自分の鞄を手に取った。


 席を離れる前に、傍にあった椅子の背もたれに手を伸ばしてみる。わたしが選ばなかった席。先程まで彼女が腰掛けていた席。


 指先は古い木のささくれだった感触を伝えるのみで、わずかな温かみも得ることは叶わなかった。

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