/1 書庫(五月十七日)

呪文を唱える者、口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない。

(申命記 18章11節)



   *



「降霊術?」


 その言葉が興味を引いたのか、彼女はようやく顔を上げた。


 黴臭かび くさい書庫を訪れたわたしは、いつも通り硝子の望む本を手に取って机上に開き、命じられるがまま譜めくりページターナーを演じていた。硝子もまたいつもの如く、ときには隣の席でわたしに身を寄せながら、ときにはふわふわと宙に浮かびながら、頁を覗き込んだ。そしてしばしば、かすかにおとがいを前後させては、頁を捲るようわたしに要求する。文字通り、顎で使われているというわけだ。


 しかし、わたし自身欠片も興味のない本――ドイツの精神科医が我が子への贈り物として描いたとされる、悪趣味極まりない絵本――を捲り続けるのはひどく退屈で、わたしは硝子の気のない返事にもめげずに、しつこく話を振り続けていた。


 そしてう、行儀悪くも半ば長机に腰掛けるように寄りかかっていた彼女は、机上の絵本へではなく、わたしへと視線を向けたのだった。


 たったそれだけのことなのに、わたしは思わず息を呑む。その双眸そう ぼう――死後も変わらず無機物のように透き通った硝子の瞳は、向こう側に夜の海に似た闇色を湛えていて、不意に、梯子を踏み外すような錯覚にすら見舞われた。


 大仰にかぶりを振って、わたしは二の句を継いだ。


「ああ。一年生の間で流行っているらしい。

 何人かで輪になって悪霊呼び出す、みたいな定番のやつが」


 悪霊、という単語に呆れでもしたのか、硝子は「何だ」とつまらなそうに呟く。ふてぶてしい霊がいたものだ。


交霊会セアンスの話ね。まさか死霊術ネクロマンスではないと思ったけれど。

 それにしても、女の園はこの手の話につきないな。今風にチャーリーゲームでも流行ってるの? それとも古典的にコックリさん?」


「新しいか古いかで言うならもっと古いよ。

 机ひとつで行う、ほとんどテーブル・ターニングみたいなものらしい」


 コックリさんにせよチャーリーゲームにせよ、テーブル・ターニングと呼ばれるある種の占いを起源に持つ。この占いは、まず何人かが暗がりで輪になって、机に手を添えて行う。誰かが質問をすると、呼び出された「霊」は机を揺らしたり傾けたりして答えを返す。イエスなら机が動き、ノーならそのまま、といった具合だ。


 テーブル・ターニングは明治前後には日本に流入し、かなり早い時期からコックリと呼ばれていたらしい。また、当時すでにその原因として、不覚筋動や予期意向――要するに、無意識のうちに身体が動いてしまうことが挙げられていた。


「よく大元を知っている子がいたわね。校風を鑑みれば、狐狗狸コツ ク リよりは馴染みやすいかもしれないけれど」


 そう言って硝子は窓の外を見遣った。


 わざわざ確認せずとも分かる。彼女の視線の先にあるのは、庭園の東に見えるロマネスク様の小さな建物――この学院の聖堂だ。さほどの大きさではないが、その古さもあってか、県の文化財として登録されているという。


 ――ここは外界と断絶した鳥籠。時代錯誤も甚だしい、全寮制ミッションスクールだ。


「それで、交霊会に参加した一年生に一体何があったの?

 どうせ呼び出そうとした悪霊っていうのも、私のことなんでしょう」


「察しが良くて助かるよ。でもその前に」


 机上の置き時計を確認する。約束の時間まではまだ少しあった。


「一応聞いておきたいんだけど、あの手のまじないっていうのは、実際どう危険なんだ?」


 わたしがそう言うと、硝子はわざとらしく大きなため息をつき、軽く額を抑えて見せた。頭痛に悩まされることがあるのなら、死は想像ほど安らかなものではなさそうだ。


「よりにもよってわたし相手にその質問をするなんて。

 ――いたみ。何度か言ったとは思うけど、私の言葉は、」


「『貴女あなた自身の知識の抽斗ひきだしに過ぎない』だろ。

 分かってるよ。硝子がわたしの見る幻だってことは」


 わたしの目の前にいる彼女は、わたしにしか知覚できない。傍から見れば今のわたしは、誰もいない部屋で独り喋り続ける、おかしな女としか映らないだろう。


 それでも――いや、だからこそ、この儀式プロセスはわたしにとって不可欠だ。


 ――ギシリ。硝子が長机から離れる。誰も触れていないはずの机から、軋む音が聞こえた気がした。


 硝子はそのまま私に背を向けて、書架の方へ歩いていく。


「それが分かっているならいいわ。教えてあげましょう。

 そうね――私が言うのもなんだけど、ひとまず霊魂の実在についての議論は脇に置いておきましょうか。

 その上でひと言で済ませるのなら、あの手の遊びは変性意識状態Altered State of Consciousness――トランスを誘発する恐れがあるの」


 トランス。型通りのつまらない答えに、少し落胆した。そんなわたしの態度を、振り向いた硝子わたしが見咎める。


「自分から聞いたくせに、随分不満そうじゃない。まさかトランスという言葉自体、眉唾とでも思っているのかしら」


「そうじゃないが、正直胡散臭いとは思ってるよ。

 たかがコックリさんを試したくらいで、意識に変調を来すことなんて、本当にそんなことがあり得るのか?」


「たかがそれくらいのことで変調を来すのが人の意識というものよ。

 そもそも、変性意識がどういう状態を指すのか分かってるの?」


 今のわたしのような状態、という軽口を寸前で留め、わたしは大げさに両手を広げて苦笑いをしてみせた。硝子は無表情のまま踵を返すと、分け入るかのごとく書架と書架の間を進んで行く。


「変性意識はね、簡単に言うと意識の活動が極度に抑えられた状態のことよ。

 浅い眠りレム深い眠りノンレムがあるように、覚醒状態にも弛緩と緊張が存在する。長い日中、常に気を張ってはいられないでしょう? 無意識下で、生体は帳尻を合わせているのよ」


恒常性ホメオスタシスってやつか」


「またぞろ妙な言葉だけ知っているのね。

 意識が弛緩すれば、当然現実に対する志向性も低下するわ。平衡感覚や時間感覚が失くなったり、思考から論理性や合理性が脱落したり、ね」


「寝落ちまであと三秒、みたいな話でいいんだよな?」


 間違いではないけど――硝子の声が、部屋のどこからか聞こえてくる。彼女の背中は、既に書架の向こうに見失ってしまった。


「入眠時幻覚は知ってる? 文字通り、眠る直前や起床直後――つまりは、これも意識が弛緩低減した状態で体験するものね。睡眠麻痺――いわゆる金縛りとセットになってることが多いんだけど」


 言葉としては知っていた。特段、病を抱えているわけでなくとも、ちょっとした疲労やストレスでさえ入眠時幻覚の原因となり得るらしい。


「入眠時幻覚も、ある種の変性意識が引き起こすってことか」


「ええ。そして変性意識状態は、自らの意志で引き起こすこともできるの。

 これは心霊主義スピリチユアリズムというより巫術シヤーマニズムの話だけど、宗教的職能者――いわゆるシャーマンも、超自然的存在と交流する際は異常な意識状態にあるとされるわ。職能者は霊と交流するために、自らをトランスへと導いているということね。彼らが霊と交流するために行う儀礼というのも、トランスへ至るための手続きプロセス――そのための技術と言っても良いでしょう」


「テーブル・ターニングも技術だと言いたいのか?」


 違和感から、思わずそう声を上げた。人気のない部屋で虚しく響いた言葉に、いるはずない誰かが笑声しょう せいを返す。


「そうね。チャネリングだって、現代における憑霊型シャーマニズムと言われるくらいなんだから。

 今の子が遊び半分でやるようなものは、技術と言えるほど洗練されてないように見えるかもしれないけれど、少なくともある種の手続きではあるでしょう」


「どうにもそこが分からないんだが。

 特別な訓練を続けていたわけでも、霊魂の存在を本気で信じていたわけでもない。そんな子たちが、何故伝え聞いただけの手順を実践しただけで、変性意識なんてものに陥るんだ?」


 コックリさんを試した子どもたちが、集団ヒステリーと呼ばれるような症状を示した、という話は、ニュースか何かでも見聞きした覚えがある。しかしそれは、本当にコックリさんによって引き起こされたものなのだろうか。


「手続きそのものが変性意識を引き起こす要因となるからよ」


 ――今度は、すぐ耳元で硝子の声が響いた。


 即座に振り返る。窓の左隣、書庫の壁際に配された背の高い観葉植物トネリコ。いつの間にか、彼女はその鉢の前でしゃがみ込んでいた。


「どうやら、根本の部分で思い違いをしているようね。

 さっきも言ったけれど、変性意識なんてものは、日常生活のちょっとしたきっかけで起こり得る、ありふれた事象なの。だから究極的には、そのための訓練も必要なければ、個々人が何かを強く信じている必要もない。その手続きさえ知っていて、実践してしまえばいいのだから」


 硝子が立ち上がり、わたしへと向き直る。翻ったスカートの薄い布地が差し込む西日に透けて、微かに彼女の腰つきを浮かび上がらせた。


「座禅や瞑想のような宗教的修養は、定められた場所や姿勢で行われるでしょう。細かい作法はそれぞれ異なるけれど、合図に鐘を用いたり、念仏を唱えたりすることはあっても、それ自体には特別な道具は必要とされず、代わりにそのを求められるわ。

 そして手続きに則って修行に励むうちに、ふと聞こえないはずの声が聞こえたり、見えないはずのものが見えてしまうことがある――この境地を、禅宗では魔境と呼ぶの」


 テーブル・ターニングによるトランスと何が違う――硝子はそう言いたいのだろう。


「禅において、あくまで魔境それは乗り越えるべきものであって、目的にしているわけではないけれど――それでも、。望むと望まざるに関わらずね。

 勿論、こうした宗教的恍惚や幻覚体験は本邦の宗教特有のものではないし、むしろありふれた体験といえるでしょう。かの大テレジアは、瞑想中に現れる悪魔に苦しめられたと記しているわね。

 変性意識に特別な道具や目的なんて必要ない。ただその手続きを遂行することだけ考えていれば、その境地に辿り着いてしまうの」


「だからコックリさんだろうが、キューピッドさんだろうが、トランスを引き起こす原因になるって?

 矛盾してるぞ。今の例えはどれも信仰を持っている人たちの話だろ」


 軽い目眩がする。自家撞着を責めるように、今度は四方から嘲笑が聞こえた。彼女は間違いなく、わたしの目の前にいるはずなのに。


「究極的には、と言ったでしょう。半信半疑、興味本位で十分なの。たとえ本人たちが信じていないと主張したとしても、実行した時点でそれは期待の裏返しにほかならないわ。

 かつての西洋における交霊会の大流行――ハイズヴィルの叩音こうおん事件に端を発するスピリチュアリズムの潮流も、結局のところそうだったのでしょう。第一次大戦による大量死もあって、霊界通信を切実に捉えていた人が多かったからとも言われているけど、いかにもな後付けだからね。第二次大戦後に同規模の流行は起こらなかったのだし。

 だから当然、ハイズヴィル以降の交霊会ブームも、興味本位で参加した人はたくさんいたでしょうね」


 硝子の発する声が、あるはずのない振動が、わたしの脳を揺さぶっているかのような錯覚。彼女の言葉が耳元で響いたと思えば、次の瞬間には、どこか遠くから消え入るような小さな声で聞こえてくる。


 それでも、彼女の言葉を聞き漏らすことは決してなかった。


「手続きに則ってさえいれば、遊び半分だろうと関係ない。しかも参加者が増えれば増えるほど、偶然トランスを体験してしまう人も増えていくわけだ」


「そういうこと。何度も言うように、自分の意志ひとつで変性意識に到達するには訓練が必要だけど。

 ――それとね。変性意識は周囲に伝播してしまうものでもあるの」


 その言葉は、一際瞭然と耳朶じだに響いた。


「それが集団ヒステリーか」


「ええ。交霊会は、複数人が同じ場所で同じ手続きを踏むから、参加者同士の意識状態もかなり近しいものと考えられるわ。

 だからこそ、誰かでいいの。参加者のうち、誰か一人でも変性意識に陥ったのなら、その狂騒は高い確率で集団全体に伝播するわ。

 そしてその変性意識こそが、姿を捉えるのよ」


 硝子の言葉が頭蓋を冒す。一瞬視界が酷く歪み、彼女の姿さえ見失う。


 ――いつの間にか、硝子は再び傍らの粗末な椅子に腰掛けていた。


 机上の時計を見遣ると、最初に彼女に尋ねてから、五分ほどしか経っていなかった。


 奇妙な残響も、軽い目眩も綺麗に失せて、書庫にはわたしと彼女だけが残されていた。


「とりあえず、テーブル・ターニングの危険性はわかった。

 胡散臭いとか言って悪かったよ」


 諸手を挙げて降参を示すと、硝子も満足げに口許を緩ませた。その微笑みをて、少しだけ、胸の奥が痛みで軋んだ。


「それは結構。じゃあそろそろ本題を聞かせてもらえるかしら?」


「ああ、そうだったな」


 ――五月中旬、この学院で起きた心霊騒動。一年生四名による愚かしい交霊会。


 放課後の喧騒に紛れて、部屋の外から一人分の足音が近づいてくる。その足音はわたしたちのいる書庫の前で途切れたものの、代わりにこちらの様子を伺うような気配が伝わってきた。


「その話は、本人から直接聞いてみようか」


 コンコンコン。扉を叩く乾いた音が、わたししかいない書庫に響いた。

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