第29話
*****
三日前、伊久は幽ノ藤宮の部屋に呼ばれた。
そこで切り出されたのは、弟子の解任の話だった。
「貴方にはわたくしの持つ栽培の知識や技術のうち、必要なものはすべて渡しました。よほどのことが無い限り、栽培者として困ることはないでしょう」
静かに述べる主を前にして、伊久ははじめ口を挟めなかった。
「そして感染者差別についても。このネッサリアの状況を見れば、危機的状況は去ったと考えられるでしょう。感染者……苗床はむしろ誇りととらえられ、憧憬さえ向けられている。――こうなるまでには伊久、貴方の存在が必須でした」
緩やかに笑みを浮かべて、七年前に、名前を授けた目の前の弟子に対して言う。
「伊久。貴方はわたくしには本当に勿体ない、とても良い弟子でした」
伊久は思わず口を開いて、それまで長く語っていた主の言葉を否定した。
「でした、じゃないですよ」
机に手をついて、勢い込んで続ける。
「俺はまだまだ主様から学ぶことがあると思っている。だから、そんなことを言わないでください」
懇願するような伊久の言葉に、幽ノ藤宮は黙ったままだ。
「俺はまだ主様の弟子であり続ける、恥とならない良い弟子であり続けます」
「貴方が望むのであれば、庭園から解放され出て行くことも出来るのですよ」
ようやく同じ調子で続けた幽ノ藤宮に、伊久は駄々をこねる子供のように首を振った。
「そんなことは有り得ません。俺も、苗床たちも、主様の創り上げたこの庭園から出て行きたいと思う訳がないじゃないですか」
此処でなければ俺達は生きられないんですよ、と、伊久は強く言う。
「居させてください。俺をずっと此処に」
「そうですか……」
主は、それきり黙って何かを考えているようだった。
反論されないことを好機として、伊久は言葉を連ねる。
「俺が勝手にする分にはいいんですよね。主様からの指示が無かろうと、俺が庭園のために働くこと自体は、主様は止めはしませんね?」
そうですね、と、幽ノ藤宮は小さく呟き、大きく頷いた。
顔を上げ、伊久を真正面から捉えて答える。
「伊久がそれをしたいと望むのであれば、わたくしには止めようもありません」
その言い回しはまるで、主自身はそのようなことを望んでいないかのようで。
「俺は……俺はずっとこの庭園に居ますからね」
念押しをするように、思わず伊久は繰り返した。
*
――それが、三日前の主と弟子の会話だった。
伊久がそのことを話すと、ジルは首を振った。
「僕はたった今の自分の意見として言ったまで。幽ノ藤宮様に伊久君を解放するようになどと忠告したりはしてないよ」
「……だったらあれはやっぱり主様ご自身の本音なのか」
それはそれで、ショックだ。
今の自分を認められ、卒業のような形で弟子の解任を言い渡される。
それは、自分が至らず破門となるよりは、良いことなのだろう。それでも伊久にとっては、むしろ破門の方が楽な気がしていた。そうであれば、主に縋り、もう一度確かな弟子となるよう励むことを誓って入門出来る可能性が残されている。
しかし、このように手放しで弟子を解任されては。
「七年間そう在って来た俺には、もう弟子以外の在り方が出来ねぇですよ」
額をテーブルに預けての独り言に、ジルが笑った。
「僕の心配は要らぬものだったようだね」
「心配、ですか」
顔を上げた伊久に、ジルは目を伏せて頷く。
「さっきも言っただろう? これほどの技術を持った若者を我々のために此処に縛り付けていていいのかと、僕らは時々心配していたんだよ」
お茶の追加をしながら、この間、故郷の国では学校の警備員をしているという観光客が来ていてね、と続けた。
「警備として自分を雇ってくれるのならネッサリアに移り住んでいも良い、と自分を売り込んでいたよ。その場には幽ノ藤宮様も居られ、検討してみると仰っていた。ともかくそれを聞いていた僕とヴァネシア嬢は、後から話し合ったんだ。確かに庭園の管理にしても食事の準備にしても、やろうと思えば自分達だけでも出来る。自分達だけでは不安のある警備には、外の会社にでも――」
「それは駄目だったじゃないですか」
と、強い口調で伊久はジルの言葉を遮った。
「前に外の人間を入れた時にどうなりました? 市長の推薦だからと気を許した相手が何をしようとしたか、覚えてないんですか?」
「覚えているとも」
ジルは静かに頷く。だったら、と、伊久は続ける。
「俺は庭園と皆を守りたい。だから、それは許したくない」
ジルはしばらく黙り、やがて、そうかね、と頷いた。
「まぁじゃあその話を、もしも、と仮定して。必要な箇所に必要な人間を入れることが出来れば伊久君はもう」
「お払い箱ですか?」
せり上がってくる苛立ちのようなものを堪えて伊久が苦笑してみせれば、
「それは違うよ」
と、ジルは真剣に首を振った。
「今度こそ、自由になれるんじゃないかとね。先ほど言ったように、君がこの庭園に居ることを本当に望んでいるのならば、僕のこれは要らぬ心配だったんだ」
「俺は元から自由でしたよ」
――それを、主様に預かり受けてもらったんだ。
伊久の言葉に、ジルは眉を寄せる。
「話に聞いたところによると、その時の君には選択肢がそれしかなかったそうじゃないか。だからそれを選び、自分の人生の指針としてきたのだろう」
「話に聞いたって、誰からです」
過去の話は、少なくとも伊久は誰にも話していない。
驚きつつも怪訝な顔をしてみせた伊久に、
「もちろん、幽ノ藤宮様からだ」
あの方はずっと後悔をしておられるんだよ、と、ジルは言った。
「若者の道行を自分のエゴで決定させてしまい、自分と同じ道に引きずり込んでしまったと。それは本当に正しかったのかと、館の時代から、時々僕に話してくださったよ」
「主様は……そんなの、それこそ要らない心配だっていうのに」
その指針が無ければ、二十三の自分は三十の今まで生きてこられなかっただろう。自分に自信を持てるほどの知識や技術を身に着ける機会も得られなかっただろう。
三日前の夜、弟子の解任を言い渡された際に自分に向けられていた表情を思い出し、伊久はぐしゃぐしゃと髪をかき回す。
「俺は好きで選んだんだ……」
あの、もうこれで充分だ、というような満ち足りた顔。
それが先ほどジルが話した後悔から解放されようとしての表情であるならば、七年間、愚直に良き弟子であろうと目指し続けていた自分が居た堪れない。
今日は伊久君も沈みがちだね、と目線を外したジルは静かに言った。
「カバレムのこともあってか、全体的に皆が静かだ」
外ではまだ雨が降っていたが、それは庭園を包み込むような霧雨へと変わっている。いつもは面倒を見る側として愚痴など吐かないようにと気を付けていた伊久も、その雰囲気とジルの穏やかさに、今日ばかりはもう少し弱音を吐いても許されるような気がした。
「ジルさん、もう一つ話を聞いてもらってもいいですか」
「なにかね? 僕で良ければ」
そして伊久は、馨とヨーコの件について話した。
特に相談したかったのは、馨が出て行くかもしれないという点だ。
「馨が言いだせば、ジルさんはどうしますか」
「止める、止めないの前に、驚くね。僕は、苗床は庭園にあるべしと思っていたし、多くの人間は今でもそう思っていると思う。言い方は悪いが、感染しないということが分かっていたとしても、感染者は栽培者の管理下に居るべきであると」
そして馨君もそれを分かっていると思っていた、と、ジルは続けた。
「彼は賢いからね。前……二年は前に清谷の
「あいつは、清谷地区に移住するのも悪くないかもしれないと言ってました」
「ふむ……和系文字はもっと前にマスターしていたはずだから、それが理由という訳ではないように思えるし、何よりいくら商君から以前誘いを受けているから言って、あの地に馨君が戻りたがるとは思えないが」
その時の馨との会話を思い出し、伊久は、あれは必死になる自分への冗談だったのかもしれないと思った。真面目な話の中で馨が伊久に笑って見せることなど滅多にないのだ。
「あいつ、ただ単に俺をからかっただけか……?」
むしろ、と伊久は思う。
あの会話で馨が本音で話していたと思える箇所と言えば。
『出て行け、作業の邪魔になる』
その時の馨の顔つきと口調を思い出し、伊久は首を捻った。
――勉強ではなく、『作業』?
――それに必死になる理由とは何だ?
伊久はジルに、ただの冗談かもしれないということ、でなければ何か切っ掛けが無かったかの方から探りを入れてみることを告げた。
ジルは特に変わらず頷いて反応し、
「それにしても、たった七人と一体の庭園から一人居なくなるだけでも寂しくなる。馨くんが出て行こうとしているのならば、思いとどまってくれればよいのだが」
と、小さく息を吐いたのだった。
*****
その夜、幽ノ藤宮に呼ばれていた伊久は、主が部屋に戻って来た後、少し時間を取りタイミングを計らって主の部屋をノックした。
「はい、どうぞ」
失礼します、と入ったその部屋には、主以外にも小さな影があった。
「ふじみやさま、お話、いくさんも一緒にするですか?」
「そうですよ。大事なお話ですからね、すずかもよく聞いていてくださいまし」
九歳にしては小柄な寝間着姿のすずかを膝に乗せ、幽ノ藤宮は伊久を手招きした。机の側の椅子に腰かけるように手振りで示されたが、伊久はそれをいつものように辞退する。
「伊久、すずか。わたくしは、またしばらく出てこようと思います」
「しばらく?」
「長期間、ということですか。どのくらいになります?」
それを聞いただけで涙目になったすずかを、幽ノ藤宮は宥めるようにしながら答える。
「今はまだなんとも言えません。また、――――」
「そんなのやです、いかないでください!」
後半は幽ノ藤宮に縋りつき本格的に泣き出したすずかの声でかき消された。
庭園管理責任者が庭園から長期間居なくなる。それは良いこととは思えないし、それを幽ノ藤宮本人も分かっているはずだ。
伊久は冷静になるため拳を握り締める。
「その間、庭園管理責任者の座はどうされるんですか?」
「おや。弟子を解任したばかりの方がわたくしの目の前におりますのに。解任ということは、そちらもすべて任せられる腕になったとわたくしは見込んでいるということですよ」
やはりそういう気持ちで居たのか。
「……俺はまだ弟子を解任されたつもりはないです。それに、カバレムだって」
「あぁ、そうですね。出立までには彼の調子、出来れば植物の落ち着きをこの目で見届けたいものです」
それから、と、幽ノ藤宮は続けた。
「新しく入っていただく警備さんと清掃者さんにご挨拶もしなければなりませんしね」
ちょうど昼間にも同じことをジルと話していた伊久は、カッとなるのを抑えることが出来た。押し殺した声のまま、昼と同じ返答をする。
「それは駄目だったじゃないですか」
「それは、とは?」
すんすんとすずかが鼻をすする音を背景に、二人の目が合う。
「市長の推薦で入った警備者が行ったことを俺はまだ許していません」
そう言うとは思いましたが、と、幽ノ藤宮は言った。
「伊久、これだけはわたくしの権限で決定させていただきました」
「何故ですか」
ぽんぽんと一定のリズムですずかをあやし、主は答える。
「今はもう、夜の警備は貴方一人でしかしていませんね? わたくしが留守の間に、わたくしが請け負っていたもので貴方にお願いしたいことがいくつかあります。それを今の貴方の作業量に加えると、それこそ前と同じ状況になりますよ。貴方の時間が足りなくなり、必ずどこかで支障が出ます」
「……それは……」
それから、と、口ごもった伊久の憂いを少しでも払うように続ける。
「警備はテクナ・マシナのレヴィンさんにお願いすることにしています。ご足労をおかけはするのですが、日雇いの通いで。清掃者さんはこの度結成されたボランティアグループで、そのリーダーは観光案内人のマティスさんです。日中、庭園が開園している間にお願いすることになっています」
「レヴィンに、マティスさん……」
「ええ。マティスさんからは、『けして伊久さんへご迷惑をおかけすることはありません』と言っていただけもしています。また、グループの中にはドク先生のところのディリさんユウさんや、時々シンさんも加わってくださるそうです」
「ドク先生、ディリ、ユウ、シン……」
言い並べられた名前は、確かに伊久にとっても信頼のおける人物ばかりだった。……しかし、だからといって凝り固まった伊久の意思は、快諾が出来る訳では無い。
(だってボランティアには他にどんなヤツが入ってるか分からないだろ)
何かを言い募ろうとしつつも言葉が出ない伊久に、
「貴方はやはり、自分と同じじゃない人でなければ許せませんか?」
と、少し困ったように主は訊ねた。
「――『弟子』、と。いうことですか?」
前にも同じように返した答えは、今回も当然ながらまた間違っていたようだった。
幽ノ藤宮はゆるりと首を振ると、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「今日のお話はこれでおしまいです。さ、すずか、お休みしましょう」
「いやです。ふじみやさま、庭園出るならすずかもつれてってください――」
ふにゃふにゃと眠気交じりに抗議するすずかを連れて部屋を出られては、伊久もその後に続くしかない。
「おやすみなさい、伊久」
「おやすみなさい、すずか、主様」
鍵の閉められた部屋、その隣のすずかと主の寝室――その逆方向、玄関のある方へ歩き出しながら、伊久は何とも言えない気持ちを抱えていた。
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