第28話


 *


「ヨーコ!」

 大声で呼び止めたのは、伊久だった。

 雨の降る中、濡れたまま庭園の花畑を歩く姿を洋館の廊下から見かけ、慌てて飛び出し走って来たのである。彼女の分として持ってきた傘を広げて掲げても、ヨーコはそれを受け取ろうとしなかった。

「おい、ヨーコ?」

「…………」

「馨と何かあったのか?」

 ヨーコが朝から馨の元へ来ていることは知っていた。

 そのため、ヨーコの様子がおかしいのはそのせいかだろうと見当をつけそう言うと、

「あんたがっ!」

 と、ヨーコは急に伊久の胸倉を叩いた。その拍子に傾けていた傘が落ちる。

「どうした、俺が、何かしたのか?」

 それを怒るでもなく、無理に宥めるでもなく、伊久は訊ねる。

 一度だけ肩を震わせると、ヨーコはぽつりと言った。

「あんたが前に馨に言ったんでしょう、『使える文字が多いのはいいな』って」

 突然向けられた責任の追及のような言葉に、伊久は戸惑った。

 馨が多くの文字の勉強をしていることは知っていたし、それに対し時々声をかけることもあった。その中に褒めたような言葉もあっただろう。しかし。

「悪い。確かに俺が言ったんだろうが、今は覚えてない」

「……でしょうね」

 だからあれはきっと言い訳だ、と、ヨーコは下を向いたまま言う。

「藤宮様があいつを出て行かせるようなことはされないだろうし……あいつがあんたの何気ない言葉なんかで気持ちを動かすとは思えない……でも、あいつは何かと意味づけてでも自分の好きにするに決まってるんだ……」

「なぁヨーコ。話が見えない。それにこのままだとお前風邪ひくぞ」

 自分用の傘をヨーコにかざし、自身は雨に濡れたまま、伊久はヨーコを洋館に連れて行こうとした。しかしヨーコはそれを拒否し、今日はこのまま帰るわ、と言った。

「じゃあせめてこの傘持っていけ。で、次にまた返しに来い」

 それまでに俺は馨から話を聞いておく、と、伊久は無理矢理傘を手渡した。

 伊久用の傘でほとんど背中の隠れたヨーコが庭園を出て行くのを見届けてから、

「なんだってんだ……?」

 伊久はようやく、地面に転がる傘を拾い上げた。


 文机に向かっていた背中が、

「冷めた茶ならあるぞ。ヨーコが飲まずに帰ったものだがな」

 と、振り返ることなくそう言った。

 しかしぽたりと畳に水滴が滴る音を耳に捉え、振り向いて、目をすがめた。

「……身体を冷やすなと毎回私に口うるさいのはどこのどいつだ」

「あぁ、悪いな」

 馨は立ち上がり、箪笥から手ぬぐいを取り出すと、廊下から一歩部屋へ踏み込んだ状態の伊久に向かって投げつけた。それを受け取った伊久は、手ぬぐいを使って自分を拭いていく。がしがしと頭を掻くようにして銀髪の水気をとりながら、

「なぁ馨、少し話が出来ないか」

 と尋ねた。

 立ったままそれを見ていた馨は、溜息を吐くと茶卓の方へと座り直した。

 水気を拭き取り終った伊久がその対面に座り、馨を見る。

「ヨーコと何があった?」

 ストレートな質問に、返された答えも直球だった。

「ここを出て行くつもりなのかと尋ねられ、答えただけだ」

「なんて答えたんだ」

「さてな」

 同じ音で繰り返されたそれは、ヨーコに返した答えの反芻だったのか。それとも、伊久に対して改めて返した答えだったのか。

「話がそれだけなら、もう良いか。私は今、忙しい」

「文字の勉強でか? それは、俺が言ったからか」

 腰を上げかけた馨は、伊久の言葉に眉をひそめた。

「お前が何を……あぁ、以前ヨーコに対し、お前も使える文字が多いことを良いことだと言っていたというような話はしたが、別にそれを理由に私は文字を勉強している訳ではないぞ。己惚うぬぼれるな」

 それならやっぱり、と、伊久は馨を視線で射抜く。

「出て行くためか?」

「さてな、と、答えただろう。――だが、」

 二度目の溜息を吐くと、馨は改めて座り直した。

「そうだとして。つまり、私がここを出て行くために文字を会得しているのだとして、だ。それは咎められなくてはならないことなのか?」

 先ほどとは逆に馨から視線を突き刺され、伊久の言葉が詰まる。

「……あのジジイのとこに帰るってんなら許さねぇ」

「――豊隗寺ほうかいじ様か」

 呟く馨の声音には、憎しみの色はまるで籠っていなかった。

 あのまま豊隗寺の元に居れば馨は必ず死んでいた。それを助けた者として、また現在苗床の世話を一手に背負っている栽培者として、あの場へ馨が戻ることは許さない。

 そんな伊久の胸中を知ってか知らずか、それは無いだろうが、と、

「清谷地区へ移り住むのも悪くはないかもしれないな」

 そう言って、馨は少しだけ口角を上げてみせた。

 その現実味を帯びた発言に、

「苗床が、庭園を出られる訳ないだろ」

 数日前のとある会話を思い出し、伊久は反射的にそう言い返した。

 しかし、その内容は似ていても、その時に自分が口にしたものより言い方も語気もずっと鋭くなっていた。

「……これだから」

 と、馨が小さな声で言った。

「これだから何だよ」

「やかましい。とにかく私は忙しいのだ。――出て行け、作業の邪魔になる」

 馨の口調は硬く、そして強くなっていた。

 机に置いていた手ぬぐいを押し付けられ、伊久は部屋を出て行かざるを得なくなる。

 未練たらしくゆっくりと立ち上がりながら視線を送ると、さっさと馨が向き直った文机の上には、依然として古いノートと何の文字かの辞書が並べられていた。

「馨、そこまでしてその文字の勉強を急ぐ理由があるのか?」

 伊久が最後にかけた言葉には、もう返答をされることは無かった。


 雨は、庭園を出て行ったヨーコと連動しているかのように弱まっていた。

 溜息を一つ吐き、和館の玄関で立ち上がる。

 伊久はガラスドームへと向かうつもりだった。今日は確かカバレムの山場であり、恐らくは四度目の誕生日となるはずだと言っていた。

 現状はどうなっているだろう。これから行っても三代目にはもう会えないだろうか。

 そんなことを考えていると、廊下の奥からこちらへやってくる足音がした。

 振り返り、伊久はそこに主の姿を見つけた。

「主様。今日はガラスドームに居るご予定だったのでは?」

「あぁ、伊久。先ほどカバレムは息を引き取りました。今、ドク先生と死人使いさんが四代目へ生まれ変わらせるための処置を行っています。わたくしはそれで、今後必要なものを取りに」

 俺も手伝いを、と言いかけて、伊久はその言葉を飲み込んだ。

 以前――二代目から三代目へと変わる時、同じことを申し出て頑なに拒否されたことを思い出したのだ。

 代わりに、

「あ、部屋まで荷物があるなら運びましょうか?」

 と言ってから、伊久はそれも不必要なものだったことに気付いた。

「ふふ。ありがとうございます。しかしご覧のとおり、たもとに入る程度のものなので」

 そう言って主は、自分の袂を軽く持ち上げて見せた。そこに何らかが入っているのが分かり、そして更にそれは小さなものであると分かる。

「……そうですか。じゃ、俺はまた後で四代目に挨拶しにいくことにします」

「えぇ。あぁ、出来ることなら他の皆さんへの念押しをお願いします。ヴァネシアさんにもお願いをしたことではありますが」

「『カバレムの死亡後三時間は部屋に入らないように』ですね、了解です」

「それから、伊久」

「はい、なんですか?」

「今夜も少しお話があります。……時間をとっておいてもらっても?」


 *


 結局、ガラスドームへと行くことなく洋館へと戻ってきた伊久は、自分の部屋での作業に戻る前に少し休憩をとることにした。

「ジルさんすみません、お茶を淹れてもらってもいいですか」

「構わないよ」

 キッチンで新作ブレンドを考えていたらしいジルにそう声をかけ、手持無沙汰にその鮮やかな手腕を見守る。

 ヨーコからの叱責と馨の言葉。そして自分の失態と主からの含みのある誘い掛け。

 雨に濡れたこともあって、少し疲れたなと感じていた。

「そうだ、ジルさん。先ほど、カバレムが」

「あぁ、それならば昼食にヴァネシア嬢を呼び戻す際にはもうカバレムには会えないな」

 伊久と共にハーブティーの入ったカップを傾けながら、すべてを聞かずともジルはそう言った。時計は既に十時を半分以上回っている。

「あー、今日の昼はジルさんが担当してくださるんでしたか。昨日の晩に出した、クルーガーさんからいただいたキッシュはまだ残ってますよ。あれを出すのと……ほか、もう考えてらっしゃいます? 今日も四人分でいいんですっけ?」

 カップに息を吹きかけながらそう考えを口に出していると、愉快そうにジルが笑った。

「……俺、なんか変なこと言いました?」

「いや、失敬。これだけ立派な栽培者になった伊久くんが、ここが小さな館だった頃と似たようなことを口にしているのが面白くてね」

 庭園の造園前、ここが荒地の小さな館だった頃は、伊久が毎食料理の準備をしていた。

 二十代前半の頃は買い合わせのものも多く、手料理をすれば散々なものが出来上がることもよくあった。それを責めることなく、主もすずかもそしてジルも、毎食美味しいと言って食べてくれていた。

 それが嬉しくて、また悔しくて、練習を重ねた結果、二十代後半に入る頃には人前だけでなく店に出しても文句は付けられないだろうレベルにまで成長することが出来た。伊久が現在身につけている掃除や洗濯、その他全般の腕だって同じである。

 二人はしばらく、その懐かしい、小さな館時代の話をしていた。

 そして一息つくと、ジルは穏やかな目を伊久へ向ける。

「伊久君は、いつまでもこんな人生で構わないのかね」

「こんな人生、って」

「我々苗床に縛られた人生だよ」

 伊久は頭を殴られたような心地がした。

「四ヶ月ほど前にシャグナ王国の王子様がお越しになった時、カリスタ嬢が自分の自由は此処にあると言って心を決めたという話は聞いているね? それと同じように、僕やヴァネシア嬢やすずか嬢は、苗床と言う立場を理解し、在るべき姿に納得し、望んでこの庭園に居る。恐らく今のところはではあるが、馨君もそうだろう」

 伊久が何かを言う前に、しかし君はどうだい、と尋ねられた。

「栽培についてはもちろんのこと、料理やほかの物事だってたくさん出来ることがある。そしてもう、幽ノ藤宮様から教わることもほぼ無いだろう」

 灰色の目で、ジルは温かく伊久を見つめている。

「君は、師匠離れをしてみるつもりはないのかね」

 ジルさん、と、低い声で伊久は言った。

「それを主様に進言したのは貴方だったんですか」

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