第20話


 *


 幽ノ藤宮が出立してから二週間が経つ頃に、すずかは高熱を出した。

 もちろん伊久は主に言われたとおり意地を張ることなくすぐにドクと連絡を取り、館まで来てもらった。

 それまでにも何度もやって来てきており、伊久ともすずかとも親交を深めていたドクは、

「恋しくなっちゃったんだね」

 と、すずかをちらりと見ただけで診断した。

「恋しくなっちゃった?」

「うん。まぁ、根源的に言うと、です。恐らくストレスからきたんだと思いますよ。出会ってからずーっと一緒に居てくれた庇護者が離れてしまったことと、その庇護者がなかなか帰ってこないこと。いろんな心配がないまぜになっちゃってるんだろうね」

 最近彼女の食欲はどうだった、と、ドクは訊ねた。

 確かにこのところ、いつものように「おいしいです」と口にしながらも、食事を残すことがあった。自分もそれを心配して、出来るだけ彼女が気に入っていたものを作るようにしていたのだけれど。

 ドクが熱や脈を図るなどの処置をすずかに行っている間、伊久は自分への自己嫌悪を降り積もらせ、後悔を繰り返していた。

 ……本当の家族に捨てられたすずかにとって、幽ノ藤宮はただの医者などではなかったのだ。唯一、自分を庇護してくれる者として、縋ることのできる相手だったのだ。

 二十四を迎えたところの自分が出来ることはなんだ?

 主様の唯一の弟子? だから何なんだ? 栽培についても医学についても、まだまだ知識も技術も足りていない。病に苦しむ幼い女の子の心配ひとつ見抜いてやれない。

 あれだけ一緒に居て、あれだけ話をしていたのに。

 あの人でなければ、駄目なんだ。

(やっぱりまだまだ俺なんかじゃ――)

 と、

「君も」

 ――パシンッ

「恋しくなっちゃってるね」

 ドクが伊久の背中を軽く叩いた。

「悔しくは……なってますけど」

「悔しい? どういう風に?」

「自分には何も出来なくて……主様が居れば」

「でも居ない」

 小気味の良いくらいのスピード感で、ドクは言葉を挟んだ。

「今は居ない。此処に居るのはキミとボク。――ね、だから出来ることを頑張りましょう。幽ノ藤宮さんの手が無くても、たった一人の女の子くらい助けてあげようよ」

 はじめは何をするのかと眉を寄せた伊久だったが、ドクの言葉を聞いてじわりと浮かぶものがあった。

 ぐい、と目尻を乱暴に拭うと、すずかの枕元の椅子に座る。

「大丈夫だからな」

 顔を真っ赤にし、ふぅふぅと辛そうな息をしているすずかに語り掛ける。

「すずかを連れてきた時みたいに、そのうちふいっと帰って来るさ」

 その時、あ、とドクが声を出した。

 その声に振り返ると、

「……なんだか毎度、タイミングが良いのか悪いのかわかりませんね」

 と、小首を傾げた主が立っていた。


「ドク先生は、投薬はされてないんですよね?」

「うん、してないですよ。熱を下げるように各部を冷やしただけ。あとバイタル」

 その返答を聞き、幽ノ藤宮は眠っているすずかの頭を撫で、一度部屋へ戻り取ってきたアンプルから薬を植物へと注入した。

「植物の方を落ち着かせる薬です。人間が使う精神安定剤のようなものですね。ドク先生が投薬をされていないのであれば、一応こちらだけ打っておきましょう」

 そう言いながら手早く後片付けを済ませ、

「伊久、今度からはこの薬品名も覚えておいてください」

 保管場所はまたお教えします、と幽ノ藤宮は言った。

「あの、いつものとの違いは」

「良い質問ですね。あれは、植物が人間から栄養を取り込んだり体内へ深く侵食したりするのその場で抑え、その力を強制的に弱める薬です。だからこれとは少し効果が違います。そうですね……今度からはそれぞれの薬の内容を書き出したものも一緒にお渡ししましょう」

 はい、と頷いた伊久に、いいねぇ、とドクが笑う。

「出来る助手って感じだね。ボクのところにも欲しいなぁ」

「ドク先生にはディリさんとユウさんが居るじゃないですか」

「いやぁ確かにいい子達だけどまだちっちゃ過ぎですよ。シンも出てっちゃって懐いてくれないし、ボクにだって出来る助手が居て欲しいもんだなぁ」

「確かに自慢の弟子ですが、わたくしの弟子は差し上げられませんよ」

「お、俺だって、主様以外の弟子になるつもりはありませんよ」

 いいねぇ、と、ドクはまた笑った。何についての「いい」なのかは続けられなかったが、幽ノ藤宮はもちろん、伊久にもなんとなく分かっていた。

「……ふじみやさま?」

 ピークを越えて熱が下がってきたらしく、すずかがぼんやりと目を開いた。

「はい、ここに居りますよ。遅くなってごめんなさいね、すずか」

 幽ノ藤宮はそう言うと、すずかの頬にぺたりと張り付いた髪をとった。途端にすずかはふわりと笑い、おかえりなさい、と満足そうな顔をしてまた眠っていった。

 しばらくすずかの様子を見ていた後、

「ドク先生、もうしばらくお付き合い願えますか?」

 と、幽ノ藤宮はドクの方へと向き直った。

「いーよ。なんです? あぁ、もしかして新しい方のご紹介?」

 そういえば、とようやく伊久は思い出した。幽ノ藤宮が帰ってきた理由――そもそも出かけていた理由が、今の間は頭の中から抜け落ちていた。

 ではお呼びしてきますね、と言って階下へ降りて行った幽ノ藤宮は、やがて白髪の老人を連れて戻って来た。

「初めまして。僕はジルと言います。今後、お世話になります」

 そう言ってゆっくりと腰を折ったジルは、伊久の思い描く老紳士そのものだった。慌てて自分も頭を下げ、自己紹介をする。

 次にドクが片手を上げて、

「ボクは此処に住んでも居ないし、感染もしていない。まぁ、ただのご近所さんだとでも思ってください。ドクです。医者です」

 と、名乗った。

「お医者様ですか?」

 ジルは、そこに引っかかったらしい。

「見えないとよく言われますがね。ちゃんと医者ですよ」

 ひらひらひらっと白衣の裾を動かして見せるドクに、

「お腹が痛くなった時でも、頭をぶつけた時でもお任せください」

「……その時には、お願いします」

 そう言って頭を軽く下げて見せたジルは、どこか悔しそうな顔をしていた。――ジルの後ろに立った主の表情から、何かの事情があることを伊久は悟った。

 最後に幽ノ藤宮が眠っているすずかを示し、

「この子が、道中お話した、カキョウから引き取ってきた一人目の感染者です。明日、目が覚めたらまた改めて顔合わせをさせていただきたいと思っています」

 と説明した。ジルはベッドに近づくと、

「こんなに幼い子にまで……せめて夢見は良いものであるように」

 口の中で呟くようにそう言って、枕の両脇をくるりくるりと丸く撫ぜた。その動作で、伊久はジルがサルバサエク出身であることを思い出した。

(サルバサエクでもあのおまじないがあるんだな)

 ――自分の故郷と同じように。

 伊久の中に少しだけ苦い何かがせり上がって来たが、

「伊久。ジルさんのお部屋の準備はしていただいていますか?」

「あっ、えぇ、はい。もうご案内してもいいですか?」

 幽ノ藤宮の声かけで、それはすぐに消え去った。

 ドクはその場で帰り、部屋までの案内には、幽ノ藤宮もついてきた。

「そういえばジルさん、ここに着くまでにお尋ねするのを忘れていたのですが」

 荷物を運ぶ伊久の後ろで、やけに楽し気に幽ノ藤宮が言う。

「はい、何でしょう?」

「ジルさんのお誕生日を教えてくださいませんか?」

 その質問は、伊久も既にされていた。

「構いませんが……何故それをお知りになりたいと?」

 怪訝そうな表情のジルに対して、幽ノ藤宮は笑って答えた。

 すずかの家に最後のお別れの挨拶とやらをしにいった時も、母親からそれを聞き出すのが本来の目的であったと聞いている。

「大事な方の大事な日をお祝いしたいと思うのは、当然のことでしょう?」

 ――すずかとジル。

 この二人の感染者の協力のもと、幽ノ藤宮が奇病の元となる物質を突き止めたのは、それから更に半年が過ぎた頃であり。その後も研究を重ね、改良した苗床の花の売買による商売が上を向いていったのは、それから更に二年過ぎた頃だった。

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