第19話


 *


(結局うやむやになっていた言い合いを良いことに、一人目を連れて帰って来た訳だ)

 心の中でぼやきながら伊久は朝食の準備をする。

 すずかを交えて三人での生活は、既に一ヶ月が経とうとしていた。

 すずかはすっかりこちらでの生活に慣れたが、まだ館の外に出たことは無かった。

 様々な文字で書かれた新聞や、誰から送られてきているのか不明な情報の手紙を読むのは幽ノ藤宮だけのため詳しいことは分からないが、感染者への差別は日ごとに強まっているということは聞いている。

 ネッサリアの中に感染者が出たという話は無く、それ故に差別も特に起こっていないようだが、それならそれですずかを外に出すのははばかられた。

 感染を広げてはならないし、感染者が居ることを知られる訳にはいかない。

 今のところ、自分と主にも感染の兆しはない。

 それでも、伊久はすずかの肌に直接触ってしまった後には、手洗いすることを心掛けていた。すずかには少し悪いような気がしながら、自分がネッサリアでの感染者第一号になることは許されないと思っていた。

「いくさん、きょうは何のおてつだいしますか?」

 おはようございます、と駆け寄って来たすずかに、じゃあこれ運んでくれるか、と朝食用のパンに塗るジャム瓶を渡す。

 感染源は分からない。だから、今のやり取りすら危険なものなのかもしれない。

 毎日毎日、そんなことを考えてしまう。

 ――どこからが『差別』になってしまうのだろうか。

 幽ノ藤宮は以前、『必要』という思いから差別が生まれると言った。その必要というのが防衛本能のことならば……あんなに小さい子に対し本心では恐れを持って接している自分も、差別をしているのと同じなのだろうか。

 そんなことを考えながら伊久が見つめる先、大事そうにジャム瓶を運ぶすずかの首元で。

 ずらり、と、黒っぽい植物がうねりを見せた。

「っ――あ、あ」

 すずかの小さな声と共に、ジャム瓶が割れる重い音がする。

 伊久は即座にすずかに駆け寄ると、ポケットから注射針とアンプルを取り出した。すずかが連れてこられた翌日、一番初めに主から教えられたのが、すずかが植物の影響により痛みを感じた時の対処法だった。

 ひぅ、と頭を抱えて蹲るすずかの首元、植物の太いところに注射針を刺す。

(大人しくなれっ、こんな小さい子を虐めんじゃねぇ!)

 アンプルの中身を押し込んでやれば、植物は徐々に細くなっていく。この処置を伊久がしたのは今日がまだ二回目だったが、上手くいったようだ。伊久は心から大きな溜息を吐いた。

「大丈夫か? まだ痛むか?」

 すずかの背をとんとんと叩きながらそう尋ねると、

「だいじょぶで……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」

 すずかは割れたジャム瓶を目にした途端、頭を床につけるようにして下げ続けた。

「おい、すずか? そんなに謝らなくていいぞ、仕方なかったことなんだし、それよりほら、ガラスが危ないから」

 それでも、すずかは頭を下げ続ける。ジャムで着物が汚れてゆく。

 そんな小さな体を抱き上げてやりたくて、顔を合わせて笑顔を見せてやりたくて、しかし、伊久にはそれが出来なかった。

 ――それをするには、どうやったって植物に触れる。

「す、すずか、なぁ……もう大丈夫だから」

 声をかけるしかない伊久の前で、

「あ、……」

「トラウマになっているのですよ」

 と、何の躊躇いもなくすずかを抱き上げたのは己の主だった。

「此処に来るまで、すずかは父親からお前は化け物になったのだとひどく暴力を受けていたのです。また、母親が父親にお前がこんな化け物を生んだのだと詰られ、食器を投げつけられていたのもこの子は見ていた」

「…………」

 ――そういう時にこの子に必要だったのはなんだと思います?

 幽ノ藤宮はそう言うと、すずかを抱いたまま踵を返した。

「伊久、貴方にはどうすればいいのか、どうしたいのかが分かっていたはずです。……私が見込んだ貴方の本質は、間違いだったと思わせないでください」

 今日の朝食は少し遅くしましょう、と言い残し、幽ノ藤宮はその場を去った。

 残された伊久はジャム瓶の片づけをしようと、床に手を伸ばし、

「――……くそッ」

 先ほどどうしても伸ばせなかった自分の手を強く床に打ち付けた。


 *****


「『そ、ん、な、お、ま、え、を、食べちゃうぞーーーッ!』」

 奇病に罹ったら罹っただ。主様が治してくれるさ。

「きゃはははははっ、いくさんっ、いくさん、もうやめっ、きゃははははは!」

 あの朝からしばらくして、伊久はそう開き直りのように考えるようになっていた。

 すずかと共に過ごすうち、自分が感染することへの恐ろしさよりも、この小さな女の子を悲しませたくないという気持ちの方が強く思えるようになっていたのだ。

 そんな、すずかへの接し方にも慣れた頃、

「楽しそうだねぇ」

 館に一人の客人が訪れた。

「だ、誰だお前っ」

 突然にょきりとソファの後ろからかけられた声に、伊久はそれまで読み聞かせていた絵本を閉じ、すずかを腕の中に抱えて守る体制をとる。

「大丈夫ですよ。この方はわたくしがお招きしたお医者様です」

 くすくすと笑いながらやってきた主に、伊久は復唱する。

「お医者様……?」

「ボクはドクと言います。幽ノ藤宮さんとは長い付き合いでね」

 ぺこりと頭を下げた客人は、確かに白衣をまとっていた。しかしその白衣のそこここには汚れが付いており、よく見ればそれは絵具だと知れた。また、ぼさぼさとした髪の毛も無造作に広がっており、長い前髪は目元を隠している。

 正直な印象は、うさんくさい、だった。

「ドク先生、では、よろしくお願いします」

「うん。じゃあまずは……よいしょーっと」

 ドクは伊久の囲っていた腕の中から、ずるーりとすずかを引き出した。驚きで固まっている彼女を横抱きにすると、

「植物以外の身体がちゃんと元気か診ようね」

 と、笑顔で言った。相変わらず目元は隠れていたが、それは優しいものだった。

 すずかを奪われるがままになっていた伊久に、幽ノ藤宮が声をかける。

「貴方にはわたくしからお話があります。わたくしの部屋へ来ていただけますか」

 主からの問いに、はい、と答えた伊久は、すずかの身を案じながらも幽ノ藤宮の後をついていくしかなかった。


 ――サルバサエク。

 対面の幽ノ藤宮は、確かに地図上でそこを指さしていた。

 サルバサエクと言えば、

「ソルバノの隣じゃないですか……」

 伊久の故郷、奇病の発生地の隣に位置する国である。

「そうですね。隣と言っても距離は充分にありますが」

「でも、一年前の時点で感染が広がりつつある地域だって」

 確かに感染者は多かったようです、と、幽ノ藤宮は誰かから届いた手紙の便せんを目で追っていた。その言い回しに、伊久の眉がぴくりと動く。

「多、かった? ……それで、今は」

 ぱさり、と置かれた手紙に並んでいるのは、サルバサエクの古来文字だ。

「お一人。すぐにでも自分を研究の糧にしてもらいたいと仰ってくださっている方が居られるそうです。紹介してくださった方からは、そのお一人は罹患してからでも長生きをしているから、新しいケースとして良い資料になるのではないかと」

「それで、だから……また、連れ帰るんですか」

「えぇ。伊久のすずかへの処置も完璧になりましたからね。安心して行ってきます」

 ゆるりと笑った幽ノ藤宮に対し、伊久は、

「わかりました。留守は任せてください」

 と、即答した。

 おや、という風に小首をかしげて、幽ノ藤宮は言う。

「先ほどからの口調からして、わたくしはまた反対でも受けるのかと思いましたが」

「俺は……主様を信じてますから」

 きっぱりと言い切った伊久に、幽ノ藤宮は一拍開けた。

 そして、目を伏せるようにして、

「それはありがたい言葉ですね」

 と笑って応えた。

「留守の間には度々ドク先生が来てくださいますので安心してください」

「……正直なところ、あの方は今のところ信用が出来ないんですけど」

「そうですか?」

 幽ノ藤宮は意外そうな顔をした。

「ドク先生の腕は立派なものですし、こどもの扱いもお上手です。すずかと同じ年頃の子たちも引き取って同居をしていますよ」

 それにしたって、と言いかけた伊久は、階下から聞こえた悲鳴のような高い声に腰を浮かせかけた。しかしそれは幽ノ藤宮に手首を掴まれることで制止される。

「主様ッ、すずかが」

「よく聞いてごらんなさい。――あれは笑い声ですよ」

「は」

 落ち着いてよく耳をすませば、確かにそれは幽ノ藤宮の言う通りだった。

 感染への恐怖を持ち合わせていないのは、幽ノ藤宮の知り合いということからして分かるとしても、あの男は会って数十分のうちにすずかの心を掴んだというのか。

 自分はすずかへの接し方――というより感染者についての考え方――にさえ、折り合いをつけ、慣れるのに一ヶ月以上かかったというのに。

「伊久、顔が険しいですが」

「いいえ嫉妬ではありません」

 何も言ってないですよ、と幽ノ藤宮は笑った。

「わたくしは、明日にでも出発しようと思います」

「分かりました。荷造りの手伝いは必要ですか?」

「いいえ、結構です。ありがとうございます。そうそう、ドク先生の連絡先も今の内から渡しておきますね。何かあれば意地を張らずすぐに頼るのですよ」

 分かってますよ、と伊久はそっぽを向いて答えた。

 笑っていた主の帰りがあれだけ遅くなるとは、その時は思っていなかった。


 *****


「ふじみやさま、まだかえらないですか?」

 どこに行ってるのですか、と尋ねてくる幼女に、

「……ちょっと難しい患者さんのところ、かな」

 と、伊久は言葉を濁した。

「あとなんかい寝たらかえってきますか?」

「あー……その人の容態――」

「よーだい?」

「えぇっと……その人が良くなり次第、かな」

「そうですか……」

 しゅん、とすずかはあからさまに表情を暗くした。

 すずかは、自分がこの館に連れてこられた理由を『病気を治すため』として知っている。それは、里からこちらへ向かう時に幽ノ藤宮から聞いたのだそうだ。

 だが、奇病自体のことやほかの地域で起こっている感染者差別のことは知らない。

 そのため、自分を元にこの館で行われている研究の内容、その大きな理由、これから自分と同じ病気の者がやってくることも知らないままだ。

 幽ノ藤宮は、あえてそこは伏せているらしく、伊久にも口止めをしていた。

 確かに、自分と同じ目に合っている者や、自分より更に酷い目に合ってしまった者のことは、幼い彼女には言わない方がいいだろうと、伊久自身もそう思っている。

「その人がはやくよくなるといいです、でも……」

(すずかにとっては、主様は自分を治してくれる医者なんだろうな)

「……すずかはあとまわしでいいですか」

(早く治してほしいから、早く帰ってきてもらいたいんだろう)

 寂しそうに言うすずかに、違うって、と伊久は笑った。

「いや、確かに順番は後になるのかもしれないけどな。すずかと主様は一緒に住んでるだろ? だから、帰ってきたらいつでもいつまでも診てもらえる」

「いつまでも?」

 あぁ、と頷いた伊久に、少し納得がいったようで、

「そうですか」

 と、すずかは笑って頷いた。

 伸びてきたすずかの黒髪の間から、首元の植物が覗いている。

(……本当に、早く治してやりたいな)

 伊久はそんな風に考えつつ、

「すずか、今日はシーツを交換したいんだが、手伝ってくれるか?」

「! やります! ふわぁってするのすきです!」

 と、すずかの機嫌をとってやることしか出来なかった。

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