4.噂の荒地の館にて/六年前

第18話


 いやだ。

 いやだ。いやだ。

 自分を黙って抱え上げた人の歩みは止まらない。その行き先は自分の家の方向だ。

 いやだ、と思った。それなのに、声が出なかった。

(いやだ。いやだ。もどりたくない)

 とうさまも、かあさまも、なかなか迎えに来てくれないな。――そう思っていたのははじめだけだった。自分が捨てられたのだと気付くのには、そう長い時間はかからなかった。

 そして、どうして捨てられることになったかは誰よりもよく分かっていた。

(それなのに、うちにもどったら怒られてしまう)

「……、……」

 自分を抱え、山道を下っていく足さばきに乱れはない。このまま行くと、もういくらもしないうちに家に着いてしまう。ずずずず、と、首元の『もの』が這いずる感触がした。

(すずかはやっぱりばけものだと、怒られてしまう……!)

「ぃ……や、だ……ぁ」

 すずかは力を振り絞り、声を上げて身をよじった。

「おねが、やだ、うちもどるの、やだ……!」

 おや、というように足を止めたその人が、

「目が覚めていたのですね。おはようございます」

 と、すずかの顔を覗き込んだ。途端に、


 ――藤と竹の色の目だ。


「……きれい」

 さっきまでの気持ちをぽっかりと忘れて、すずかはその目に見とれた。思わず呟いてしまった言葉に、その人はふふと笑みを浮かべて礼を言った。

 そしてすずかを一度地に降ろすと、その小さな両肩に手を置いた。

「家にはもう戻らせませんよ。貴女のことは、わたくしが預かりうけました」


 *****


 住めば都と言うものではあれど。

 はあぁ、と大きな溜息を吐いて、伊久は風呂場の床を磨いていた。

 伊久が幽ノ藤宮の弟子となってから、もうすぐ一年が経とうとしていた。現在、情報集めの旅を終えた二人は、商業都市ネッサリアの小さな館に暮らしている。

 ただ、その館があるのは都市のはずれもはずれ、ぎりぎり西地区に含まれる荒地である。

 更に、建物は古く、いつ壊れても不思議ではないほどのものだった。噂によると以前は『魔術師』と呼ばれる者が住んでいたという話だが――正直、それは本気にはしていない。

 主である幽ノ藤宮は、

「いいえ、情報筋によると本当にここには魔術師さんが住んでらしたこともあるらしいのですよ」

 と言っていたが、その時の心底楽しそうな表情からして、伊久には本当だとは思えなかった。

 その幽ノ藤宮はといえば、

「わたくしはしばらく家を離れます。留守をお願いしても?」

「はい、もちろん。何かしておくことはありますか?」

 そんな会話を交わした数日前から不在である。

 伊久としては勉強内容として何かしておくことはないかと尋ねたつもりだったが、返されたのは、

「そうですね、帰って来た時に家が少しでも綺麗だと、来られる方が喜ぶかもしれませんね」

 というものだった。

 そのため仕方なく、幽ノ藤宮が此処を出てからの伊久は、玄関、リビング、ダイニング、階段、トイレ……と、とりあえず目につくところから順に掃除にかかっていたのである。

(来られる方ってのは、お客さんを連れてくるんだよな)

 滞在していくのだろうか、その間の食事はどうしようか、そもそもあと何日くらいで帰ってくるのだろうかと、掃除をしながら伊久は考え続けていた。

「食材の買い出しにはいつ行くかな……」

「人数も増えましたし今日お願いできますか」

 弟子根性の染みついた呟きに思いがけず返答があり、伊久は振り向いた瞬間に肘を壁に強くぶつけた。感動ではなく単純な痛みでぐぅっと込み上げてくるものを堪える。

「おかえりなさい、主様……」

「えぇ、戻りました。……急に声をかけてすみません、伊久」

 玄関から戻ったとは声をかけたのですが、と申し訳無さそうにする幽ノ藤宮に、伊久はぶんぶんと首を振る。そして風呂場の泡を流しながら訊ねた。

「お客人はどちらに?」

「長い旅で疲れて眠っています。リビングのソファに居るので静かにしてあげてくださいな」

「分かりました。じゃ、先に買い出し行ってきます」

「はい。それと、館が見違えるほど美しくなっていますね。ありがとうございます」

 それは当然ながらほぼ世辞だっただろう。小汚い館は伊久がどれだけ頑張ってもその古臭さを消すことは出来なかった。

 それでも、伊久にはその言葉が嬉しかった。

(あの人に恥じられない弟子になるっていう良い人生目標が出来て良かったよな)

 そんなことを考えながら、伊久は冷蔵庫の中身を確認するためにキッチンへ向かい、その途中、リビングのソファで眠る者の姿を見た。それはどう見ても幼い女の子で――素直に率直に頭に浮かんだ言葉は『誘拐』だった。

 しかし、ころりと反転してソファの背側を向いたその小さな和系人の娘の首筋を見て、あぁ、と納得してしまった。

 あぁ、自分の説得はやはり主には届かなかったのだ。


 *


 果たして和系人にこちら風の味が合うのだろうかと心配していたが、三歳ほどのすずかという少女は、食卓に並ぶものに驚きながらも、文句ひとつ言うことなく食事をしていた。

 旅路の中で信頼を深めたのか、隣に座る幽ノ藤宮にもよく懐いている様子だ。

 時折、

「ふじみやさま」

 と呼びかけて返答を貰っては、嬉しそうな笑顔を浮かべている。

「それで最後のお別れをとご挨拶しに行きましたら、塩を撒かれましてね」

「塩?」

 食事中に聞いていた旅の話の途中、すずかの家に寄った場面の話だ。

 なぜ調味料を、と思わず伊久は首を捻った。

「穢れを払うための行為、儀式ですよ」

 と、幽ノ藤宮は伊久を見つめ、穏やかに笑いながら答えた。

 けがれをはらうためのぎしき。その言葉は、伊久の中のどこかに刺さった。

 が、

「しょっぱかったです」

 真面目な顔をしてぺろりと舌を出して見せた少女の行動に、それは和んで消えてしまった。伊久は声を上げて笑い、幽ノ藤宮は口元を隠して笑う。

(この子がただの同居人なら、楽しくなったって単純に喜べるんだけどな)

 続けて旅の帰りの話を聞いていて、ふと、伊久はすずかがどこからやってきたのかを聞いていなかったことに気付いた。

 すずかの首元をちらりと見やり、予想を口にする。

「それにしても……ということは、罫野けいのまで行ってきたということですか?」

 罫野は伊久の故郷ソルバノの一つ山を越えたところにある和系人集合地区である。そこには既に奇病が蔓延していることを、伊久は幽ノ藤宮から聞いていた。

「いいえ」

 きょとんとしているすずかの髪を撫でつつ、幽ノ藤宮は目を伏せる。

「すずかの一族やいくらかの家は、罫野に奇病が入って来た頃からカキョウへ移り住んでいたのです。そしてしばらくは平穏に暮らしていた。しかしカキョウではまだ近過ぎたようで……カキョウでの発症者はすずかで三人目とのことです」

 すずかの頭を撫でる主の手が、すずかの首元にまで降りていく。

「ッあるじさ、ま」

「そして、わたくしがすずか一人です」

 ひたりと自分を見据える幽ノ藤宮に、

「この意味が貴方には分かりますね。――わたくしは、以前の話し合いから意見を変えていませんよ」

「……見ればわかります」

 伊久は、目を逸らすことしか出来なかった。


 *****


 この館に住まうようになった頃。

 幽ノ藤宮と伊久は、再会の日以降、二度目の言い合いをした。

「伊久は差別を許さないと言いましたね? それでも、わたくしの提案を受け入れてはくださらないのですか?」

「だってそれは差別とは別問題ですよ!」

 幽ノ藤宮は、この館に奇病感染者を集めると言いだしたのだ。

「実際の感染者の状態が分からなければ、研究を進めることは出来ません。仕入れる情報だけでは無理があるのです」

「それは……分かります。だけどそんなことをして、主様自体が奇病に感染してしまったらどうするんですか?」

 弟子である自分がどうにかするのか? まさか! 

(まだそんな知識も技術も得られていない、教わってもいない! 主様が奇病に感染すればすべておしまいだ!)

 幽ノ藤宮の提案は、伊久にはどうしても理解が出来なかった。

「伊久、わたくしは貴方や自分をみすみす感染させようとしているのではありません」

 表情から伊久の気持ちを汲み取ったのか、それまで以上に冷静な声で幽ノ藤宮は言った。

「しかし、もしそれ故に感染したとしても安心してください」

「何が安心できますか!」

「止めます」

 きっぱりと、幽ノ藤宮は言い切った。

「奇病の進行を止め、感染者自身へ植物が害を与えないように。わたくしがしてみせます。わたくしが奇病に罹ったとしても、研究をやめることはありません。貴方やわたくしの選ぶ先が最期のひとつとなってしまう前に、わたくしはやり遂げて見せましょう」

 その強い眼光に、伊久は思わず怯んだ。

 しかし、どうにか自分の意見を最後まで伝え続けようと無理矢理口を開く。

「……そうすることが出来るという、根拠は無いじゃないですか」

 伊久は故郷で何人もの感染者を見ている。

 嘆き、呻き、苦しがる感染者と、その身体を蝕むグロテスクな植物。正直なことを言えば、伊久は自分が感染する以上に、そんな状態となった主の姿を見たくなかったのだ。

 それにそんな姿になってしまえば、研究も何もあったものではないだろうと思っていた。

「主様は奇病に感染した時の恐ろしさを軽く考え過ぎて――」

「貴方の村で最後の一人を看取ったのは誰でしたか」

「……っ」

「わたくしは貴方以上に感染者を目にしています」

 それに、と、幽ノ藤宮は続けた。

「感染者への差別がどういうものかも、貴方以上に目にしています」

 長い長い沈黙の末、

「出来るんですか、本当に」

 と、伊久は絞り出したような声で言った。

 それは質問ではなく、もはや愚痴に近いものが含まれていた。

「おや。伊久はわたくしを信じてくださらないのですか?」

「その言い方は……ズルいと思いますよ俺は」

 言い合いは、そこで止まっていた。

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