◆6-3

 辺りに響き渡る大声に、周りの音がぴたりと止まった。その声に、誰よりも早く反応したのはリュクレールで、ばっと塔の中に続く階段へ振り向き、


「ちょっとま、っふ、げっほげほげほげほォエ!! ふぐゥ!!」


 階段から体半分出した状態で限界を迎えたのか、蹲ったまま咳き込んでいる肉団子を目撃した。


「だ、男爵様っ!?」


 あり得ない再会が起きている事に驚く前に、その息も絶え絶えな状態に、状況も忘れて慌ててリュクレールは駆け寄る。


「ンッハッハッゲフ、流石に一息に昇るのは無理があったねゲーッホゲホゲホォ!! できれば水の一口も、貰えると有難いのだがハァーッ」


「も、申し訳ありません今は少し……」


「ああいや、大丈夫ですよハァーッハァーッ、このビザールンッゲホ、これ以上貴女に御手間は取らせませんとも」


 喋っている間に少しは息を整えられたらしく、立ち上がった男は丸い体をぽんぽんぽん、と叩いて埃を落とし。


「ふう、お待たせいたしました淑女。まずはお招きも頂かないのに詣でてしまったことをお詫びいたします。何せ少々、急がなければならないようで」


「あ、あの、男爵様」


『貴様、性懲りもなく何用か? その無様な姿、見ているだけで不愉快だ。塔の上から放り落として肉塊として散らせてやろうか』


 周りを全く見ることなく、リュクレールにだけ話しかけてくるビザールに少女がおろおろと視線を彷徨わせていると、すっかり無視されていた体になっていた悪霊が苛立ち交じりの声を上げる。じわりと近づいて来た黒雲に、さっと男爵の極太の腸詰のような指が翳される。


「外野は黙っていてくれたまえ、今とても重要な所なのだ」


『な――』


 悪霊が絶句する。これだけまがまがしい姿を晒し、いつでもこの男を縊り殺せる状態でありながら、この太った男は全くの無視を貫こうというのだ。あまりの言いざまに怒りも忘れて悪霊が呆然としているうちに、ビザールはとうとうと言葉を紡ぐ。


「淑女、あいにく吾輩は貴族と言えども家督は少なく、貴女に不自由をさせてしまうかもしれません。ですが少なくともこの塔よりも、広い世界へお連れすることをお約束しましょう。貴女が自由に泣けて、自由に笑える世界へ」


 真っ直ぐな言葉に、リュクレールは思わず呼吸を忘れかけた。あまりにも場違いなその言葉は、まるで彼女にとって――


「だ……男爵様。あの、それは、どういう」


「おお、これは失礼、先走りすぎました。どうにも緊張しているようです、お恥ずかしい。では改めまして――」


 そしてビザールは、短くて肉付きの良すぎる足をどうにか畳み、その場に跪いた。剣を握ったままの彼女の手を恭しく取って、その指先にそっと口づけ――外套の下からさっと、夜にしか咲かない月光草の小さな花束を、差し出して告げた。


「どうかこの吾輩、ビザール・シアン・ドゥ・シャッスの求婚に、応えて頂けませんか? リュクレール・コンラディン殿」


「――」


 今度こそ、リュクレールの息が止まる。まさか、と思ったし何で、とも思った。そんな数多の驚きと疑問を、それ以上の喜びがあっという間に押し流そうとする。込み上げてくる様々な感情を堪えて、少女は必死に言葉を紡ぎ出した。


「だ、男爵様」


「はい」


「わ、わたくしはこの通り、人とも霊とも取れぬ有様です。貴方に相応しいとはとても思えません」


「吾輩の個人的な嗜好で言わせて頂けるのなら、色白で羽のように軽い、とても魅力的なお体だと思いますよ? 相応しいか相応しくないかで言うのなら、吾輩よりも貴女の傍に似合う男はいないと自負しておりますが」


「あ、あの! わたくしは、不義の子です。男爵様の家名に、泥を塗るやも」


「ンッハッハ! 今更泥玉の百や二百は看板にぶつけられておりますし、一つ二つ増えてもかすりもしませんな! それで貴女が苦しまれるのなら非常に不本意ですが、それしきのことから守れないと思われるのであればまた心外です」


「いいえ、いいえ! 男爵様のお優しさは、とても良く解っております。ですから、どうか、これ以上、ご迷惑をおかけするわけには――」


「結婚とは、互いに迷惑をかけられても良いと思う相手とするべきだというのが吾輩の持論でしてな。吾輩のこの求婚が、貴女に新しい痛みを与えてしまうとしても」


 そこで言葉を切り、彼女の手を柔らかい両手でぎゅっと包み込む。


「貴女にそれよりも多く、喜びを与えるとお約束致しましょう。どうぞそのお返しなどは考えず、貴女が応えてくださるだけで吾輩は、一生分の喜悦を手に入れられますので」


 そう言って、男爵は笑う。肉付きの良い頬っぺたをむにりと弛ませて。その顔は随分と愛嬌があって、決して逸らされることもなく――リュクレールの瞳から、涙が零れた。


 それは決して、悲しみの証ではなく。溢れ出る喜びが声よりも先に形を成した結果だった。




「謹んで……お受け、致します。――男爵様ぁ……!」




 まるで子供のように、少女は男爵に抱き付いて泣き出してしまった。今までの心細さと、張っていた虚勢も全て剥がれ落ちて、涙に代わる。ビザールの方は安堵と、歯噛みする悪霊に対し勝ち誇った顔のまま、彼女の背を優しく撫でてやった。


「男爵様! 男爵様!! ごめんなさい……ありがとうございます……!」


「謝罪は必要ありませんよ、リュリュー殿。さてさて、後は一仕事終えなければ」


 すぐさま妻を愛称で呼ぶふてぶてしさを醸しながら、漸くビザールは悪霊の方へ向き直る。怒りに満ちた黒雲は数多の鎖を伸ばし、塔を覆い尽くす天蓋の網になっていた。決して逃がさぬと言わんばかりに。


『愚者共が。その舐めた口をそろそろ閉じろ、その魂を細切れに磨り潰してくれる』


 はっと息を飲む妻となった少女の背をそっと撫でて宥め、男爵はやはり全く余裕を崩さずにその場に立つ。


「それはこちらの台詞だよ、初代コンラディン伯爵殿」


『ふん。吾の名を知っているのならば、この地全ての土地と民は我がものであると承知の上であろう。その出来損ないの娘に求婚だと? 馬鹿馬鹿しいにもほどがある、それは吾の所有物だ。貴様如きに奪えるものでは無いわ』


 じわじわと降りてくる禍々しい鎖の束を見ながら、ビザールは、ハッ、と心底馬鹿にしたように首を竦めてみちっと肉の音を鳴らした。


「やはり悪霊というものは実に時代遅れですな、リュリュー殿。己の立場を何も解っていない」


『何だと……?』


「良いかね? そもそも死者にとって現世利益の全てに対する所有権は無い。現コンラディン領を所有、支配しているのはコンラディン伯爵殿であるし、既に伯爵殿には、この塔の怪異の排除及び、リュリュー殿に対する求婚の許可を頂いている。お前は生者の世界に不法滞在している邪魔者でしかない。そんなものがこんな麗しい淑女を我が物顔で傷つけるなど、万死に値する。我が母の名に誓い、徹底的に駆除させて頂こう! ンッハッハッハッハッハ!」


 得意の舌をぐるぐる回して言いたいことだけ言い、挑発するかのように高らかに笑う姿に、地を這うように低い声が怒りを吐き出す。


『……良かろう。その無駄な肉を全て削ぎ落して、日干しになるまで吊るしてやる――!!』


 数多の鎖が天を衝く。まるで檻のように天を覆い、雨のように降り注いでくる。咄嗟に庇おうとするリュクレールから一歩前に出て、男爵は悠々と――その大口を開き、一言囁いた。




「頂きます」




 じゃりじゃりと擦れる鎖の音が響き、沈黙。


 反射的にぎゅっと目を瞑っていたリュクレールは、その違和感に、ビザールの肩に埋めていた顔をはっと上げた。


『ば――馬鹿な』


 悪霊の声が漏れる。辺りにはたくさんの鎖が散らばっていて、


「ふーむん。歯応えは悪くないが、味は粗雑であるね。量だけならば満足できそうであるが」


 嚥下する音の後に、口元を取り出したナプキンで拭いながら男爵が呟く。もう片方の手には、銀色に光るフォークが握られ、その先に刺さっているのは――霊体の鎖が一本。


「おっと、食べ残しは宜しくないね」


 そう言って、男爵は笑顔のままその一本をぽいと口に放り込む。僅かな咀嚼音の後、彼は間違いなく――霊質を、食べた。ぺろりと唇を舐めて、一言。


「知らなかったのかね? 吾輩は悪食男爵。――悪霊を食らい、その身に封ずるものだよ」


『そんな、馬鹿な――!』


「吾輩の家は昔から、祓魔を生業としてきたが、吾輩には全くその素養が無くてね。昔から父に叱られてばかりさ」


 伸びてくる鎖は、更に取り出した銀製のナイフですぱすぱと切り裂かれる。後ろのリュクレールへと向かったものも、何故だか男爵の口に吸い込まれるように動きを変えていく。嵐のような鎖の中で、半分ぐらいになってしまったヴィオラの体を如何にか抱き寄せた後、寄り添った男爵の背中が酷く熱くなっていることにリュクレールは気付いた。


「それ故に父は吾輩を如何ともしがたく――吾輩の腹にせめて役立つ術式を刻み込んだ。霊を集め、喰らい、封じる場をこの腹の中に作ったのだよ。そう正しく――この塔と同じものをね」


 べろりと伸ばしたビザールの舌の上に赤黒い線で刻まれたのは、死女神ラヴィラの神紋。そこに吸い込まれるように鎖たちは飛び込んできて、また彼の歯で砕かれ、飲み込まれる。ふうと息を一つ吐き、男爵は尚も続けた。


「額に戦、右手に暴虐、左手に病、口に死、腹に崩壊を。当然、本来ならば壷や家屋に刻んで使用するものだからね。効果を発揮することは無く――業を煮やした父は、吾輩を地下墓地へ放り込んだ。あそこには溜まった淀みと浮かばれぬ霊が幾百といるからね。その中の霊を全て片付けるまで、出てくるなと言われたよ」


「男爵様――」


 言われた事実の恐ろしさにリュクレールが息を飲むと、手と口をせわしなく動かしつつも、男爵は彼女の顔を見て笑う。大丈夫だ、と安心させるように。


「何日も何日も、外に出られぬまま、空腹に耐えられなくなった吾輩は、喰らったよ。喰らったとも。地下墓地に残っていた数多の霊質を。躊躇いもなく、容赦もなく。ただただ、腹を満たしたいがための獣の如く。その中に、既に埋葬された母も、一月後に様子を見に来た父もいたのにね」


「!!」


 悪霊の鎖を食みながら、男爵の顔は一瞬だけ、途方に暮れた子供のように見えた。耐えられず、リュクレールは彼の背から手を回し、その体をぎゅっと抱きしめる。大きな腹回りには到底手は届かなかったが、小さく「有難う、リュリュー殿」という声は聞こえた。


『くそ、何故、何故だ――この体すら、引きずり込まれるだと!?』


 悪霊の体は端からずるずると形を失って崩れ、黒い靄となって次々と男爵の口の中に吸い込まれていく。


「勿論、この吾輩、運動は頗る苦手なのでね。あまり動かずに食事を行えるよう、下拵えは完了している。この塔の一階、要の銀月女神の神紋と、吾輩の腹の崩壊神の神紋を、少々品が無いが、唾を付けて繋げさせて貰いました、淑女。事後承諾お許しを」


 そこで、リュクレールもやっと気が付いた。吹き抜けの下に見える銀月女神の紋が、月も見えないのに輝いて、ぐるぐると渦を巻いている。それはまるで消化器官のように扇動し、この塔の中の空気を動かしているようで。


「この塔は既に、吾輩の腹の中も同じ。抵抗は無駄だよ、悪霊殿」


『有り得ぬ! このようなことが――!』


「さて、少し本気を出そうか。……リュリュー殿、申し訳ないが、ご自身とヴィオレ殿の身を第一に。細心の注意を払いますが」


 巻き込まれる危険性がある、という言葉は、細い腕がそっと背に添えられた手で留められた。そして、小さく囁かれる鈴のような声。


「……大丈夫です。男爵様を、信じます」


「有難う、リュリュー殿。――では、一口に行こうか!」


『こんな! こんなことがあってたまるか! 貴様などに――貴様などに!!』


 未練がましく叫ぶ悪霊の体は既に半分以上崩れている。彼に囚われていた霊達もその身を解放され、必死に男爵に吸い込まれないように抵抗している。


 まるで台風のように霊質が渦を巻き、大口を開けた男爵の口に吸い込まれる一瞬前、悪霊が体を大きく振う。その身に繋がった数多の鎖の殆どを切り離し、塔を離れようとしたのだ。


『シアン・ドゥ・シャッスの封印も最早我には効かぬ! この塔の得手は糧のみ、それが無ければすぐさま捨ててやるわ――!』


「いけません、逃げます!」


 半分は食われてしまったとしても、あれだけの容量があれば、寄る辺が無くともそう簡単には消えないだろう。慌てるリュクレールの背がぽむぽむと柔らかく叩かれ、口元をナプキンで拭いつつビザールは慌てなかった。


「ご安心ください淑女、吾輩の従者は優秀なのです。――ドリス、準備をしたまえ」


『仰せの通りに、旦那様』


 不意に老婆のような声が聞こえてリュクレールとヴィオラが驚くと、男爵の胸ポケットからにゅるりと小さな翠玉色の蛇が頭を出した。かぱりと開いた口から、ドリスの声を発しながら。


『龍の息吹を解放致します。皆々様、少々お待ちくださいませ』






 次の瞬間。ぶるりと身が震えるほどに辺りの気温が下がった。塔をぐるりと囲むように、地面がぴしぴしと凍り付いていく。春から夏になる節目の季節だというのに、その冷気は塔に向かいどんどんと広がっていく。


 塔の周りの骸骨達も、氷の蔦に絡みつかれて動けなくなった。同様に伸びて来た氷を、ヤズローは気にした風もなく躱して踏む。具足に巻き付いて来たものも、全て切り飛ばした。


 そして氷の蔦はみるみるうちに塔に巻き付き、上り――黒雲に飲み込まれようとしていた鎖の塊を捕え、引きずり降ろした。

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