◆6-2

『見るが良い、我が娘よ。これぞ終焉、貴様が望んだ有様だ』


 眼下一杯に広がった骸骨と人魂の群れを見下ろしながら、リュクレールの顔はいつもよりも更に蒼褪めていた。今にも風に吹き散らされそうな細い体を、首吊り塔の渡し台の上で震わせながら。


『この地に染み込んだ数多の血肉は腐り、残されたのは純然たる抜け殻と恨みのみ。まさしく、まさしく我等に相応しい有様ではないか!』


 嘲り笑う鎖の男――否、その姿は最早人の形をしていない。塔の上を覆いつくす天蓋の如く広がった数多の鎖が、蠢き、擦れあい、嗤う。


 唇を噛み締めて、リュクレールは立ち上がる。何度も鎖の鞭で打たれ、彼女の体はあちこちが千切れ飛んでいる。霊質を削られたのだ。物質の血も少量だが零れ、石畳を濡らしている。


 それでも――彼女の、魔の金と人の青を携えた二色の瞳は、絶望していなかった。取り落とさぬよう、布で掌に縛り付けた剣を構え、未だ徹底抗戦の構えを取る。


『ふん。どこまでも生意気な娘よ』


 黒雲の中から伸びる鎖が一本、ずるりと持ち上がり、リュクレールが僅かに息を飲む。彼女に従おうとした霊達は皆、その鎖で黒雲の体に縛り付けられ、ゆっくりと取り込まれている。その中の一人、引き摺り出されたのは、ぐったりとした紫髪のメイドだった。


「……お、嬢様! どうぞお逃げくださいませ! 私共のことは捨て置き、どうか――あああ!!」


 必死の言葉が、悲鳴で途切れさせられた。黒い靄から伸びた鎖で編まれた、まるで熊の様な鉤爪が、ヴィオレの体を簡単に引き裂いた。腹の中からずるりと赤黒い臓物が引き出される痛みと恐れに、ヴィオレが叫ぶ。


「やめて! やめて!! もう二度とその子を殺さないで!! やめてえええええ!!!」


「ヴィオレ! お止め下さいお父様!!」


『ふん。未だ未練にしがみつく哀れな霞共が、徒に逆らうからだ』


 思い通りの恐怖と悲鳴を引き出せて満足したのか、鉤爪は闇の中に溶けて消える。だが無惨に引き裂かれたヴィオレの体はそのままだ。霊質を傷つけられた上、体を鎖と同化させられた身では治すことも出来ない。気を失うことも出来ずに苦しみ続ける大切な従者の姿に、リュクレールは浮かびそうになる涙を必死に堪える。それこそが、父の――他者の負の感情を食らうという目的であると知っているからだ。


『ふん、生意気な娘よ。貴様の悲しみこそが我が糧、憎しみこそが我が力。そしてお前の絶望こそが、我が身の甘露よ。いい加減、諦めてしまえ』


 じわじわと黒雲が近づいてくる。取り込まれた霊達はもはや輪郭を失いかけて、ヴィオレもぐたりとしたまま動かない。助けは、こない。


 リュクレールは――大きく息を吸い――吐いた。ぎゅっと両手で剣を握り締め、恐怖を押し殺す。若芽のように折れぬ姿に、不快そうな音が鎖の奥からしたことにも気づかずに。


「……負けません。わたくしは、負けません!」


『愚かな。これ以上如何に足掻く。お前の母親のように、お前が誘惑したあの男はもうおらぬぞ。今度は敬虔な神官でも、股を開いて誘ってみるか?』


 あからさまな揶揄と侮蔑を、ぐっと唇を噛んで堪える。悲しんではいけない、苦しんではいけない、思うのならば――


(男爵様)


 彼の事を思うと、別の思いが湧いてくる。謝罪もある、礼もある、だがもっとも彼女の心臓を揺らすのは――


「……あの方は、沢山の事をわたくしに教えて下さいました。そのような下種の勘繰りなどなさらぬとも、とても紳士的な方でした」


『何……?』


 声が訝し気に問うたのは、その言葉の内容に対してではない。立ち上がり、まっすぐに悪霊を見詰める少女の顔が、まるで花が綻ぶように笑っていたからだ。


「お父様、貴方の思い通りにはなりません。貴方の指図も、もう受けません。わたくしは――あの方にもう一度胸を張ってお会いする為に、貴方と戦います!」


『ハ――ハハハハハハ!! 愚物めが!』


「っう!」


 鋭く走った鎖の鞭が、少女の体を絡め取り、締め上げる。ぶらりと塔の中空に吊り下げられるが、リュクレールの顔には怯えも怯みも無かった。


『ならばこのまま縊り殺してくれる! その悍ましい肉の体を捨て、我が糧のひとつと成り果てよ!』


「――お好きなように! それでもわたくしは屈しません。お父様の魂を内側から切り伏せて差し上げます!」


『生意気な……ならば、こうだ!』


「っあう!」


「お、じょう様……! ア、アアア!!」


 苛立ちの籠った声と共に、リュクレールの体が塔の屋上に放り棄てられた。同時にぐったりとしていたヴィオレの体が浮き上がらせられ、その四肢が黒い鎖によって引きちぎられそうになる。悪霊は勝ち誇り、その姿を晒して娘を見たが。


 彼女は泣かなかった。ほんの一瞬、済まなそうな顔をしてヴィオレを見て――彼女としっかり視線を合わせてから、叫んだ。


「どうぞ、お好きなように! わたくしの魂はそのような脅しには、決して怯みませんので!」


『な、に』


 動揺は確かだった。リュクレールにも解るほどに。人質を取るような輩は、人質が役に立たなければすこぶる弱い、何故なら人質を取らなければ戦えないのだから――男爵様の言っていた通りだ、とリュクレールは思った。そして、それによって出来た隙を、彼女は見逃すほど鈍くもない。


「――はっ!」


 僅かな気合と共に、僅かに煌めく刃を構え、走る。狙うのは眼前に晒されたヴィオレの体――その首に巻き付いた鎖の端!


 ぎん、と僅かな金属の音がして、鎖の欠片が散った。


「――お嬢様ッ!」


『小癪な!』


 驚愕の声は二つ。体を解放されたヴィオレと、己の鎖が切り裂かれたことに気付いた悪霊の。


 今にも崩れ落ちそうなヴィオレの体を背中に庇い、リュクレールはすっくと立つ。その手に銀細工の剣を構えながら。


「脅しには怯みません。わたくしは決して、ヴィオレを見捨てることなど有り得ませんから!」


「お嬢様……!」


 未だ傷から血を流しながらも、ヴィオレは己の主に心底感じ入った視線を向け、感極まったように呟く。主に救われたこの魂、如何様にもお使いくださいとばかりに彼女の傍に控えた。少女は僅かに微笑み、しかし悲しそうに眉を下げてしまった。


「……ごめんなさい、ヴィオレ。これ以上は無理かもしれないけれど」


 目の前の鎖の塊はどんどん膨れ上がっていき、周りの霊達もほぼ輪郭を留めていない。あれが塔の屋上に落ちてくれば、間違いなく彼女は従者ごと引き裂かれ、存在を無くしてしまうだろう。


「そのようなこと、仰らないで下さいませ。ここまでお気を使って頂いただけで、望外の喜びですわ」


 しかし従者は全く怯まず、そっと主に寄り添う。ほんの一瞬、顔を見合わせて母娘のような主従は笑い、覚悟を決めた時。


『この――恩知らずガアアアアアッ!!!』


 怒りに任せ、鎖の束が嵐のように二人へ向かって襲い掛かった。咄嗟にヴィオレがリュクレールを庇うも、耐え切れず二人揃って弾き飛ばされる。ヴィオレの体はまた半分以上が吹き散らされ、リュクレールは――塔の屋上から放り出され、どうにか渡し板にしがみつく。


「お嬢様ッ!」


『この塔に捨てられ! 死ぬしかなかった貴様を! 今の今まで我が鎖で留め、慈悲で生かしてやったのは我だ! その借りを返すことも無く逆らうとは何と無様な!!』


「……感謝は、しております。ですがわたくしは、貴族です。この塔にいる数多の死者に、最期の安らぎすら与えず苦しませ続ける行為を、見過ごすわけには参りません……!」


『黙れ黙れ黙れ……!!』


 激昂が、巨大な腕に取って代わった。鎖で編み上げられた闇の鉤爪は、今度こそ彼女の体を容易く引き裂くだろう。


 リュクレールは恐怖を堪え、どうにか渡し板の上に立ち上がる。震える体で、細い剣へ縋るように構える。


 今度こそ、自分には死が与えられ、魂はこの男に粉々に引き裂かれてしまうとしても。


 負けるわけにはいかない。


(男爵様、もう一度だけ)


 生まれて初めて、持てた希望を捨てるわけにはいかないのだから――




「ちょおっと待ったあああああああっ!!!」


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