第9話 青い花瓶のこと

あたしには月に何回か、どうしても眠れないときがある。

ほどほどに家事や用事を済ませ、ほどほどに食事し、毎日毎日同じようなリズムで生きて。

何もしていないわけではないけれど、何かをしているわけでもない。

そんなモヤモヤが知らず知らずのうちに溜まってしまって、どうにも眠れなくなってしまっているのだろうと、自分で結論付けている。


そして、それが今日だった。

窓の外の暗がりを見るともなく見て、遠くの星の数を数える。

別にロマンチストだったりするわけではない。星に願いなんてかけたこともないし、命を星に例えたりするわけでもない。

ただ、目についたから数えただけ。

その対象が星だった、ただそれだけのことだ。


昔の人は、星と星を繋いで星座を作った。

いつだったか、星座の持つ物語をミハルにせがまれて読んだことがある。

ミハルはとても喜んで、星座のロマンに心を奪われていたみたいだったけれど、どれがどのように繋がってどんな星座を作っているのかあたしは知らないし、知ろうとも思わない。

目に入るから、見ているだけだから。


それでもここから見える星は美しく、青白く輝いている。

手を伸ばしても届くことない空の宝石は、あたしたちを見て何を思うのか。

このちっぽけな、見ていることしかできない存在を憐れむのだろうか。


静かな夜に、時間だけが過ぎていく。

いつまでも星を見ているわけにもいかず、思考を巡らす。

こんな風に、眠れないときは本当に何をしても眠れないので、眠ろうとする努力を早々に切り上げることにしているのだ。

いまだなんとなく星を見ながら、脳内をこの夜をどう過ごすか、という考えにシフトする。

ふと目をやったリビングが、いつになく乱れているような気がしたので、今日は、とりあえずリビングをひたすら片付けることにした。


リビングには清潔感のあるガラステーブルと茶色のソファーが置かれている。

ガラステーブルを拭きながら周りを見る。

横の小さな本棚の上には、見慣れない花瓶とささやかな花。

そこには、つい先日まではもう少し豪華な花瓶に、ミハルの摘んだ花がたっぷり生けられていたのに。


そういえば、この前ミハルが花瓶を倒して割ってしまったときに、悪態をつきながらコハクがキレイに片付けてくれたんだった。

「これだからバカはよー」

ぶつくさ言いながら、ものすごい手際のよさで割れた欠片を集め、水を拭き、散らばった花をとりあえずカゴに集め。

自分のやってしまったことにショックを受けていたミハルも、その手際にあっけにとられ、すっかり立ち直っていた。


そこからだろうか。

悪、というキャラクターのためかなんとなく怖がっていたコハクに対して、ミハルが心を開いたのは。

新しい花瓶は、ミハルがうれしそうに、嫌がるコハクを巻き込んで選んだ。


透き通る青。


柔らかな桃色の花びらが、その青に映えている。

まるでミハルとコハクのようだ、とあたしは思う。

「なんだかんだで、面倒見がいいんだよね」

ぽつりこぼす独り言。

そんなコハクがあたしは大切だけれど、ここでのコハクの存在意義として、これはきっとよくないことなのだろう。


そこまで考えて、ため息をひとつ。

少し前の、ギンガの姿を思い出す。

縛り付けられて、その体に電流を流されても、弱音ひとつ吐かなかったギンガ。

なぜあんなことになったのか、どれだけ聞いても教えてはくれなかったけれど、きっとギンガの中でどうしても認められないことがあったのだろう。


それはきっと、コハクも同じで。

口先ではひねくれたことを紡いでいても、その言動の端々から温かいものがこぼれてしまう。

与えられた「悪」という役割を全うするには、コハクは優しすぎるのだ。

だからきっと、コハクもギンガのように不当に傷つけられ、歪まされているのだろう。あたしの知らないところで。

時折コハクが、知らない傷を体のいたるところにつけていることがある。

この前のギンガの姿を見て、妙に納得してしまった。

これが、研究なのだ、と。

痛めつけられ、自分を捻じ曲げ、それこそが二人にとっての研究なんだ。


ああイヤだ。

大切な子たちが痛い思いをしているなんて。自分自身を偽らないといけないなんて。

そしてあたしはそれを、見ているだけしかできないなんて。


「何してんだよ」

不意に後ろから声をかけられた。

「…コハク?こんな夜中に何してるの?」

そこには今まさに思っていたコハクが立っていた。

「それはこっちのセリフだろ。オレは何となく目が覚めたから、水飲みに来ただけ」

ぶっきらぼうに答えながらも、あたしの手元を見ている。

「ババアがこんな夜中まで起きてたら、またシワが増えるぜ」

「別にいいの。いつもは寝てるしね」

答えるあたしからサッと雑巾を奪う。

「ほら、ここだけやったらさっさと寝ろ」

そう言って、また見事な手際でテーブルを拭き上げる。


まただ。

またコハクの優しさに触れてしまった。

ダメなのに。コハクは人に優しくしてはいけないのに。

それでも、その優しさをうれしく思ってしまうあたしがいて。

ああ、なぜこうなってしまったんだろう。

ままならない。

全てがままならない。


汚い言葉を吐きながら、丁寧に仕事を仕上げていくコハク。

それを喜んで、哀しんでいるあたし。

きっと、歪んでしまったんだろう。

この白い世界で、あたしもコハクも。

こんなに歪んでしまったあたしたちを、星だけが見ていた。

ただ見ているしかないあたしのように、静かに見ていた。

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