第5章 暗い魂の炎②

昼食を終えた後のテーブルの上に、エルザ師匠は一冊の分厚い本を置いた。とても古い物のように見えたが、保管状態が良かったのか、本の表紙には傷一つなかった。

「お前に本格的に戦闘技術を授ける前に、説明しておくことがある。」

厳かなエルザ師匠の表情に、私は思わず姿勢をただした。

本の上に手を置いたまま、エルザ師匠は私を真っ直ぐに見つめた。

「渡り烏、すなわち、魔女を殺す方法についてだ。」

そう言うと、エルザは手元の本のページをめくり始めた。

「この書籍は私の師だった魔女『沈黙のユーリア』の研究結果をまとめた資料だ。ユーリアは生涯に渡って、人間や魔女の魂(ソウル)について研究していた。その中で、ユーリアは魔女の殺しかたについて明確に記述している。」

そう言うと、本の中ほどにあるページを開いた。そこに表れたのは、何も書かれていない白紙だったが、エルザ師匠はまるで文字が見えているかのようにある文章を読み上げた。

「『神秘を担う者の本質はその魂(ソウル)にあり。その者を滅ぼさんとするならば、その者の本質を破壊せよ。』つまり、魔女を殺すには、魔女の魂(ソウル)を破壊しろということだ。」

言葉通りの意味ならば私にも理解できたが、それだけでは多くの疑問が残った。

エルザ師匠は説明を続けた。

「魔女の肉体は不老であるだけではなく、普通の人間に比べて再生速度が段違いに早い。その上、多くの魔女は己の肉体の修復や回復のための治癒魔法も操ることができる。それ以前に、魔女は魔法によって作り出す障壁で、物理的な攻撃から身を守ることが可能だ。防御力にすぐれ、かつ、回復能力が高く、さらに、魔法による遠距離攻撃が可能な魔女相手に、剣や槍などの単純な物理的攻撃手段で挑むのは、あまりにも不利だ。しかも、魔女が操る攻撃魔法は、種類によっては分厚い鉄の盾をも貫通することができる。力や数頼みでの戦闘では、普通の人間には魔女を殺すことはまず不可能だ。」

エルザ師匠の説明に、私は絶望的な気分を感じていたが、まだ疑問の数は減らなかった。

「でも、あの幽鬼(ファントム)たちは、魔女集会の皆さんを傷つけてました。ケリィさんも大怪我をしてたみたいだし、やつらはなにか特別なことをしたのでしょうか?」

私からの質問にエルザ師匠の表情がさらに険しくなった。

「問題はそこだ。あの幽鬼(ファントム)たちが所持していた武器は全て魔女の魂(ソウル)を直接傷つけることが可能な物質で作られたものだ。おそらく、"凶竜"の肉体に由来する物だろう。」

「"キョウリュウ"ってなんですか?」

耳慣れない単語に私は首をかしげた。その言葉は何度かエルザ師匠やアストラエアの口から聞いた気がしたが、今まで具体的な説明を受けたことはなかった。

エルザ師匠はユーリアの研究資料をめくると、別のページを開いた。そこはやはり白紙のページだったが、エルザ師匠がそっと息を吹き掛けると、たちまちびっしりと書かれた文章や、詳細に描かれた絵が立ち上がった。

「魔女が使用する、機密文書の内容を隠すための魔法だ。書いた本人が許可した相手にしか、ページの中身が浮かび上がることはない。」

そう言うと、エルザ師匠はある絵を指差した。そこには今までに見たことがない生き物が描かれていた。太く、たくましい胴体には隙間なく岩のような鱗が覆いつくし、大きく広げた翼と一体化した腕と、大地を掴む後ろ足には凶悪な爪が備わっていた。胴体から伸びる長い首の先にはズラリと並んだ牙をむき出しにした頭部が描かれており、その生物の目には、見るものを怯えさせる残忍な闇が潜んでいた。足元に描かれた人間の矮小さから、その怪物がとてつもなく巨大な身体を持つことがわかった。そして、最も印象的だったのが、その絵では、凶竜の身体全体から、暗い炎が吹き出しているように描かれていることだった。

私はその絵を見た瞬間、夜道で突然見知らぬ人間に見つめられるような恐怖に襲われた。と同時に、胸がざわつくような強い郷愁を感じた。凶竜がまとうその漆黒の闇にも見える炎の輪郭が、私にはとても生暖かく、甘い陶酔を感じるほどに官能的な姿に見えていた。

食い入るように凶竜の絵を見つめる私の頭上から、エルザ師匠の説明が続いた。

「この生物がいつ、どこで誕生したかは定かではない。だが、人間たちが文明と言える社会を形成していた頃には、こいつら凶竜たちがすでに存在していたと伝わっている。こいつらは…」

そう言うと、エルザ師匠はため息をつき、言葉を続けた。

「こいつらは、生命の源、すなわち、生物の"魂(ソウル)"を食らって生きていた。つまり、このおぞましい怪物は、人類にとって、天敵と言える存在だったのだ。当時の人間たちは凶竜に見つからぬように、暗い地底に身を隠し、夜の闇の中で地上に這い出ては、襲われる恐怖の中で食糧を調達するために駆け回っていた弱い生物だった。」

エルザ師匠はそう言うと、ページをめくり、また息を吹き掛けた。先程よりも大きな挿し絵には、全身の暗い炎をたぎらせながら、人間たちの魂を吸いだす凶竜たちの補食風景が劇的に描かれていた。

「凶竜たちが地上を闊歩する世界の中で、人類の存亡は風前の灯火だと思われていた。だが、その状況を一変させる出来事が、三千年前に起こった。」

さらに、ページをめくった先には、以前にエルザ師匠が説明してくれた、魔女の誕生に関する逸話の中で登場した、"原初の女神"が描かれていた。凶竜を凌ごうかという巨大な身体の女神が、両手の中で白く輝く炎を捧げ持ち、そこからこぼれ落ちる光の雨が、足元に膝まずく女たちの頭上に降り注いでいた。魔女の誕生儀式と言われている、"祝福"の風景だった。

「魔女として選ばれ、魔法と呼ばれる神秘の力を手にした百人の女たちは、人類の存亡をかけて、凶竜たちに戦いを挑んだのだ。」

私は魔女の誕生した瞬間の景色を想像して気持ちが高ぶった。

「じゃあ、最初の魔女たちが、凶竜たちを滅ぼして、人類を救ったのですね!」

「いいや」

エルザ師匠は無感情な声で否定すると、目を細めた。

「最初に誕生した、第一世代の"冠位の魔女"たちはいずれも強力な魔法を操ったそうだが、その多くは凶竜たちとの戦闘の中で命を落としたと言われている。序盤の戦いの中で生き残った魔女たちも、凶竜たち相手には常に苦戦を強いられたそうだ。」

思わぬ展開に、私は衝撃を受けた。

「どうしてですか?魔女はすごく強いはずじゃ…」

エルザ師匠はうなずいた。

「確かに、魔女は普通の人間と比較すれば比べ物にならないほど強力な存在だろう。たとえ相手が巨大な生き物だとしても、劣ることはなかったはずだ。だが単純に、凶竜に対して、魔法という攻撃手段が相性が悪かったのだ。」

ユーリアの資料のなかに、凶竜の肉体について詳細に解説した図解が現れた。見れば見るほど恐ろしいその姿は、精緻な線で緻密にスケッチされており、凶竜を構成する肉体の各部位について、小さな文字でびっしりと説明が書き込まれていた。

きれいな形のエルザ師匠の指先が文字の上を滑った。

「『凶竜のするどき爪や牙は、人間がつくる盾や鎧はおろか、魔女が作り出す魔法の障壁すらも切り裂いた。また、彼らの口腔から放たれる吐息はあらゆる物を焼き付くし、焼かれた生き物は骨の一片すら、この世に残さなかった。とりわけ、凶竜のもつ大きな特徴として、彼らの生存能力の高さが挙げられる。彼らが全身にまとう"鱗"は人間が製作した剣や槍、弓を通さず、魔女の魔法すら無効化した。鱗を貫通しない限り、凶竜に致命傷を与えることはかなわなかった。』この記述にある通り、凶竜の強さは魔女の力と比較しても異常なものだったらしい。記録によると、100年に渡る凶竜との激しい戦いの末、魔女と人間たちは辛くも勝利したが、人類の人口は今の時代の一割ほどに減少した。魔法を授けられた100人の魔女のうち、生き残ったのは29人だけだったと伝えられている。魔女集会の長『光のアストラエア』もその時の生き残りの一人だ。」

エルザ師匠は文字通り、歴史の教科書を読み上げるように淡々と説明した。

「先ほど言っていた、幽鬼(ファントム)たちの武器だが、おそらく、古い凶竜の遺骨、または爪を削り出して作り出されたものだろう。魔法を無効化する黒い霧の盾"王の黒い手"も、凶竜の鱗をすりつぶして空中に散布し、魔法に対する防御兵器として成立させた代物だ。あれらの特殊な武器は、かつて大規模な魔女殺しを実現した、古い時代の九人の人間の王、すなわち、"魔女狩りの公王"と呼ばれる者たちの墓に遺品として秘蔵されていたものに違いない。全くもって、渡り烏というやつは厄介な連中を復活させてくれたものだ。」

エルザ師匠はため息にまじりに長い説明を終えた。

私の頭は多くの情報を整理するために混乱していたが、結局最初の問題に行き着くしかなかった。

「じゃあ、渡り烏を殺すためには、まずは幽鬼(ファントム)たちを倒して、凶竜の武器を奪うということですか?」

エルザ師匠は私の目を見ながらうなずいた。

「それも手段の一つではある。いずれにせよ、渡り烏やミラルダ、幽鬼(ファントム)たちが、魔女の魂の保管庫の奪取が目的である以上、やつらとの戦闘は避けられないし、その戦いのために魔女殺しの武器は必要だ。だが、それよりも前に、お前には習得しなければいけない能力がある。」

そう言うと、エルザ師匠はさらにユーリアの資料をめくった。エルザ師匠が最後にたどり着いた頁には文章しか書かれていなかったが、彼女の表情は凶竜の話をするとき以上に険しいものになっていた。

「最初に私は、人間では魔女に敵わないと言った。それはおおむね正しいのだが、実のところ、人間にも魔法とは異なるある力が備わっている。人間たちの間では、すでに忘れ去られた力だが、その力は今も人間の魂の中に隠されており、訓練次第では、その能力を引き出すことが可能だ。そして、その力を存分に引き出すことができれば、おそらく、あの渡り烏相手にも戦いを挑むことができるようになるだろう。」

私は思わず唾を飲み込んだ。エルザがこれから明かす秘密は、とても恐ろしいものであり、それを聞いてしまえば、決して、後戻りはできないという確かな予感があった。

「人間の魂に秘匿されてきたある"古い力"。私の師だった魔女『沈黙のユーリア』は生涯にわたってそれを研究し、それが実在することを実証して見せた。そして、ラルフ、お前の魂の中にも、その力は強く、大きく根付いている。今日の訓練で、私はそれを確信した。」

私を見つめるエルザ師匠の瞳の青色が、今は氷のつららのように私の心のなかに深くえぐり混んできた。

「ユーリアはその力の源を"暗い魂"と呼んでいた。その力とはすなわち、人間を"不死化"する呪いのことだ。」

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