第5章 暗い魂の炎①

強い日射しを額に感じながら、私は夏草の匂いが混じった風を吸い込んだ。全身が熱く火照り、心臓の鼓動が体中を震わせていた。

「集中しろ。常に気を緩めるな。」

エルザ師匠の声に、私は模擬刀を握る手に力を込め直した。先ほど打たれた上腕の痛みを無視し、視界以外の五感を目一杯に開いて、私は次の攻撃に備えた。

空気を切り裂く音に気づいたときには、私は地面に顔を押し付けて空気を求めて喘いでいた。脇腹を押さえてしゃがみこむ私の頭上から、エルザ師匠は無感情な声を放った。

「だめだ、全く対応できていない。もう一度だ。」

私は歯を食いしばって立ち上がると、真っ暗な視界の中で、重い木製の模擬刀を構え直した。

視界を塞ぐ目隠しの布からは、染み込んだ私の汗と涙が滴り落ちていた。私はもう一度周囲の気配を探ることに全神経を注いだ。耳を掠める風の中に、彼女がいるはずの方向から、草がすれる音が混じった気がした。

「たぁっ!」

私は気合いの声と共に、エルザ師匠がいるはずの空間に向けて、模擬刀を突き出した。

空振りに終った感触を感じる前に、後頭部への衝撃と同時に目の前の暗闇に火花が散るのを私は見た。


「目隠しなんかして、師匠と戦うなんてできっこないです!」

ミラルダの襲撃があった魔女集会から帰宅した7日後の朝、エルザ師匠はついに私への戦闘訓練を開始した。私がエルザ師匠の元で暮らしはじめてから、ふた月ほどの時間が過ぎようとしていた。期待に胸を膨らませる私に、エルザ師匠が提示した訓練方法は、目隠しをして師匠と模擬刀で打ち合うという非常識きわまりないものだった。

エルザ師匠は弟子の不満など意に介さず、さっさと黒い布地を私の顔に巻きつけた。私の視界は、エルザの家が佇む緑鮮やかな草地から、夜の帳のような暗闇に変わった。

真っ直ぐに立っているかどうかも分からない感覚の中で、私は手の中に重い感触を感じた。

「模擬刀だ。木製だから、打たれて死ぬことはない。もっとも」

エルザ師匠の声が僅かに離れた気がした。

「かなり痛いがな。」

私が身構える隙もなく、エルザ師匠からの容赦のない根性棒が襲い掛かってきた。


五度ほど打ち込まれた私は、地面に顔を埋めたまま、立ち上がることができなかった。脇腹の痛みのあまり満足に呼吸ができず、全身が痺れて指先すら上げることができなかった。

「立て。もう一度だ。」

エルザ師匠の無機質な声が頭上から落ちてきた。

私は長い時間をかけて、模擬刀を杖がわりに、なんとか上体を起こした。私は目隠し越しにエルザ師匠がいるとおぼしき方向を睨み付けた。

はたから見れば、大の大人が子供を虐待しているようにしか見えなかったが、その時の私は師匠からの理不尽な仕打ちに対する怒りを感じることは無かった。いや、正確に言えば、痛みに対する恐怖のあまり、他のことを考える余裕が無かった。

暗闇の中で、エルザ師匠の声がぐるぐると私の周囲を回り始めた。

「お前の中に恐れを感じる。痛みに対する恐怖。暗闇の中に囚われている恐怖。そして…」

師匠の声が後方で止まった。

「己を害する未知の者への恐怖だ。お前はひどく恐れているな。渡り烏と戦うことを。」

私は膝を着いたまま、後方へと模擬刀を振り回した。

私の攻撃は空を切り、次の瞬間に脳天に雷が落ちたような衝撃を感じた。ずり落ちた目隠しの隙間から、私を見下ろすエルザ師匠の青い瞳を見返しながら、私の意識は真の暗闇に囚われた。


エルザ師匠の理不尽なしごきに、一時的に気絶した私だったが、ほどなくして意識が戻った。

「気がついたか。」

エルザ師匠は膝の上に乗った私の頭を覗き込みながら呟いた。

私は反射的に身を起こしたが、全身を走る痛みに低いうめき声をもらした。師匠に打たれた場所を見ると、どこもアザになっており、頭を打たれたせいか、脳が頭蓋骨の中でぐらぐらと揺れている感覚がした。

「ひどいです、師匠。この鍛練に何か意味はあるのですか?」

この二ヶ月間の生活で、私はすっかりエルザ師匠のことを信頼していたが、さすがにいきなりのこの仕打ちは納得できなかった。

エルザ師匠は背中を預けていた木陰の中で立ち上がった。

「もちろん、意味はある。だが、この鍛練がいかなる成果をもたらすかは、お前次第だ。」

そう言うと、また私の顔に布を巻きつけ、模擬刀を押し付けてきた。

「お前が相対するのは、お前自身の中にある暗闇だ。いかに鍛えられた肉体を持つ戦士でも、敵に立ち向かう強い意志を持たなければ、魔女という存在に打ち勝つことは到底できない。」

エルザ師匠の声の方向を追って、私は闇の中で身構えた。

「敵を倒すための強い意志を持つためには、まずは己の中にある恐怖を克服しなければならない。自分の中にある暗闇を見つめろ。故郷が焼かれた時の景色を思い出せ。渡り烏への復讐心が、恐怖を薄れさせ、やつに立ち向かう勇気を、お前に与えるのだ。」

最後の言葉が途切れると同時に、空気が揺れるのを感じた。私は直感のままに、模擬刀を虚空に打ち込んだ。模擬刀が打ち合う振動と、高い音が響いた。

私はすかさず、模擬刀が触れあった場所に打ち込んでいった。三度の打ち込みは全て空を切ったが、さらにその次の師匠からの攻撃を防ぐことに成功した。その時の感覚は、今までに感じたことがないものだった。目を閉じた時に、視界の中に花が開いては消える現象のときのように、曖昧な輪郭の影が私の周囲をゆらゆらと揺れていた。私はその幽霊のような影を追って、直感のままに打ち込み、また、向かってくる斬撃を防いだ。

やがて、十合ほど打ち合ったところで、私は膝を着いた。荒い息を吐いてうずくまる私の頭をクシャクシャと撫でる感触がした。

「その調子だ。今の感覚を忘れるな。」

エルザ師匠は私の頭から目隠しをはずすと、その日の訓練の終了を告げた。


「痛たたたたっ!!もっと優しくしてください!」

軟膏薬を推し当てられるだけで、あざになった箇所が熱くうずいた。エルザ師匠は眉ひとつ動かさずに、年季の入ったソファの上でうずくまる私に、負傷部位の処置を施していった。

「おおげさな声を出すんじゃない。この訓練は痛みに慣れることも目的としているんだ。この程度で騒いでいたのでは、これからの訓練では意識を保つことすら難しいぞ。」

冗談の色が一切感じられない師匠の脅し文句に、私は黙り込むしかなかった。

一通り塗り薬と包帯の処置を終えると、エルザ師匠は薬箱を片付けながら私に尋ねてきた。

「何が見えた?」

「なんのことですか?」

痛みにうずく腕を包帯の上からさすりながら、私は不機嫌に返した。

師匠は両手で私の顔を挟み込むと、食い入るように覗き込んできた。私の視界には深い水底のような師匠の青い瞳がいっぱいに広がった。

「暗闇の中で、何が見えたのかと聞いているんだ。今日の鍛練で、お前がいきなりあそこまで対応できるとは、正直私も予想していなかった。相手がいる方向をつかむだけならまだしも、攻撃を受けられるようになるまでは、私がユーリアから教えを受けたときも6日はかかったものだ。」

私は痛みと恐怖の中で、暗闇の中に浮かんでいた輪郭を思い出した。

「目隠しの裏で、白い影のようなものが動いてました。それがゆらゆら揺れたり、近付いてきたりしたから、それに向けて夢中で剣を振り回しただけです。」

私の説明に、エルザ師匠は低くうなった。

「すでに"魂(ソウル)の残影"が見えているとはな。お前の中の"暗い魂"は、すでに覚醒の兆しがあるということか…」

あごに手をあてて考え込むエルザ師匠に、私は先ほどと同じ質問することにした。

「目隠しをして師匠と戦うことに何か意味があるのですか?師匠が言う、"魂(ソウル)の残影"ってなんのことですか?」

エルザ師匠は私の質問には答えず厨房の方へと向かった。

「まずは昼食にしよう。説明はその後だ。」

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