第3章 遠雷①

まっすぐに伸びた街道の彼方は黒い雲が覆っていた。春の嵐の気配が忍び寄る暗い空の下を、私とエルザを乗せたアンナは魔女の家に向かってひた走っていた。

 帰りは行きとは異なり、特に危険にさらされることもない快調な旅路だった。だが、私は心中穏やかではなかった。

 渡り烏と呼ばれる者による村への襲撃、両親の死、エルザとの邂逅、そして魔女集会への参加と、立て続けに異常な事態に巻き込まれ、私の感覚は疲労しきっていた。だが、これからの自分の生活について考え始めると、私の心はひどく不安に駆られた。エルザは私を人里に返すと言った。では、私を引き取る先はどのようなところなのか、里親はどのような人物なのか。エルザから情報を与えられていなかったこともあり、その先には見えない未来像ばかりがあったが、そういった心配とは別に、頭の隅から、ある別の考えが浮き上がり始めていた。それは燻ぶった薪の残り火が放つ熱のように、ゆっくりと、しかし確実に私の心を侵しつつあった。

 昼過ぎの時間ではあったが日は陰り、空は黒く染まっていった。腹の底を揺らすように、重い雷の音が遠い空から伝わってきた。

「これは一雨来るな。雨宿りをする場所も近くにはない。このまま家まで突っ走るぞ。」

 エルザはそう呟いてアンナに鞭を入れた。


 私たちがエルザの家に着いた時には、天気は完全に土砂降りの状態になっていた。私とエルザは濡れネズミ状態になりながら、家の中へと転がり込んだ。火傷に巻かれた包帯に雨が染み込み、ズキズキと疼いていた。

 エルザはずぶ濡れのマントと帽子を脱ぐと、すぐさま暖炉に火を入れた。

 エルザは玄関口で私の服を脱がせると、洋服棚から乾いたタオルを取り出して、私の頭にかけた。

「まずは身体を拭け。風邪をひくぞ。」

 そういいながら、エルザは泥がついたブーツと脚絆を脱ぎ捨てると、革の腰ベルトを外し、雨で濡れて身体にぴったりと張り付いた黒の上着とズボンを脱ぎ始めた。私は回れ右をして、しばらく玄関脇の帽子掛けをにらみながら自分の体を拭くことに集中した。

 着替えを終えたエルザは私を自分の方に向き直らせると、私の体から濡れた包帯を引きはがし始めた。

「やはり子供は傷の治りが早いな。すでに生傷がふさがり始めている。」

 傷口を消毒しながら、エルザがつぶやいた。包帯を交換してもらっている間、私は作業に集中するエルザに質問した。

「僕を、どこに返してくれるのですか。」

 エルザは作業を続けながら、回答した。

「王都に私の知り合いの老夫婦がいる。夫の方は王立大学の教授を務めている人間だ。二人とも子宝に恵まれない身だったから、私が話せば坊やのことは快く引き取ってくれるだろう。」

 最後の包帯を巻き終えると、エルザは立ち上がって私の髪をクシャクシャとなでた。

「心配するな、ラルフ。二人とも立派な人格を持った信用できる人たちだ。彼らの元でなら、生活に不自由することはない。」

 エルザの言葉を聞いて、幾分か安心したのが正直な気持ちだった。だが、私の中にはすでにもう一つの選択肢が形となっていた。

「この家に、いてはいけませんか。」

 厨房へと向かいかけていたエルザの動きがピタリと止まった。魔女は思案するように宙を見上げたが、やがて向き直り、まっすぐにその青い瞳で私を見下ろした。

「だめだ。お前をこの家に置いておくわけにはいかない。傷が癒えたら、お前を王都に連れていく。」

 そういってまた厨房の方へと向き直った。

 エルザから拒否されることは予想できていた。だが、私にはどうしてもエルザの、魔女の元に置いてもらう必要があった。

「僕に…魔法を教えてください。」

 厨房へと続く扉の取っ手を握ったまま、エルザはまた動きを停めた。今度はこちらに向き直ることもなく、感情のこもっていない口調で返答をよこした。

「だめだ。そもそも、なぜ魔法など習いたいと思うんだ。」

 私は息を吸うと、心に巣くった黒い感情をあらわにした。

「渡り烏を殺すためです。僕の故郷と、両親の仇であるあいつを…殺すために…」

 その先は言葉が続かず、私は奥歯をかみしめた。頭の奥でぎしぎしと何かが軋む音が聞こえた。エルザがどのような引き取り先を用意してくれるにせよ、私は初めからこの選択をするつもりだった。

 エルザは沈黙したままだった。

 私はエルザの背中をにらみつけながら、彼女からの返事をただ待った。

 暖炉の炎がくすぶり、薪が折れる音が響くまで、長い静かな時間があった。

「だめだ。お前に魔法を教えることはできない。そもそも…」

 微かに振り返った彼女の顔に浮かんでいたのは、怒りでも、戸惑いでもなく、憐みだった。

「人間の男子に、魔法は使えない。いくら必死に学んだところでな。」

 そういうと、厨房の扉を開けて中へと消えていった。


 厨房からの調理の音を聞きながら、私は年季の入ったソファに身を沈めて考えこんでいた。

 エルザからは拒否の返事が来ることは想定通りだったが、私はあくまで食い下がるつもりだった。だが、『人間の男子には魔法が使えない』とはどういうことなのか。その結論については結局エルザに確認するしかなかった。私は暖炉の中で燃え盛る炎を見つめながら、渡り烏に対する報復心は微塵も揺るがないことを確信していた。

 あの時抱いていた黒い塊のような感情は、正直今となってははっきりとは思い出せない。だが、私は魔女集会からエルザの家に帰りついたその日に、若干四歳にして、今後の人生を決定づける決断を下したことはよく覚えていた。


 夕食は旅の途中でもエルザが作っていた、鳥の燻製と野菜の牛骨煮込みスープに、黒麦パンだった。自宅の厨房で作られた方は乾燥したものではなく生野菜が使われており、出汁の染み込んだ野菜の甘みが旅の疲れを忘れさせてくれるようだった。

 食事の間、エルザと私は一言も交わさなかった。エルザの表情からは明らかに話しかけるなという意志が汲み取れたのもあったが、それ以上に、何かを思い詰めて疲れているように見えた。

 食後の片づけを終えると、エルザは私に食卓に座って待っているように言いつけた。彼女は本で埋め尽くされた、青い扉の部屋から、一冊の古びた書籍を持ち出してきた。

 エルザは本を机の上に置き、椅子に座ってじっと瞑想するように目を閉じていたが、やがて青い瞳を開けて私をまっすぐに見た。

「ラルフ・ラングレン。お前が渡り烏に対して復讐心を抱く気持ちはよく分かる。私自身、遠い昔に経験のあることだ。」

 エルザの口調は静かで淡々としたものだった。

「だが、やつを倒すために、魔法の力を頼みとするならそれは諦めろ。なぜなら、人間の男子に魔法は使えないからだ。」

「どうしてですか。」

 子供特有の無遠慮さで、私はすぐさま聞き返した。エルザの落ち着きようと、先ほどと同じ言葉を繰り返す彼女にわずかながら苛立ちを感じていた。

 エルザはゆっくりとした口調で、魔法と、そして魔女に関する事実を説明し始めた。

「私たちは『魔法が使える』から『魔女』になったわけではない。私たちは『魔女』になったから、『魔法が使える』のだ。」

 理解ができないという私の表情を読み取ったのか、エルザは書庫から持ち出した本を広げると、その中に描かれた一枚の挿絵を示した。

 そこに描かれていたのは、一種の儀式のような絵だった。頭に冠を戴き、豊かな長髪をなびかせ、美しい造形の甲冑を着込んだ王女のような風貌の巨人が、足元で首を垂れる何人かの女の頭上に手をかざしていた。その手からはまっすぐ放射状に線が広がり、女達に光を浴びせているような描写に見て取れた。

「この巨人として描かれているのは『原初の女神』と呼ばれる存在だ。彼女は外の世界から私たちが住む地上に降り立ち、人間の女達に祝福と言う名の力を分け与えた。神の力を分け与えられた女達は、この世ならざる神秘の術を行使することができるようになり、地上に生きる人間たちの繁栄を大いに助けたらしい。これがこの世における魔女の誕生と言われている出来事だ。今から三千年前のことだと伝えられている。」

 私は挿絵の中で祝福を受ける女たちの横顔を眺めた。そのうちの一人は、どことなく魔女集会の長である『光のアストラエア』に似ているような気がした。驚きで放心している私にかまわず、エルザは頁を繰って別の挿絵を見せた。

 今度の絵も似たような構図のものだったが、祝福を与えているのは普通の大きさの女であり、与えられる側の女性は今度は一人きりだった。祝福を与える側も、与えられる側も見た目は若い女性で、その表情には穏やかな喜びが浮かんでいるように見えた。

「原初の女神から与えられる『魔女の力』は、女から女に受け継ぐことで継承できる。魔女になった女はその力を他の女に引き継ぐまで、神秘の力を行使できるほか、決してその肉体は年を取らなくなる。また、普通の人間のように、一度覚えた知識を忘れるということが無い。私たちはこの地上において、神の力を振るう代行者であり、ひたすら知識を集積する賢者でもあるのだ。」

 説明の最後の言葉はどこか自嘲的な響きがした。

「人間の男子には魔女の力を引き継ぐことができない。なぜなら、『原初の女神』が与えた祝福は女のためのものだからだ。だが、力を求める古代の男の王たちは、その事実を無視して、かつて大規模な『魔女狩り』を行った。捕らえられた魔女たちは力の源を調べるための実験台とされ、怪しげな薬で洗脳され、切り刻まれ、無理矢理に子をはらまされ、無残に打ち捨てられてきた。魔女の中には嘆きと怒りから来る報復心で男たちを虐殺し、女だけの国を作るなどという者もあらわれたくらいだ。」

 そこまで言って、エルザは深いため息をついた。

「…だが、それらは遠い過去の出来事だ。魔女狩りも、魔女による報復戦争も時が経てば治まり、忘却されていった。生き残った魔女たちは、こうして人目に触れないように隠遁生活をしながら、それでも人の世のために働いているというわけだ。」

 私は本に目を落としたまま、顔を上げることができなかった。学んだところで、自分には魔法が使えないということは分かった。その事実も私の心を打ちのめすには十分だったが、エルザから聞いた魔女の生い立ちの痛ましさに、私は言葉を失っていた。

 視線を落としたままの私にエルザが言葉を注いできた。

「渡り烏は魔女だ。あの凶行を見るに、やつは人間の手には負えない。もしかしたら、同じ魔女の力をもってしても破りがたい相手かもしれない。自分の家族を殺した者への憎しみはあるだろうが、お前までもが死に急ぐことはないはずだ。あの地獄の夜を忘れろとは言わない。だが、これからは新しい自分の未来を紡いでいくことを第一に考えるべきだ。」

 私の目から大粒の涙が零れ落ちて、本の挿絵に大きな染みを作った。私はうつむき、拳を握りしめ、奥歯をかみしめながら、胸の内の憎悪があふれだすのを必死にこらえた。

 エルザが一度席を離れる気配がしたが、しばらく経つと、目の前にお茶の入ったカップが置かれていた。

 私は震える両手でカップを持ち上げると、そっと熱いお茶に口をつけた。食事の時に出されていたものよりも香りが強く、それでいて腹の中から全身が温められるような感覚がした。顔を上げると、涙で滲んだ視界にエルザの青い瞳が浮かんでいた。

 彼女はまっすぐに背筋を伸ばし、その眼に強い光を宿らせていた。

「渡り烏は、必ず私が仕留める。お前は私を信じて、王都で知らせを待っていてほしい。」

 私は頷くことも、首を横に振ることもできず、ただエルザの目の中の光を見つめ返すだけだった。


 翌朝、ソファの上で目覚めた私の頭の中は霞がかかったように考えがまとまらなかった。

 昨夜はひとしきりエルザに説得された後、泣き疲れてソファの上で眠ってしまったらしい。私はのろのろと被っていた毛布を引きはがすと、顔を洗うために外に出た。井戸から汲み上げた冷たい水に顔を晒すと、少しばかり気持ちがすっきりとした。だが、心の中の暗雲が完全に晴れたわけではなく、私はエルザの家の前に広がる丘陵地帯に目をやった。

 自分には魔法が使えない。そうなれば、自分のような子供では渡り烏に対抗できる力など無いことは分かっていた。だが、自分の両親を殺した存在が今もこの世界のどこかで息をひそめているかと思うと、胃が煮えくり返りそうな思いがした。そのまま草地に寝転んで空を見上げていると、家の裏から、鋭く空気を切り裂く音が鳴り始めた。

 エルザの毎朝の日課である剣舞が始まったのだろう。私はその音を聞きながら、瞼の裏にエルザの動きを思い浮かべた。輝く白銀の剣と、朝日の中で閃く長い銀髪。鳥の羽ばたきのように滑らかで力強い四肢の躍動。それらを思い浮かべると、胸が熱くなった。

「綺麗だな…」

 我知らずつぶやいて、一人で赤面していた。誰に聴かせたわけでもないが、なぜかその気持ちは自分の中だけの秘密にしておきたかった。私は立ち上がると、音をたてないようにそっと家の裏庭に回り、初めてエルザの演武を見たときと同じように、家屋の陰から目だけをのぞかせた。

 エルザの動きを目に収めたとき、自然とため息が漏れ出た。ただ迫力のあるだけの舞に対しては、このような感情は抱かないのだろう。エルザの舞はただ型が美しいだけではなく、彼女自身の内面の強さを表しているように感じた。

 ふと、エルザが舞っている場所の手前に、棒切れが一本落ちているのを見つけた。私は直感に任せるままに物陰から体を現すと、その棒切れを拾い上げた。

 突然物陰から私が現れたことにエルザは驚いたようだが、何も言わずにすぐに剣舞を再開した。

 私は少しばかり空気を吐くと、棒切れを振り回し始めた。私はエルザの動きを目で追い、懸命にその動きを真似ようとした。まさに児戯とはこのことだったが、当の本人にしてみれば真剣そのものだった。

 エルザは私の行動にさらに驚いたようだが、今度も何も言わず、ただ舞に集中していた。

 子供のやることとはいえ、今から思い出しても恥ずかしくなるものだった。数年後に、二人の思い出話の中で、エルザからも茶化されたほどだった。だが、彼女はきちんとこの時の私の心情を理解していたようでもあった。

 エルザの剣技を真似る当時の幼い私の頭の中に明確な考えがあったわけではない、だが、少なくとも、渡り烏と戦う手段として、はっきりとした答えを体現しようとしていたのは確かだった。

 火傷跡がひきつるように痛んだが、私はその痛みを無視して夢中で体を動かした。やがて、横一閃の最後の型を終え、エルザと私はお互いにお辞儀をした。顔を上げると、エルザがじっと私を見つめていた。エルザは膝を落として同じ目線の高さにすると、私の右肩に触れた。

「アストラエアの言う通りだな。お前の中に、炎が見える。かつて私が宿していた、暗い魂の炎が…」

 一瞬だけエルザは目を伏せたが、すぐに顔を上げた。

「渡り烏を殺したいか?」

 私は強く頷いた。

「そのために、お前の持つ全てを懸けられるか?」

 私はもう一度強く首を縦に振った。迷いなど、あるはずがなかった。

「ならば、私にお前の人生を差し出せ。引き換えに、家族の仇を討つという望みを遂げるための力を授けてやる。」

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