28 ミニトマトの仕立て【尾倉香菜】

「ちょっと越川センセ! もう大丈夫なの!?」


 穏やかな笑みを浮かべながら立ち上がる越川があまりに平静すぎて、声をかけた那須田が怪訝な顔をした。


 自分にダンゴムシが憑依したという事実、そして忘れられない元婚約者 “瞳子とうこ” の名を聞いたことでショックのあまり意識を失っていたはずなのに、那須田の問いかけに越川は笑みを崩さずに答える。


「僕がどうかしましたか? さ、トマティーヌさんと一緒に落花生の種まきをしましょう!」


 ダンゴロウの憑依から解放された時に、越川も落花生の種まきがすんでいることを知ったはずだが、自身が倒れたことも含めて、まるっと記憶が抜け落ちているようだ。


 抜け落ちているというよりも、精神的なダメージを回避するため、越川の心がそれらの記憶を深層心理に閉じ込めてしまったのかもしれない。

 瞳子への思いを心の底に閉じ込めたときのように――――


 そう推察した香菜は、越川の傷にそれ以上触れないように気遣いつつ、改めて現状を報告することにした。


「落花生の種まきはトマティーヌと一緒にすませました。それに、トマティーヌの憑依は解けて、もう根木君に戻ってるんですよ。トマティーヌからは、ミニトマトの脇芽摘みをお願いしたいと聞いてます」


「ああ、そうでしたか。いつの間にか日も傾き始めてることですし、早速ミニトマトの脇芽摘みをしましょうか」


 落花生の種まきが終わっていることも、作業開始からそれなりの時間が経過していることも、特に不審に思わない越川を見て、那須田が呟いた。


「越川センセには、自分を精神的に追い詰めた出来事を “なかったことにする” スキルが備わってるみたいね」


「私もそんな気がします。ダンゴロウや瞳子さんのことは、これ以上触れない方がいいですよね、きっと」


 那須田の分析に深く頷く香菜。

 そこへトマティーヌに憑依されていた根木が問いかける。


「俺が憑依されてる間に、越川さんに何かあったの?」


 今回憑依された人間のうち、常時メガネに憑かれていた香菜を除いては根木が一番早く憑依された。

 さらには越川や苺子の方が先に憑依が解けたため、結局根木は事の顛末をまったく見ていないことになる。


「うん……色々とね。越川さんには聞かれない方が良さそうだし、話せば長くなるから詳しいことは帰りの車で話すわね」


 苦笑いを浮かべながらも、やんわりとそう答える香菜。

 メガネをしていない時の応答や表情は、やはりいつもの彼女と明らかに雰囲気が違う。


(やっぱりメガネをしてない時の尾倉さんって可愛いよな……)


 その理由がわからないまましげしげと彼女を観察する根木に、マイペースに遊んでいた苺子が腕を絡ませてきた。


「よかったぁー! 根木さんも元に戻ったんですねぇ! トマティーヌになってる間はすぐに怒られるから、あたし怖くってぇ……」


「あら、今日のアンタは “誰かさん” が取り憑いたおかげで、随分まじめに作業してたわよ。アンタに限っては、いっそ憑依されたままでいる方がトマティーヌにも感謝されるんじゃないかしら」


「那須田さんひどぉい! ところで、あたしに憑依してたのって誰なんですかぁ? すっごく気になりますぅー」


「んもぅ、アンタが絡んでくるとさらに面倒くさくなるからイヤなのよ! 後で 尾倉チャンにでも聞くといいわ」


 あからさまに苺子を邪険にする那須田だが、今の一言に今度は根木が食い下がる。


「憑き物が取れた……って、尾倉さんも憑依されたってことですか!? 一体何者に?」


「だーかーらーそういうの全部ひっくるめて説明するのがめんどくさいんだってば! 百聞は一見にしかずなんだから、とにかく根木チャンは持ってるそのメガネを尾倉チャンに返さないで持ってること!」


「ええ~……。メガネがないと、私不安なんですけど……」


「トマティーヌの分析を検証するために、アタシ達は素のアンタをよーく観察しておく必要があるのよ」


 心細さを訴える香菜にそう言い放つと、那須田はさっさと越川の後に続く。

 苺子に腕を絡め取られたままの根木だったが、やんわりとそれを外すと代わりに香菜の手を取った。


「何が何だかわからないけど、とりあえず作業を終わらせるのが先だ。こうすれば何とか歩けそう?」


「あ……ありがと。畑は凸凹が多いから助かるわ」


「ええ~っ!? だったらあたしも手を引いて連れてってくださいよぉ!」


「野田さんは今の今まで危なげなく走り回ってただろ? それに三人並んで歩けるほど通路は広くないんだから」


 やはり、メガネをしていない尾倉香菜は可愛い。

 その確信が鼓動をさらに早める中、根木は足元のおぼつかない香菜の手を引いてミニトマトの畝へと向かった。


 ***


 三人の憑依で大地のパワーもさすがに消耗したのか、トマティーヌの株の周りに集まっても、再び憑依される者はいなかった。


 葉先が膝に届くほどの高さまで成長した株の横にしゃがんだ越川が “トマトの脇芽摘み” について説明を始めた。


「トマトは、一番花が結実した頃から、いわゆる “脇芽” が伸び始めます。脇芽というのは、主茎から伸びる葉の付け根から出てくる芽のことですね。トマトは生育旺盛な野菜ですから、放っておくとこの脇芽が節々に出てきてどんどん伸びてきます」


 越川が指を指した箇所を四人が覗き込んだ。

 なるほど、結実した一番花房のすぐ下、主茎からほぼ直角に伸びる葉柄の付け根に、斜め四十五度の向きに小さな葉を広げ始めた芽が出ている。


「どうして脇芽を摘む必要があるんですか?」


 裸眼でも勉強熱心さは変わりのない香菜が尋ねると、越川がそれに答える。


「脇芽は主茎と同じように、伸びてくると花房をつけて実を結びます。本来のトマトの育ち方、つまりアンデスの高地のような環境で地這いで育てるのならば脇芽は放任でいいのかもしれません。ですが、ここは高温多湿の夏を迎える日本です。トマトにとってはそれなりに過酷な環境で美味しい実を結ばせるためには、脇芽を伸ばすことで余計な体力を消耗させるべきではないという理屈です」


「せっかく実ができるんなら、少しくらい脇芽を残しといても収穫量が上がって良さそうなものよね」


 すっかり平常心の越川は、那須田のそんな呟きもスルーすることなくきちんとフォローする。


「確かにそういう育て方もあるんですよ。大玉トマトに比べてミニトマトは生育旺盛で着果負担も少ないので、近年は第一花房近くから伸びる脇芽を残して二本仕立てや三本仕立てにするという栽培法も広がっています。さらには、ソバージュ栽培と呼ばれる、ほぼ放任で脇芽を伸ばす栽培法も一部では広まりつつあるんですよ」


「それじゃあ脇芽を摘まない方が、沢山実ができるし、手間も省けていいことづくめなんじゃない?」


「脇芽を摘まないことで楽に沢山収穫できるようになるかと言うと、そう簡単な話でもないんですよ。枝が増えれば、誘引などの管理の手間がその分増えますし、摘むべき脇芽も見落としがちになります。週に一度の管理ペース、しかも初心者の皆さんの場合、やはり初年度は一本仕立てで育てるのがベターかと思います。後は樹勢を見ながら、強すぎるようであれば適宜脇芽を伸ばして調整していくことにしましょう」


 種をまき、苗を植えれば後は自然任せで野菜が育つと思っていた四人だが、少なくともトマトに関してはそう簡単にはいかないらしい。


 改めてそう感じた三人(苺子を除く)は、越川の講義の続きにいっそう真剣に耳を傾けた。

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やさい畑で憑かまえて♡ ~憑依される男女による菜園ライフのススメ~ 侘助ヒマリ @ohisamatohimawari

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