武芸者




 地上で見る人魚は、意外にも愛らしい姿をしていた。

 華奢で小柄、身体に張り付いた長い黒髪が上半身の白い肌色を引き立てているようだった。上半身だけを見れば、所々に鱗のようなものが垣間見える以外は、成人前の少女と何ら変わらない。つんと上向いたささやかな乳房も愛らしく、ニィルの視線を釘付けにしたほどには。

「あの……」

 声はなるほど涼やかながら蠱惑的であり、水中で聞いたものと同じであると判別可能だった。

「あの、何か羽織るものが……あれば……」

「っは! ああ、そ、そうだな! 待ってろっ」

 我に返ったニィルは、慌てて荷物へと駆け寄ってマジックバッグから人魚が羽織れそうなものを取り出して、手渡した。

「その、貴方も……」

 サイズが合わないニィルのシャツを羽織った人魚は、恥ずかしそうに頬を赤らめてうつむき、青緑色の尾びれをビチビチと動かす。

「お、おう」

 指摘されて初めて自分が股間剥き出しで人魚と向き合っていたことに気付き、傍から見た構図のヤバさを想像して慄いた。脱ぎ散らかしてあった服を手早く搔き集めて身に付ける。

 そしてお互いに人間としての尊厳を取り戻したところで、あらためて向き合う。

 齢六十は過ぎているだろうフジタの娘というには、人魚は若い……というよりは、幼かった。まだ成人もしていないような年頃に見える。

 金と地位を持ち合わせた壮年期男性が若い嫁に子を産ませるのはありがちと言えばありがちな話だったが、フジタはそのようなタイプには見えなかっただけに違和感が先立った。

 失踪して二十年……二十歳を過ぎているようには到底見えない。

「あんたは、フジタ氏の娘のモーモさんで間違いないのか?」

「うん、そう……だよ。父様が……私に?」

「ああ、フジタ氏の依頼だ」

「そうなんだ……」

 腑に落ちないといった様子で、人魚は首を傾げる。

 ニィルは、マジックバッグを引き寄せると中を漁って携帯コンロと茶器セットを取り出し、携帯コンロに点火して湯を沸かし始める。

「すごい……急須もあるのね……」

「まぁ、茶に誘ったのはオレだしな」

 湯が沸くと急須に茶葉と湯を注ぎ入れ、茶が侵出するのを待つ。時間を見計らって少量ずつ交互に二つの茶碗に注いで、最後の一滴までしっかり注ぎ切った。

「ほらよ。飲めよ。オレは、わりと茶を入れるのが上手いんだぜ」

「ありがとう……ん、ホントだ。変わった味だけど、美味しい」

「そりゃ良かった」

 ニィルは破顔する。

 茶は、ニィルに許された唯一の趣味だ。

 依頼仕事などでモザイク・シティを取り囲む森林地帯へ足を向けた際に、目ぼしい植物を採取して持ち帰り、住処の一画で乾燥させて茶葉にして飲むのだ。多くの茶葉を確保できた場合には余剰分を雑貨屋に売ることや、わずかながら栄養補給にもなり、ニィルの生命線を担っていると言って過言ではない。

「貴方は、誰?」

「オレは、潜水者 ダイバーのニィルだ」

「……潜るの?」

「ああ」

 ニィルは自分用に入れた茶を飲み、ほっと息を吐く。

「どうして、父様が私を……」

「心当たりはないのか」

「うん、ない……かな? 貴方は……潜る、だけ……?」

「だけってか、まぁそうだけどよ。息を止めてる間のオレは無敵なんだぜ。だからレッド・シーにも潜ってただろう」

「無敵……じゃ、あ」

 それまで穏やかだったモーモの表情が急に強張る。

 恐怖に引きつった顔をして、周囲を見回す。ひくりと、息を飲む。

「何だ? どうかしたのかよ?」

「と、父様は、どこ……?」

「どこって、そんなもん」

 知るか、と言いかけたニィルはしかし、最後まで言うことができなかった。

「危ない……!」

 人魚の尾びれが反り返り、ニィルの背中を庇った。

 キン、と音がして、人魚の尾びれの先と周囲に散らばっていた物品が切り飛ばされる。

「わ、わっ、えっ?」

 ニィルは、慌てて人魚を抱えて飛び退り、背後を振り返った。

 そして、ニィルは襲撃者の姿を確認した。

 フジタだ。

 そこには、大太刀を上段に構えたフジタがいた。

「ぬぅう。しくじったか。人魚風情ならば簡単に斬れるかと思うておったが、斬り損ねるとな」

「父様……」

「正気か、あんた! 実の娘を切る気かよ!!」

「娘? わしはそのような者は、知らん」

「……父様……」

 ニィルの腕の中で、モーモが泣きそうな顔をする。

「娘なんだろう! 老い先短いからって、オレに依頼したんじゃなかったのかよっ」

「わしの娘だったモーモは、二十年前に死んだのだ。わしがこの手で斬り殺してな……ふんぬぅ!!」

 引き付けるようにして上段に構えられた刀身が、ニィルの脳天目掛けて振り下ろされる。

 達人フジタの動きに対応できるわけがないと踏んだニィルは咄嗟に息を止め、左手で頭を庇って衝撃に備えた。

 果たして――フジタが振り下ろした刃はニィルの白銀の毛並みの上をすべるように 移動し、火花を散らして地面へと突き刺さった。

「なんと! 見事見事、これは見事なことよ! このわしの刃をこうも容易く受け止めるか! なるほど、貴様の毛並みは絶対防御である!!」

 目を見開いたフジタが、興奮した様子で狂喜の声を張り上げる。

「ふざけんな!! そのなまくらは娘の尾びれも碌に切れてなかったじゃねえか!! それより、モーモを切ったってどういうことだよ!! 内臓系がどうのってのも嘘なのかよ!」

「ふん、弱き者などわしの娘には非ず。まさにこの場で斬り捨てたならば、海に沈み行き魚と混じり合うて歳も取らぬ化け物と成り果ておったまでよ。餌と獲物が気を引き合うてくれれば僥倖と貴様に依頼をしてみたものであったが、こうも上手くいくとは思わなんだわ。これでわしに斬れぬものはないと証明することができる。感謝するぞ。そこの化け物も……貴様もなあぁぁ!!」

 闘気を纏った荒ぶる剣先が、ニィルとモーモを強襲した。

 達人級の武芸者の連撃に対応できるほどに、ニィルは強くない。ニィルはただ腕に小柄な人魚を抱えて息を止めることを繰り返し、できる限りの範囲で斬撃を避けながら嵐が過ぎ去るのを待つだけだ。

 フジタの刀身は、長く鋭い。

 大まかには避けられたとしても、すべてを躱しきることは不可能だった。

 やむなく身体で受け止めた全身の打撲が、燃え上がるように痛んだ。

 白銀の毛並みに守られたニィルの肉体が傷付くことはなかったが、衣服や持ち物は忽ちのうちに切り刻まれていった。

「ぬぅうう! なぜだ、なぜ斬れぬ! なぜこの達人たるわしに斬れぬのだ!!」

「はぁ、はぁ、ふっ」

 ニィルは、フジタの動きを観察しながらタイミングを見計らって息を止めるだけで精一杯だ。

 目まぐるしく状況が交錯し、ニィルの体質が変化する。

 相手は長年修行を積んだ武芸者だ。しかも、フジタの自分語りが真実ならば、相手は剣の腕前だけで国一つを守りきった英雄様である。

 クソ雑魚ニィルがどうこうできるような人物では到底あり得ない。

 絶対防御の毛並みがある限り、簡単に死ぬようなことはないだろう。だが同時に、潜水者 ダイバーでしかないニィルには攻撃手段がない。

 ニィルの心に焦りが生まれた。

 下手なタイミングで息をしたならば、間違いなく死ぬ。

 だが、ニィルとて辛うじて人間の範疇に踏み止まった生き物だ。人間は、脆い。

 死ぬときは死ぬし、息をしなくても――できなくても、死ぬ。

 このままでは拙いかもしれない、そう思った時だった。

 アオォォウォン!

 特徴的なひと吠えをいたしてフジタの後頭部を蹴り倒して死闘へと分け入ったるは、なんと黒狼のボス様である。

 全身を愛用のアーマード・マッスル・スーツの黄橙色に煌めかせて、颯爽とご登場あそばしたのはさすがである。

 ニィルは、この時に生まれて初めて黒狼を魂の底から褒め称えた。そして、その勢いのままに叫ぶ。

「でかしたクソ犬!!」

 ウウ、ウォン! ウォン!

 黒狼が吠えた。

「退けいっ、犬畜生ごときがわしの邪魔をするな……!」

 フジタは、今度は黒狼に向かって切り付ける。

 だが、黒狼が身に付けているのは、最新型アーマード・マッスル・スーツである。値は張るがそれだけに性能は確かであり、ここでもまたフジタの刃はアーマード・マッスル・スーツに弾かれてしまう。

 どうやら、フジタの課題は山積みなようだった。

 ニィルや人魚だけでなく、高価であるとはいえ量産されているアーマード・マッスル・スーツにまで歯が立たぬその心境は、如何ほどのものであるのか。

 とりあえずニィルは、身の安全が確保されたとたんに勢い付いた。

「さっきから聞いてりゃこの差別主義の偏見ジジイが!! オレはモーモをあんたに引き合わせて依頼を達成したんだから、報酬を寄こしやがれ!!」

「ええい、小賢しいわ! そんなもの、斬り捨ててしまえばかんけ……は、か……」

 フジタは、唐突に動きを止めた。

 それはあまりにも突然であり、不自然であった。

 フジタの両手から大太刀が滑り落ちて、地面に突き刺さる。

 何の前触れもなく突然物言わぬ彫像と化したフジタは、目と口を開いた間抜けな顔を曝したまま動かなくなった。

「は、え? どういうことだよ。何だこりゃ。おい、フジタ氏? おーい……」

「……父様……?」

 ニィルの腕の中から抜け出したモーモが、ビチビチと這って移動する。たどり着いた父親の足にしがみ付いて、動きを止めた身体を揺らす。

 硬直しているらしいフジタの身体は、奇妙な体勢のまま真横へと倒れた。

 これは――もしかして、フジタが死んだということなのか。

 だが、なぜ。

「父様……父様……」

 モーモが小さく鼻をすすって、声もなく泣き始める。

「えー……マジでどうなってんだよ、これは……」

 倒れたフジタと、すすり泣くフジタの娘モーモ。

 その傍らで賢くお座りする黒狼と、なぜかここに居る自分。

 ニィルは途方に暮れた。

「あらあら、おサルさん。死相が消えてしまいましたわね」

「ババア」

 それは、そうだろう。

 黒狼のボスが現れたのならば、相棒たるマリリアンヌもまたこの場に居る確率は高いわけだ。

 相も変わらず、海辺には不似合いな古風でゴージャスな衣装に身を包んだ少女は、武装解除して駆け寄って来た黒狼の首を愛し気に掻く。

「どうなっているのかと様子を見に来てみれば……モザイク・シティの住人でありながら、魔導契約を軽んじるだなどと軽率でありますこと。愚行にもほどがありましてよ」

「あー……ああ、そういやそうか。そういうことに、なるのか……」

 魔導契約には付帯事項として、成功報酬未払による即死が明記されている。

 魔導契約違反でフジタは即死した。

 つまりは、そういうことなのだろう。



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