人魚




 モザイク・シティとは通称にすぎず、元はアクラという土地であったらしい。というよりは、現在もまだアクラであるものらしい。だが、今となってはアクラとは誰も呼ばない。むしろ、アクラという街の名前を知る者がどれだけいるのかすらも疑問である。

 ニィルがアクラなる地名を知ったのは、仕事柄たまたま顔が広かったからに過ぎず、正式地名を洩れこぼした知人以外の誰からも、未だにアクラなる街の名前を聞いたことはない。

 想定外の事態に一度地上へ浮上したニィルは、逸る内心をなだめつつも一旦は黒狼と連れ立って街へと引き返し、その後黒狼と別れたその足で雑貨屋へ足を運んで必要な物を買いそろえる。

 現在のニィルに必要な物――それは、強酸の海に在ってもそれという形を失なうことのない、丈夫な紙とペンだ。当然ながら高級品だった。紙の通常価格の倍以上はした。加えて、アルカリ性中和溶液や回復ポーションも新たに追加購入した。これで前回の潜水で使った中和溶液の残りも合わせれば、潜水数回分の余裕があるはずである。

 今回の買い物で、ニィルが依頼人フジタから受け取った前金はほぼ無くなってしまった。大赤字も良いところだった。

 ただの依頼仕事であれば、こんな無駄なことはしない。ニィルは貧乏人だ。余計な金を使っていては生きていけない。

 それが今回に限って大胆な行動に出たのは、事態がもはや他人事ではなくなったからだ。

 あのモーモと思しき人魚がしがみ付いていた巨大な球体、その中に詰め込まれていたもの。モザイク・シティの地を踏み締めたばかりの、愚かで世間知らずだったニィルが過去に失ったもの。

 戦災孤児だったニィルに身内はいない。肖像画などという金持ち専用高級アイテムにも縁は無く、モザイク・シティでは普通に普及している携帯端末は外界ではあまり見かけない代物だ。

 ――生来のニィルの顔は、もはやニィル自身の記憶の中に存在するだけの残像のようなものでしかない。

 失うことにより初めて知った、自身の容姿への執着。平凡だったはずの唯一無二の個性。渇望はやがて飢餓へと変わり、ニィルはモザイク・シティにしがみ付くことになった。

 醜形恐怖症、と云うらしい。

 自分の外見が化け物のように見えるといった思いが強くなり、嫌悪するのだという。

 まさしく、ニィルは化け物になった。今となっては誰がどう見てもニィルの外見はもはや猿人とでも称するより他はなく、人間ではあり得ない。

 嫌悪した。後悔もした。

 希望して手に入れたはずの白銀の毛並みをむしり取り、身体のあちこちにハゲを作っては暴れまわり、悪評をまき散らしていたこともあった。

 この白銀の毛並みに特殊能力があるのだと知ってからは、それを強みとして金銭を稼ぎ、交換対象を探してきた。

 ニィルは、息を止めている間だけは無敵だった。大小性質に関わらずあらゆる液体に潜ることが可能であり、白銀の毛並みは呼吸を止めておくだけで最強の盾にも防護服にもなった。

 モザイク・シティでモザイク現象に被曝する以前には欲しくてたまらなかったはずの特殊能力は、手に入れた今となってはどうして欲していたのかを思い出せないくらいになっていた。

「っし、戻るか」

 独り言ちて、気合を入れる。

 ここが正念場だった。ニィルが長年追い求めていたものが、目標が手が届く位置に在る。

 ニィルが考えたのは、まずは紙とペンを用いて筆談でモーモと水中にて接触を図る作戦だった。話を聞ける状態であるのかは甚だしく疑わしい状態のモーモであったが、試す価値はあるだろう。

 人魚に会いに行く。

 そう考えると途端に幻想的で美しい情景が脳裏に思い浮かぶのは、幼き頃に聞かされた顔も覚えていない母親の与太話が原因であるものか。

 人外の美女に会いに行くのだと思えば悪くない、ニィルは内心で嘯いてダンディズムを気取った。







 凪いだレッド・シーの水面に映るニィルの顔は、相も変わらず毛並みに覆われている。

 中心部分こそ辛うじて人の部分を残していたが、人間とは言い難い。他人のような顔が、そこに在る。否、むしろ他人としか思えず、もっと言ってしまえば他人事であって欲しかったくらいだった。

 鏡を、水面を、ありとあらゆる映し見がニィルの敵となり、精神を苛むようになってから何年が過ぎたことだろうか。

 現状を見せつけられるたびに心臓が早打ち、頭の中が掻き乱されるのは、いつものことだった。

 武者震いに震える手を動かして服を脱ぎ捨てたニィルは、紙とペンを持って海岸に立ち、全裸のまま身体を張る。

 落ち着け、とニィルは自分に言い聞かせた。

 脈拍が早っていては、いかにニィルとて潜水時間が短縮されてしまう。呼吸は浅く深く、心と心臓は穏やかに。

 吸って、吐いて。吸って、吐いて。

 肺を活性化させて、ニィルは自分を高める。深く息を吸い込んでから、強酸の海へと飛び込んだ。

 地上の音から隔絶された世界の中、視界はクリアだ。記憶を頼りにニィルは泳いだ。

 ニィルは、どこか夢見心地だった。

 失ったはずの自分の顔が、手の届く場所に在るのかもしれない……否、おそらく在るのだ。

 この時をどれだけ夢見たことだろうか。ここに至るまでに、何年かかったことだろうか。まさに積年の願望が叶うかもしれない瞬間であり、待望の瞬間でもあった。

 感慨無量――と言いたいところではあったが、ニィルの中にわずかに残った冷静な部分が、人魚との再会準備を整えながら考えたのだ。

 頭部がそこに在るということは、同位置にニィルの全身がまとまって存在している可能性が高い。ここまでは良い。ようやく自分にも幸運が巡って来たのだと思えた。

 だが問題は、そこからだった。判別するだけの確かな特徴がある頭部とは違い、身体の方には目印となるものが思い当らなかったのだ。ニィル自身がバラバラになった全身の部位を判別する自信がない。

 頭部だけを回収するというやり方があるのかもしれなかったが、できればニィルはしたくなかった。

 もしもニィルが部位交換に成功して頭部を回収したとして、おそらくこの特殊能力も消えてしまう気がした。そうなると、きっとニィルはモザイク・シティで生きていけないだろう。早々に生活に行き詰まるに違いない。

 ならばあれを、ニィルの頭部の回収を試みるのは、最後だった。

 欲しくてたまらないものが在るのに、手を出せない。もどかしくて、やるせなくて、暴れたくなった。

 しかも、ニィルにはもう一つ無視できない重要な事実があった。

 ほぼ同じ位置に在りながら、フジタが求めたモーモに反応したマリリアンヌのタロットカードは、ニィルの頭部には反応しなかった。探し求めたそれは、こんなにも近い場所にありながら、マリリアンヌのタロットカードに応えなかったのだ。

 それが意味するところは、つまり。

 モザイク現象は、交換の法則は、生命同士に作用するとされている。得体のしれない球体の中を浮かび漂っていたアレは、はたして生きているのだろうか。

 想像するだけで、泣きそうになった。

 モザイク・シティにおいて、ニィルの知り合いは多くとも、真に心を許せる相手は少ない。

 ニィルは、無性にマリリアンヌに会いたくなった。会って、問い詰めて、癇癪を起して、八つ当たりをして――そして、よしよし馬鹿な子ねと慰めて甘やかして欲しかった。

 ニィルが潜水を開始してからおおよそ二分ほどが過ぎただろうか。

 前回と同じくして、ニィルの耳に奇怪な人魚の歌声が聞こえ始める。それは魂を凍り付かせるような音であり、間違っても夢見心地を誘うようなものではない。

 まるで、巨大な魔物の口先へ挑むような心地だった。

 気分は、魔王の前でつまようじを構えてチキンハートを震わせる勇者である。

 今回に限っていえば、両手に握った紙とペンがニィルの武器だ。空想上の勇者よりもなお心許ないことこの上ない。

 だが、ニィルは進まないわけにはいかない。立ち止まることも、逃げることもしない。これは、やっと掴んだチャンスなのだ。ここで逃げていては、ニィルの願望は一生叶わないだろう。

 ニィルが現場に到着すると、人魚のモーモは振り返ることもなく、相変わらず鬼の形相で歌い続けるばかりだった。

 長い黒髪が四方八方を不気味に漂い、青緑の尾びれはビチビチと小刻みに動いている。

 ニィルは、紙を球体に押し付けるようにして広げて悪戦苦闘しつつも手で固定し、ペンを走らせた。

 自作のメッセージカードを相手にわかるように提示して、心底嫌だったが人魚のモーモの肩を叩く。

 とんとんとん。

 だが、半ば以上予想していたことではあったが、人魚のモーモはニィルを無視した。一心不乱に叫び――もとい、歌い続けている。

 仕方がないので、ニィルは海藻のような不気味な髪に手を突っ込み、頭を掴んで強引に自分の方を振り向かせた。

 ニィルは、見開かれた焦点の合わない目と正面から向き合うことになった。

 人魚は、初めは意味がわからないといった様子でニィルを見ていたが、メッセージが書かれた紙に気が付くとニタァと笑った。

 こわい。

 ニィルの背筋に、怖気のようなものが走った。

『地上でお茶しませんか?』

 紙にはそのように書いてみたニィルである。




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