【1980年代 (5)】サムライ!ニンジャ! エキゾチック・ジャパンへの関心

 大学のアニメクラブなどで日本のアニメに接している人達は、もちろんそれが日本製であることを知っていましたが、テレビで吹き替えのアニメを観ているだけの子供たちは、80年代に入ってもそれが日本製だということにあまり気づいていなかったようです。

 『オタク・イン・USA』の著者のパトリック・マシアス(1972年生)は、「当時のアメリカの小学生はみんな学校から帰ると必ず『マッハGo Go Go』や『科学忍者隊ガッチャマン』や『宇宙戦艦ヤマト』を観ていたが、それが実は日本製だって事実を知っているのも僕ぐらいだった」と書いており[1]、『ニッポンマンガ論』のフレデリック・ショットは『ロボテック』を観た米国の子供たちは登場人物が本当は日本人なのだと言われても信じなかったと書いています[2]。


 80年代に米国でテレビ放映された日本製のアニメは、相変わらずSF的な作品など日本らしさのないものが選ばれていました。

 フランスでは、80年代後半には『キャプテン翼』のようなスポーツもの、『魔法の天使クリィミーマミ』のような魔法少女もの、『うる星やつら』のようなラブコメもテレビで放映されています(国営局などによる全国放送です)。これらの作品では登場人物の名前の変更などはありましたが、日本の日常生活の描写はそのまま残るので、視聴者も日本製アニメということを認識しますし、それに慣れていきます。[3]

 それと比べると、米国での“日本的な要素”の排除は特徴的と言えるでしょう。これは特に日本だけがターゲットにされたというわけではなく、非北米・非西欧的なものが排除されていたのだと思われます。それが変わるのは00年代以降になります。


 その一方で、濃厚な“日本らしさ”とか“アジア感”を愛するタイプのファンも現れてきます。パトリック・マシアスはアニメと同じかそれ以上に、日本の特撮モノやヤクザ映画が好きなようです。『キル・ビル』を撮ったクエンティン・タランティーノも同じように、日本の時代劇やヤクザ映画、B級感のある映画を愛好するタイプみたいです。


 西洋には東洋趣味の一種としての日本趣味が19世紀からあって、日本美術だとか茶の湯だとか歌舞伎だとかに関心を持つ人もいたのですが、大衆娯楽の領域に日本的・アジア的なものが現れてくるのはもっと後のことになります。


 60年代後半から欧米にヒッピー・ムーブメントが起こります。ヒッピーは西洋文明を批判し、そのカウンターとして中国の道教タオ、インドのヨガ、仏教の禅など、東洋の精神文化に注目しました。これが米国でのアジア的なものへの興味につながっていきます。

 ビズ・メディアの創業者の堀淵清治によると、早くから米国で日本の漫画の紹介を行ってきたフレデリック・ショットはヒッピーだったそうですし[4]、フランスで最初期に日本の漫画・アニメ専門店トンカムを開いたドミニク・ヴェレという人もヒッピー・ムーブメントの影響を強く受けています[5]。また、ビズが最初に提携して日本の漫画を発売したエクリプスという西海岸の独立系コミック出版社ですが、そこで働く若いスタッフ達は「見るからにヒッピーという感じ」だったそうです。

 欧米で初期に日本の漫画やアニメに関心を持った、先駆的な人には、ひょっとしたら東洋文明に興味を持つヒッピータイプが多かったのかもしれません。


 ただし、そういうヒッピー的な東洋思想とか精神的なものではなく、ニンジャだとかサムライだとか通俗的なものが娯楽作品に出てくるようになるのは80年代からのようです。それ以前にも黒澤明などの時代劇は米国で公開されていましたが、一部の映画ファンやインテリ層には評価されましたが、大衆的な人気を得たわけではなかったようです。[1]


 パトリック・マシアスが強調するのは『将軍(Shōgun)』という作品です。1975年に刊行されたジェームズ・クラベルによるベストセラー小説で、1980年にテレビドラマ化されて高視聴率を取りました。17世紀の日本にやってきた(リチャード・チェンバレンが演ずる)イギリス人が主人公の物語です。


 その内容について、マシアスは以下のように書いています。[1]


>>基本的に『将軍』は『ターザン』や多くの「白人酋長」ものと同じく、優性人種である白人は蛮族の国では神に等しいという差別意識に基づいている。さらに不快なことに、チェンバレンは主人公にもかかわらず全編を通じて、謀略、ハッタリ、嘘の限りを尽くし、その狡猾さを称えられる。そして日本人に向かって Japo(日本土人)とののしり、意味がわからない彼らを嘲笑する。<<


>>毎回チェンバレンが女性と寝るシーンがあるのも困った。彼は六話を通して三人の日本女性とセックスする。もちろん裸の背中ぐらいしか見せないが、家族向けの時間帯では充分過激だ。<<


>>美しい着物や優雅な茶の会の描写にかかわらず、観終わった後に残るのは、日本人は頑迷で戦争好きで血に飢えた蛮族だという印象である。<<


 規制の厳しい米国でこれが放映できたのが不思議な気もしますが、80年代の米国の感覚ではこれも許されていたのでしょう。米国社会での差別表現への意識として、60年代の『ジャングル大帝』ときに問題になったような外見のステレオタイプ的な描写の方が大きな問題とされるようですね。

 ただ、そうした面を批判的に見たとしても、作品としてはよくできていて面白かったとマシアスは評価しています。


 そして、日本語を勉強したこともないのに、人の名前に「サン」を付けたり、「ドモアリガト」などと口にする米国人が現れたのは、この『将軍』の影響だとマシアスは言うのですがどうなんでしょう。80年代には米国でも寿司レストランが珍しくなくなるのですが、そのきっかけも『将軍』だとか、このへんはマシウスの言うことを文字通りに受け取っていいのかちょっと確信が持てません。


 1985年がプラザ合意の年で、80年代は日米貿易摩擦からバブル経済の時期でした。米国社会では日本を脅威をみなして日本叩きジャパン・バッシングが盛んになりましたが、同時にもっと日本について知るべきだとか、日本から学べることは学ぶべきだという論調も強まりました。安易な日本異質論に流れる面もありましたが、日本と日本文化への関心が高まった時期です。

 大衆文化への影響の根本にあるのは、この社会情勢だろうと思われます。


 映画でも、日本的なものが取り上げられている作品としてわかりやすいところでは『ベストキッド』(84年)や『ブラックレイン』(89年)があります。また、『エイリアン』(79年)に登場する巨大企業ウェイラン・ユタニ社は、ウェイラン社と日本企業のユタニ社が合併したものという設定らしいですし、『ダイ・ハード』(88年)の舞台になるナカトミビルは、わざわざ原作小説の設定を改変して日系企業のものとしています。当時の米国では日本の経済力が強く意識されていて、映画にもそうした時代の空気を取り込んだのでしょう。


 また、コンピュータRPGの古典『ウィザードリィ』の発売が1981年。このゲームでプレイヤーキャラクターの選べるクラスに、サムライとニンジャが含まれています。

 ちなみに、このゲームの製作者のひとりのロバート・ウッドヘッドは、1988年に日本のアニメや時代劇のライセンシングや配給を行うアニメイゴ社を設立しています。


 テレビドラマ『将軍』が放映された1980年には、映画『子連れ狼』も米国で公開されています。『将軍』人気に当て込んで、『Shogun Assassin(将軍の刺客)』と英題が付けられました。

 内容は、シリーズ第2作『子連れ狼 三途の川の乳母車』(日本公開72年4月)をベースに、シリーズ第1作の『子連れ狼 子を貸し腕貸しつかまつる』(日本公開72年1月)から10分間の発端部を付け加え、ナレーションを追加するなど米国で再編集したものでした。

 この映画はヒットしましたが、扱いはB級映画。かけられたのは場末の映画館で、批評家たちには相手にされませんでした。[1]


 『子連れ狼』はもともと、小池一夫原作・小島剛夕作画の劇画ですが、これも英訳されて1987年に米国でファースト・コミックという小さな出版社から刊行されています。このときの表紙は、フランク・ミラー(後述)が描いています。アメコミの世界ではマーベルとDCが圧倒的に強いのですが、『子連れ狼』は独立系のコミックとしてはかなりの売り上げでした。

 ほぼ同じ頃に、小学館系のビズ・コミュニケーション(現ビズ・メディア)も米国での日本漫画の販売を始めていて、白土三平の『カムイ外伝』を含む3タイトルを刊行しています。[4]


 米国版『子連れ狼』の表紙を描いたフランク・ミラーは、名作と名高い『バットマン:ダークナイト・リターンズ』や『シン・シティ』を手がけたコミック・アーティストです。彼は80年代の初めに、日本語版の『子連れ狼』と出会いました。日本語は読めませんでしたが、アメリカのコミックとは違う日本の漫画のスタイルに衝撃を受けます。

 彼は、当時マーベルで描いていた『デアデビル』にニンジャを登場させます。日本風のコマ割りなども取り入れましたが、これは斬新だと評価されます。[1]


 『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』(Teenage Mutant Ninja Turtles) は、1984年に同人誌から始まってアニメや映画にまでなった作品ですが、ニンジャの要素などはフランク・ミラーの『デアデビル』の影響のようです。


 『デアデビル』の仕事から離れたフランク・ミラーは、1983年にオリジナルの作品『RONIN』を発表します。主人公のサムライの近未来のニューヨークでの戦いが描かれるのですが、日本漫画のコマ割りを本格的に取り入れた意欲的な作品でもあります。[1]

 サムライとかニンジャとか題材のレベルで日本的なものを取り入れるのは誰でも考えつくと思うのですが、この時期すでにコマ割りのような抽象的な要素まで吸収しているのは、さすが非凡なアーティストです。

 ところが残念ながら当時の米国では違和感の方が強かったらしく、『RONIN』の売り上げは伸びず、批評家たちにも理解されませんでした。[1]


 こうして80年代の米国には、大衆文化の中にサムライやらニンジャやらの奇妙な日本イメージが現れ、それを愛好する少数ながら熱心な層を生み出しました。SFアニメのような日本臭さの希薄な作品を好む層とは異なる嗜好と言えます。ただし、彼らの好む濃厚にエキゾチックな日本イメージは、現代日本の現実の姿とは違うのですが。


 エキゾチックな日本のイメージは、経済大国、テクノロジー製品の輸出国といったイメージと結びついて、ますます奇妙なイメージに変化していきました。1980年代のSFに現れた「サイバーパンク」と呼ばれる作品には、そうした奇妙な日本のイメージがしばしば現れてきます。


(追記 2020.2.5)

 垣井通広『ハリウッドの日本人』という本から、ジェームズ・クラベル原作の『将軍』についてもう少し詳しいことが分かったので追記しておきます。[6]

 まず原作小説ですが、32週間にわたってベストセラーにランク入りし、米国では5年間でペーパーバックが700万部も売れたというので、これは想像以上の大ヒットです。

 テレビドラマの方はどうかと言うと、三大ネットワークのNBCから全米で、6夜連続の計12時間のシリーズとして放映され、32.6パーセントもの視聴率を獲得しています。これも予想を上回る数字でした。


 その影響については、垣井も、全米に「ハイ」「アリガトウ」「スミマセン」といった片言の日本語を流行させ、「ごく一部の限られた知識人しか興味を持っていなかった日本の歴史を、多くのアメリカ人に伝えた」としています。また、マシアスと同じように、「『将軍』ブームは、日本人即ち古風で野蛮なサムライというイメージをより強烈に植え付けることにもなった」とも書いています。

 そして、80年代の米国人の抱く日本人のイメージについて次のように語ります。


>>作者は歴史劇のつもりでも、観る側はドラマを常に現実と重ね合わせて考える。<<

>>現実の日本は急激に近代化されてすでに経済大国になっていたが、日本人を象徴するイメージは前近代的なサムライのままなのである。映像がもたらした日本のイメージは、最先端のハイテクと伝統的なサムライの両極端に分裂し、その分裂したイメージは現在まで根強く続いている。<<


 同じ本に、米国における“ニンジャ幻想”を理解するのに役立ちそうなことが書いてあったので、それについても書いておきます。


 1980年に、エリック・ヴァン・ラストベーダーの小説『ザ・ニンジャ(The Ninja)』がベストセラーになりました。これは歴史劇ではなく、主人公ニコラス・リニア(イギリス人の父と日中ハーフの母を持つという設定)が、戦後の日本でニンジャとしての技を学び、米国で活躍するという筋だそうです。

 おそらくここから、カラテやジュードーのように、ニンジャの技術は現代でも生きているという幻想が米国に根付き始めたのだと思います。


 70年代初頭にブームを巻き起こしたカンフー映画ですが、73年のブルース・リーの死後、その人気は下火になっていました。そんな状況で80年代の米国の映画界はニンジャに着目し、カンフー映画の類似品としてのニンジャ映画を製作し始めます。ほとんどが低予算のB級映画だったようですが、人気を集めて多くの作品が作られました。当時はニンジャ雑誌が次々と創刊され、全米に数百ある空手道場の多くがニンジャ道場に模様替えしたといいます。

 ここから米国で生まれたのが、カンフーなどの格闘技と似たようなものとしてニンジャを捉える見方です。例えば、先に触れたゲーム『ウィザードリー』に登場するクラスのニンジャは、レベルが上がると防具なしの状態でACが下がる(防御力が上がる)という独特の能力を持っています。これはウィザードリーが参考にしているTRPGの『AD&D』にあるクラスのモンク(格闘技系のクラス)とよく似た仕様です。


 こうしてニンジャ映画が盛んになる中で俳優として成功を掴んだのが、ショー・コスギ(本名:小杉正一)です。日本から単身渡米し、現地の空手大会で活躍して名を挙げて、空手道場を経営しながら俳優を目指していたショー・コスギは、1981年の『燃えよニンジャ (Enter the Ninja)』に悪役として出演を果たします。そして、82年の『ニンジャⅡ・転生ノ章 (Revenge of the Ninja)』で主演・武術指導を任され、以後、80年代の数々のニンジャ映画に出演し、遂にはロサンジェルス郊外の高級住宅地にニンジャ御殿と呼ばれる豪邸を構えるほどの成功を収めました。なお、ご存知の方も多いかもしれませんが、日本でタレントとして活躍していたケイン・コスギはショー・コスギの長男です。



[1]パトリック・マシアス著、町山智浩編・訳『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』太田出版、2006年

[2]フレデリック・L・ショット[著]、樋口あやこ[訳]『ニッポンマンガ論 日本マンガにはまったアメリカ人の熱血マンガ論』マール社、1998年(原著1996年)

[3]トリスタン・ブルネ『水曜日のアニメが待ち遠しい フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす』誠文堂新光社、2015年

[4]堀淵清治[著]、飯干真奈弥[構成]『萌えるアメリカ 米国人はいかにしてMANGAを読むようになったか』日経BP社、2006年

[5]清谷信一『ル・オタク フランスおたく物語』講談社文庫、2009年(オリジナルは『Le OTAKU フランスおたく事情』KKベストセラーズ、1998年)

[6]垣井通広『ハリウッドの日本人 「映画」に現われた日米文化摩擦』文藝春秋、1992年

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