第5話 ただあなたに伝えたい


 鈴を家へ送り届けた後、私はひとりで喫茶店に入った。

 いつもの窓際の席に座ると、カバンを置いてスマホを取り出す。しばらくしてコーヒーが運ばれてくるが、口に含んでもまともに味を感じることが出来ない。毎回砂糖とミルクを入れないと美味しく飲めないはずなのに、何も入れなくても苦味を感じない。というか、味を感じない。まるで暖かなお湯でも飲んでいるかのようだ。


 いったいどうしたというのだ。

 私はおかしくなってしまったのか。


 脳裏に部屋での出来事がフラッシュバックする。

 怯える鈴と、彼女を抱きしめる私。自分でもどういう思考でそういう行動に至ったのかは自分でもよくわかっていないものの、そんな彼女をみていると胸が苦しくなったのだ。なにかしてあげたいと思ったのだ。そして、意識せずともその唇に吸い寄せられ、間違いを起こしそうになった。

 寸でのところで自制が効いていなければ、あの子との関係は破壊されていたと思う。

 海外で見られるような、挨拶として頬に軽くキスするなんて生易しいものではない。唇と唇を重ねる、性行為の前戯のような感覚で私はそれを行おうとしたのだ。

 公園であの子を見たときから、私の中であの子はイコールで守るべき対象になっている。間違っても恋愛の対象ではない。


 ない、はずだった。


 溜息を吐きつつふと、窓の外に目をやる。

 雨は上がり、ヘッドライトを点けたクルマが行き交っている。歩く人々はどこか急いでいるふうで、忙しない。

 私の心は酷く吹き乱れているというのに、世界はいつもと変わらず正常な回転を行っており、私の異常に気がつく誰かはいない。

 鈴に私のしようとしていたことは理解出来ていないと思う。たぶん、怯える自分を安心させようとしたくらいにしか受け取っていないと思うし、それは間違いではない。でもきっと、あの子が成長した時今日のことを思い出せば、私のことを軽蔑するだろう。薄々ながらも異常性を見出していたからこそ彼女は顔を赤らめていたのだろうし。


「……あ」


 思わず声が出る。

 手元も見ずに、カップをソーサーに戻す。

 行き交う人々の流れを遮り、窓の外で真澄純那ますみじゅんなが立ち止まってこちらを見ている。私と同様に向こうも驚いているようで、間を置いて控えめに手を上げ挨拶してきた。


「遊び行ってたん?」


 店内に入ってきた純那は隣に腰掛けると、そう聞いてくる。彼女はミルクティーを頼んだ。


「行ってたと言うか、家に来てたというか」

「男?」

「違う」


 間髪入れずに返すが、どうしてすぐにそういう話に結びつけようとするのか。俗に言う恋愛脳というやつなのだろうか。

 ……いや、単純に男だったほうが話は早かったかもしれない。今回はそれが年下の女の子ということが問題なのだ。しかし、そんなこと純那に言えるわけもなく、取り敢えずの応急処置として私は否定するしか選択肢が用意できない。


「じゃあなんでそんなに悩んでんの?」


 やはり傍から見ても私の様子はどうにもおかしいらしい。長年の友人である彼女であれば尚更であろう。


「……自分の心がわからなくて」


 率直な、思っていること。


「めんどくさ。思春期?」

「うっさい」


 とは言うものの、純那の言うことは100%間違いではない。こんなにも心が乱れて不安定なのはもしかすると思春期のせいなのかもしれない。都合よく理解しようとすれば、思春期の気の迷いとでもいうべきか。

 自分でも非常に面倒くさいということは重々承知している。だけども、この気持ちだけは単純なイエス/ノーで解せる問題ではないように思う。もっとこの問題は複雑だ。

 私という人格の形成の根幹に作用するような、一度出来上がってしまった私という人間を足元から打ち砕くような。


「私は……おかしくなったのかもしれない」

「そうっぽいね」


 頬杖をついて私を見据える純那。カップは空になっている。


「もう一杯、頼む?」


 私の問に純那は頷き、それから2時間に渡りぐだぐだとくだらないことを話し合い、それからサヨナラをした。

  


     ※     ※     ※



 純那と別れたあと、私はとぼとぼと自宅への道を歩きだしていた。

 店を出たのが20時40分で、現在は既に21時前。

 田舎ということもありこの時間となるとクルマの通りは少なく、道を歩く人となると更に少ない。

 左右に一定感覚で棒立ち並ぶ街灯は寂しげに白色の光で地面を照らし、吹き抜ける夜風は身を震わせるのに十分なほど冷たかった。途中コンビニにでも立ち寄って暖かなお茶でも買いたいところであるが、生憎と最寄りのコンビニまで歩きで10分はかかるし、帰宅のルートからは外れてしまう。素直に家路を急いだほうが賢明だろう。


 その時。


 前方から足音が響いてくる。

 小気味のいいリズムであり、どうやらランニングの最中らしい。

 誰だろう。この寒い時期にランニングとはご苦労なことである。ダイエットか健康作りか。いや、自分には関係ない。このまますれ違ってお終いだ。


「星奈先輩」


 心臓が跳ねる。

 正面から小走りでやってきたトレーニングウェア姿の女子に私は声を掛けられた。


「……東さん、だっけ」


 街灯に照らされるその少女の顔に、見覚えがあった。


「はい。1年の東苺香あずままいかです」


 記憶の引き出しを開ける。

 それほど情報が詰まっているわけではないものの、いくつかは思い出せる。

 東苺香。私の後輩であり1年生。同じ陸上部に所属し、同じく短距離を得意とする。ただし、タイムは私よりも、


「遅いんですよね、私」


 まるで私の思考を透視したかのように東はそう、口にする。


「遅いんですよ。先輩が怪我する前のタイムを、まだ抜けてない」

「…………」


 咄嗟に言葉が出ない。

 それを私に言って、どういう反応を期待しているのだろう。


「先輩」

「……なに?」


 真っ直ぐに私を見据えて、東は笑っていない。笑えるはずがない。私が東であるなら、この状況に於いて笑えるはずがない。


「もう、走らないんですか?」


 その言葉は、もっとも恐れている言葉だ。

 穏やかな語調と表情。しかし恫喝でもされたかのような強い衝撃を受ける。

 激情が混じっている。東は、怒っているのだ。

 走るのをやめた私を激しく叱責したいと思っているのだ。

 今日この場で出会ったのはまったくの偶然だろう。

 しかし、私の存在を認識した東は、無視するという選択ができなかった。いても立ってもいられず、私に一言言うためにここで立ち止まった。そのまま通り過ぎれば私は気が付かなかったのに、止まらずにはいられなかった。


「わ、私は、足が」


 自分で考えても惨めな言い訳だ。

 何が足だ。怪我のせいにするな。

 足はもう治っている。医者ももう走れると言っていた。

 ただ、私の足はどうしてもトラックの方を向いてくれない。

 もしかすると、再び倒れてしまうという恐怖心があるのかも知れない。というか、絶対にその考えは無意識下に刻まれている。

 倒れて蹲り、足を引きずってトラックから離れる。

 病院へ運ばれMRIに寝かされ、出来上がった画像を使って怪我と手術の説明を受ける。そのまま術前検査に回され、血を抜き、レントゲンを撮って心電図を見て最後に麻酔の説明を受ける。

 数日後には入院し、翌日に手術。2週間は固定されまともに歩けず、毎日痛みに耐えながらリハビリを繰り返す。

 とてもではないが再び経験したいものではない。

 あの痛みはもう一度味わいたいものではない。


「先輩は走れます」


 けれど。

 私の不安を東は真っ向から否定する。

 いったいお前に何がわかるのだという反抗的な考えが脳裏をよぎるが、それ以上にどうしてそこまで言ってくれるのだという疑問の方が勝っている。私と東はそれほど会話もなく、仲が良かったというわけでもない。ただの先輩後輩の間柄なのだ。

 それなのに、どうして。


「……東さん」

「私、待ってますから」


 それだけ言って、東苺香は背中を向けて走り出す。

 彼女は振り向かない。その背中が夜闇に消えて溶けてしまうまで、私はじっとその場を動けない。

 上着のポケットからスマホを取り出す。

 声が、聴きたい。

 鈴の音が。

 

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