第6話 水族館

 東苺香と出会ったあの夜、私は鈴に電話をかけることが出来なかった。

 発信ボタンをタップすることがどうしても出来ず、踏ん切りがつかない。悶々としたまま歩き続け気付けば自宅へと到着しており、ほとんど無意識のまま部屋に戻るとスマホを握りしめたままベッドへ倒れ込む。そのまま食事も摂らず風呂にも入らず、目を覚ましたときにはもう日が昇っており、月曜日が始まっていた。


「……学校」


 行かなくては。しかし、行く気になれない。休みたい。

 布団の中でしばらく唸り続け、乾燥で喉が痛いことに気が付く。母親に言えばきっと学校を休んで病院へ行くことを許してはくれるだろう。だが、私が休んだことを仮に東苺香が知ったとしたらなんと思うだろうか。

 あんな会話があった翌日だ。

 いい気はしないだろう。

 それはなんというか、嫌だ。

 東に申し訳ないとかではない、私が嫌なのだ。


「…………」


 重い身体を起こし、母屋に向かう。昨日のままの服を脱ぎ捨て熱いシャワーを浴びると、全裸のままタオルだけを肩から垂らして冷蔵庫からヨーグルトを取り出しコップに注ぐ。部屋へ戻ると学校の準備を始めた。

 制服のホコリを念入りに落とし、スマホの画面を見ながら前髪を直す。

 特に解けてもいない靴紐を一度解くと、結び直す。

 自分でも何をしているのだと思っている。だけども、そうしてしまうのだ。

 居もしない誰かの目を気にして、気を張っている。勝手に疲弊していっている。

 おかしな話だ。全然笑えないけれど。

 学校へ着くと自分の席につき、真澄純那といつも通りの他愛のない話をする。

 授業を消化し一日が過ぎていく。


「……ぁ」 


 帰り。

 部室棟へ歩いていく東苺香とすれ違うが、お互いに会話はない。挨拶すらなく、目が合ったと思うとすぐに逸らされる。

 隣を歩く純那が不思議そうな顔でこちらを見てくるが、昨日のことを話そうとは思えなかった。

 部活へ行けばこの気持ちは晴れるのだろうか。いや、今のままではきっと辛いだけだ。自分の中の何かを変えなければ、変わらなければ部活へ行き、走ったとしても苦しいだけなのだ。

 スマホを見る。

 鈴から連絡はない。

 私からも連絡はしていない。

 何度も連絡は取ろうとした。けれど、出来なかった。

 そうして、いつもまでも自分から何も行動が起こせないまま2週間が過ぎ、放課後、私は委員会があるという純那を待つためにひとり図書室で暇を潰していた。入り口に設けられている新刊が置かれた棚からスポーツ系の雑誌を適当に取り、パラパラとページを捲る。はっきり言って全然内容は入ってこないが、図書室にいる以上は何かを読んでいるという風に見える必要があり、その時、テーブルに置いているスマホが光った。

 手にとって見てみればなんと鈴からメッセージが届いている。


『今度の日曜日にお出かけしませんか』


 ほんの一文の短いメッセージだ。けれど私はそれを何度も読み、頭の中で繰り返し繰り返し再生する。

 お出かけ、お出かけだ。つまり、鈴は私を遊びに誘っているのだ。

 鈴に対して連絡を取れなかったのは、もしかしたらあの子に嫌われているのではと思う気持ちがあったからだ。しかしもしかすると、あの子も同じことを思っていたのかも知れない。

 お互いがお互いに相手のことを思うからこそ身動きが取れなくなる。そうして自然と関係は消滅していくはずだったのに、あの子はそれを良しとしなかったのだ。

 関係を終わらせたくなかったのだ。

 あの子のほうが、よっぽど大人だ。


『いいよ』


 何分も考え、結局送ったのはたった3文字の肯定の言葉。今の私にはこれが精一杯だ。冷めた奴と思われてしまうかも知れない。だけれど、あの子はこれで理解してくれるはずだ。


『ありがとう。じゃあ、日曜日の10時に駅のバスターミナルにお願いできますか』

『うん』


 やり取りはそれでお終いだった。

 今夜はここ2週間で一番よく眠れそうであった。




     ※     ※     ※




「鈴ちゃん」


 待ち合わせの15分前にバスターミナルに入ると、既に鈴が椅子に座って待っていた。湯気の出ているカップを両手で持っておりどうやら自販機でココアを買っているらしい。自分のリュックを置いて席を取っておいてくれたらしく、リュックをどかして隣の席をぽんぽんと叩くと私に目配せしてきた。


「待った?」

「……ううん。ほんのさっき来たところ」


 そう言うものの、ココアはもうほとんど残っていない。もしかすると9時半頃からいるのかも知れない。


「そっか。ありがとね、今日は。誘ってくれて」

「……この前はましろちゃんから誘ってくれたから」


 お返し、と。


 鈴は私の方を見て小さく笑みを浮かべる。

 色素の薄い栗色の細い髪が陽の光を受けキラキラと輝く。全体的に線が細く、鈴はとても華奢だ。私と並んで立てば30センチ以上の差ができ、きっと私でも難なく持ち上げられてしまうだろう。

 触れたくなる。

 2週間も接点を断っていたから尚の事、鈴に。


「……ましろちゃん?」

「ご、ごめん、ぼーっとしちゃって。今日はどこに行くの?」


 今日行くところを私は知らされていない。

 バスターミナルに来たということはバスに乗って遠出でもするのだろうか。どこに行くのか、まったく見当がつかない。


「……今日はね。ここに行こうって思ってるの」


 鈴は太腿の上に乗せたリュックの外ポケットからパンフレットのようなものを引き出し、私に寄越してくる。見てみればそれは水族館のパンフレットであり、このバスターミナルから40分ほどで到着するこの辺りで唯一の海辺にある水族館だ。

 と言っても、非常に小さな水族館であり、水槽は大小含めて50もない。ただ、県が運営する施設であり入館が無料であるため親子連れがよく訪れ私も小さい頃に何度か行ったことがある。


「水族館かぁ。いいね、楽しそう」


 これは本音である。久しぶりだし、なにより鈴と一緒だ。この2週間の埋め合わせをするのに絶好のチャンスであろう。


「……よかった。もう少しでバスが来るはずだから」


 それから約10分後。水族館前に停まるバスが到着し、ふたりで乗り込む。

 二人掛けの席に座ってしばらく揺られ、その間も天気は崩れることなく晴れてくれている。前回のように天気予報を無視した大雨にならなくて、私はホッとしていた。


「着いたね」

「うん」


 降車し、歩き出す。

 並んで歩いている途中手が触れて、鈴の方から手を握ってくる。私はそれを無言で握り返し水族館までの道程をゆっくりと歩いた。

 5分ほど歩いて水族館に辿り着き、まわりには家族連れが何組かいる。入り口横には大きなプールのようなものがあって、近寄ってみてみるけれど水も入っておらず何もない。立っている案内板を読むとどうやら冬季以外は浅瀬の魚たちがこのプールに放されているらしく触ったりも出来たらしい。


「また、夏に来ようよ」

「……そうだね」


 何もないプールを見据えたまま鈴はぽつりと返す。そんな横顔を見て、来年の夏にも私達の関係は続いているのだろうかという漠然とした不安が頭をよぎった。


「なか入ろ」


 不安を掻き消すように鈴の手を引き館内を目指す。

 入ってみれば潮の香りがして、子どもたちの声が響いている。正面に設置された大きな水槽には数多くの魚に混じってエイやサメ、カニもおり、途端、鈴の目が輝き私をぐいぐいと水槽の方へと引っ張っていく。


「ましろちゃん、あれは?」


 指差す先にしましま模様のサメがいる。水槽の下部には生物の説明が載っており、そこからサメを探す。


「ドチザメだって」

「あれは?」

「アカエイ」

「これは?」

「マダイだね」

「いっぱいだね」

「いっぱいいるね」


 鈴は目に入る魚を指差し、私は急いで名前を探して鈴に教える。前からも後ろか

らも横からも、色んな面から水槽を見て、鈴はとても楽しそうだ。


「奥行ってみよう、ましろちゃん」


 正面の大型水槽を後にし、館内奥へと進んでいく。照明は明るい青色に変わっており小さめの水槽がたくさん並んでいる。端から順番に水槽を覗いていき、小規模の水族館にもかかわらず気がつけば2時間が経過している。


「……これ好き」


 鈴が見るのはクラゲの水槽だ。

 2メートルほどの円柱状の水槽が3本並びその中をふわふわとクラゲが漂っている。鈴はそれに釘付けとなっており、なかなか離れようとはしなかった。その後もいくつかのクラゲの水槽を見て回り、それでも鈴はまだまだ見足りないようで、深海と同じ温度の水を触って小さく歓声を上げたり、自分と同じくらいの大きさのカニを見てびっくりしたりしている。私も見ていて楽しいが、なにより楽しいのは鈴が嬉しそうだから。

 そんな時、ふと考えた。

 どうして今日はこんなところへ誘ってくれたのだろうかと。

 鈴は前回のお返しだと言っていた。

 本当にそれだけなのだろうか。

 他にもなにか、


「ましろちゃん」

「な、なに?」


 急に名前を呼ばれ、ハッと我に返る。


「今日は、ありがとう」

「ぇ……う、うん」


 いつの間にか館内をぐるりと回ったようで入り口へ戻ってきている。

 鈴はなんだかすごく満足そうな顔をしていた。


「……お昼にしよう? わたしお弁当作ってきたから」

「ほんと?」


 こくんと頷き水族館横の芝生の広場の方を見る鈴。

 若干汗ばむほどに気温が上がってきているので外で食べても大丈夫かもしれない。広場の端にはベンチがあり、そこにふたりで腰掛けると鈴がリュックの中からサンドイッチを取り出した。水筒から熱いお茶も注いでもらい、私は久しぶりに鈴の料理を食べる。


「おいしいよ、鈴ちゃん」

「……よかった」


 サンドイッチを噛じる鈴は、嬉しそうに笑う。

 食べ終わった後はふたりで近くの店に入り、ソフトクリームを食べた。

 レジの近くに壁にはたくさんのストラップが並んでおり、鈴はそれを見ている。


「買ってあげようか?」

「い、いいよ……」

「どれがいいの?」

「……これ」


 指差すのはクラゲのストラップだ。


「じゃあこれと、私はこれにしようかな」


 鈴はクラゲで私はサメ。

 一緒の会計で済ませ外に出てみると、少し風が出てきている。相変わらず晴れてはいるものの少し肌寒い。


「ありがとう。ましろちゃん」

「いいよ」


 ベンチに座りストラップを渡してやる。鈴は嬉しそうに受け取った。

「もう、帰る?」

「……最後に海が見たい」


 水族館の裏手には浜辺が広がっている。

 どうやらあそこに行きたいらしかった。


「じゃあ、いこっか」

「うん……」


 それから浜辺に向かい、しばらくふたりで海を見た。

 途中、一緒に貝殻を少し拾ってストラップが入っていた袋に入れる。そうしているといつの間にか日が傾きだしており、そろそろ本当に帰らないといけない。


「今日はありがとうね」


 バスに乗ると、行きと同じような位置に座る。


「わたしのほうこそ、ありがと……。きてくれて」


 そう言われて、初めてわかった。

 今日私を誘うのに、どれだけ勇気が必要だったのかと。

 年上の私の方から誘うのはまだいい。しかし鈴からしてみれば高校生を遊びに誘うのだ。それも、出会ってまだ1ヶ月もたっていないような相手をである。元々内向的な性格であるようだし、遊びに誘うメッセージを送るのだって相当に悩んだはずだ。

 私だって送れなかったのに、この子は送ってきた。


「本当に……、ありがとうね」

「……ましろちゃん」


 膝の上に置いた手を、鈴の手が握ってくる。

 最初に降りるのは鈴であり、それまで、私達は手を握りあったまま揺られ続けた。

 そうしてしばらくした後。


「じゃあね、ましろちゃん」

 バスが停まる。

 鈴が立ち上がり、席を離れた。


「うん、またね」

「また」


 小さく頷きあい、鈴はバスを降りた。

 ブーっというブザーが鳴り扉が締まりバスが走り出す。

 バス停に立った鈴は私を見て手を振る。でも、すぐに見えなくなった。


「……あ」


 先程まで鈴が座っていたところ。ちょうどシートベルトで窪みになっているところにスマホが落ちている。私のではない、鈴のである。もしかするとスカートのポケットから滑り落ちてしまったのだろうか。

 どうしよう、連絡を取ることも出来ない。

 家へ行くべきか?

 しかし、鈴の母親にでも鉢合わせたらちょっと面倒なことになるかもしれない。


「……間に合う、か?」


 次のバス停まで500メートル。

 鈴の降りたバス停から家までには何箇所か横断歩道があった。

 次のバス停で降りて、走って追いかければなんとかなるかもしれない。

 視線を下げ自分の膝を見る。


「……もう、大丈夫。大丈夫……」


 私は自分の荷物を持ち、鈴のスマホを上着のポケットに捩じ込むと、降車ボタンを押した。

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