第4話 遠雷



 薄暗い部屋の中、窓を叩く激しい雨音に混じって鈴の荒い呼吸音が私の思考を侵していく。

 カーテンには打ち付ける雨が斑の影となって投影され、遠く、一瞬光ったと思うと数瞬間を置いて再び地面を揺るがすような大きな雷鳴が鳴り響いた。

 ビクッと、私の足の間に挟まって震えている鈴が一際大きく身を震わす。その小さな手で必至に耳を塞ぎ、一生懸命に音を遮断しようと試みているものの、子供の手では塞ぎきることが出来ない。

 そんな鈴をみて、私はどうしたものかと狼狽えていた。

 一見すれば雷の音と光が怖い、というふうに見ることが出来る。私も小さい頃は雷とか花火のような大きな光と音を伴ったものが苦手だったのだ。 

 けれど、よくよく見てみれば、この子は泣いてはいない。

 その目は恐怖に閉じられるどころか大きく見開かれ、しかし涙は流していない。雷に対する恐怖というよりも、雷を起因として何かを思い出しているような。ーー過去にあった出来事を思い出して恐怖を感じているような。


「…………」


 停電は収まらない。

 通常、落雷による停電は1分程度で復旧するのに、どこか物理的に破損でもしているのだろうか。


「どうしたの、鈴ちゃん。雷苦手?」


 問いかけに、鈴からの返答はない。沈黙を守り、震え続けている。


「電気すぐにつくから大丈夫だよ。雨もすぐ止むよ」

「…………」

「鈴ちゃん」

 

 そう言って私は、両手で鈴の頬をそっと持って私の顔の方を強引に向かせる。

 大きな2つの瞳が、私をじっと見つめる。

 そうして私は考えるのだ。

 どうしてこうなったのだろう、と。

 時間は、2時間前に巻き戻るーー。




     ※     ※     ※





「もうちょっとだよ、私の家」


 ふたりでバスに揺られること15分。

 最寄りのバス停で降車した私と鈴は、傘をさしながらクルマ一台がギリギリ通れる程度の細い道を歩いていた。

 右側は空き地で左側は田んぼ。両方共私の家の土地である。


「……おっきな家だね」


 道の突き当りが私の家であり、見上げた鈴が呟く。

 鈴の家に比べれば確かに大きいかも知れない。でもここらへんでは割と普通の規模の家だ。元々農家の家系だから敷地内に納屋とか蔵があるし、ここ数年で車庫と離れを建て直した。ちなみに今向かっているのは私の部屋がある離れ。

 母屋を経由しなくても鍵さえあれば裏にある勝手口からそのまま入ることが出来るのだ。


「あっちじゃないの?」


 母屋の方を指差し鈴が尋ねてくる。向こうの方に玄関があるのだから鈴が疑問に思うのも無理はない。


「私の部屋はこっちにあるんよ。でっかいテレビとかゲームはあっちにもあるし向こうで遊んでもいいけど」

「……ううん。ましろちゃんのお部屋がいい」

「うん」


 離れの裏手にまわり鍵を開ける時も鈴は斜め後ろで静かに待っている。

 雨は一向に止む気配がなかった。


「ごめんねー。散らかってて」


 部屋に入ると電気をつけエアコンの電源を入れる。

 まさか人を招くとは思っていなかったため、室内は割ととっちらかっていた。

 制服は辛うじてハンガーにかけてあるものの、部屋着や漫画・雑誌、色々な小物・雑貨が満遍なく散らかっており、この部屋の主たる私が見ても汚いなあと思う。初めてくる人からすれば滅茶苦茶いい加減な人間が住んでいると思われるに違いない。


「…………」


 隣の鈴は黙って室内を見回している。正直に言ってあまり見ないでほしいのだが。

 こんなことなら普段から片付けておけばよかった。


「……わたし、お友達の家に来るの初めて」


 けれど、私の予想とは裏腹に鈴は嬉しそうにあちこちに視線をやっている。

 小学生なら普段から友達の家で遊んでいそうなものなのにと考える私であるが、そういえば鈴は附小の児童だ。自分の家がある校区の小学校には通っていないため近所に同じ年頃の友達がいないのかもしれない。公園に行けば近所の子供と遊べるのかも知れないけれど、鈴は恐らく人見知りだし、家のこともある。なかなか誰かと遊ぶという機会はないのかもしれなかった。


「……。鈴ちゃん。ここ座って?」


 ベッドの上のものをどかし、腰掛けるスペースを作ってやる。本当は椅子を用意したほうがいいのだろうけれど、生憎と学習机に備え付けられた椅子にはワークブックの山が築かれているためベッドの方へ座ってもらうしかない。

 鈴が座ったのを確認すると、私はドアノブに手を掛ける。


「飲み物とお菓子持ってくるね。好きにしてていいから」


 鈴はこくんと頷き背筋を伸ばして座っている。ベッドがほとんど沈んでいないことからも鈴がいかに小さいかということが実感できた。

 部屋を後にし車庫を経由しリビングに入る。キッチンから適当に飲み物とお菓子を見繕うと、それらをバスケットに入れ部屋へと戻る。


「お待たせ、鈴ちゃん」


 部屋へ入ってみると、鈴は膝の上に自由帳を広げて何かを書き込んでいる。待ち合わせのときから肩に提げていたバッグに入れていたものらしい。


「なにしとるん? お絵かき?」

「うん。絵を描いて、それでしりとりしてるの」

「しりとり? 私もやろうか?」


 しりとりなど本来誰かとやるものではないだろうか。もしかして普段家からも一人でやっているのだろうか。そうだとすると、なんというか、心に来るものがある。どうにかしてあげたくなる。

 せめて今だけでも、鈴が楽しめるように。


「こっちでやろう。テーブルの上片すから」


 急いでテーブルの上を綺麗にする。と言っても床に下ろしただけなのだが。鈴はベッドから降りるとテーブルの前の床に座る。その反対側に私が座って、テーブルの真ん中には鈴の自由帳が広げられた。

 ジュースを飲んでお菓子を食べつつふたりで交互にイラストを描きあってしりとりをする。これが高校生の私でも結構真剣にやってしまうほどであり、しかし途中で気が付いてしまう。

 鈴はかなり色々な言葉を知っており、かつ絵が上手い。一方の私は言葉は知っているものの絵が残念なのだ。結果、私が描いた「水筒」が「瓶」であると指摘されてしまい、不本意ながら私の負けということになってしまった。


「負けたー。鈴ちゃん絵上手いね」

「そ、そう……かな?」

「上手いよ。私より全然」


 鈴は照れたように、下を向いて微笑んでいる。

 しりとりに熱中していたせいで気が付かなかったが、雨が先程よりも強くなっているような気がする。時刻は15時を回っており、まだ1時間半は余裕がある。帰りのバスは何時にしようか。あらかじめスマホで運行時刻を確認したほうがいいだろうか。

 そんなことを考えていると、意識の外側から鈴の声がした。


「ましろちゃん、あれは?」


 指差す方を見てみると、そこには棚の上に置かれたトロフィーと、額縁に入れられた賞状。去年の大会の短距離で2位になったときのものだ。あの頃が一番調子がよく、けれどその半年後には私は走れなくなっていた。


「陸上部で2位になってね。その時の」

「ましろちゃん、走るの?」

「…………」


 子供の純粋な疑問だ。他意がないのはわかっている。けれど、あまり触れられたい話でもない。もう、傷ができるのは懲り懲りなのだ。


「……うん、前はね。今はあんまり」

「走らないの?」

「…………」

「……ましろちゃん?」


 覗き込む鈴と目が合う。

 自分の内に芽生えるこの感情が、いったい何というものなのか私には理解できない。ただ、まるで鈴が私を責めているかのように考えてしまい、反射的に視線を逸らす。こんなことならあんなもの目につかない場所に仕舞っておけばよかった。

 どうしてもう走らないのに、あんなもの飾っていたのだ。


「飽きちゃったんだよ。走るの……」


 怪我が原因で走らなくなったなど、この子に言う必要はない。聞かれてもいない。でも、私は嘘をついた。

 鈴と自分に。

 嘘をついたのだ。


「……そっか。でも、すごいな」

「なにが?」

「走るの速い、って。わたし、走るの苦手だから」

「…………」


 鈴は、こんな私を見て、それでもすごいと言った。

 ただ逃げ出しただけの私を、すごいと言ったのだ。


「り、鈴ちゃん、あのね。わたし、」


 瞬間。

 家を震わすほどの雷鳴が鳴り響き、直後に電気が消える。

 鈴は小さな悲鳴を上げ、私に飛び込んできて、今に至るーー。




    ※     ※     ※





 鈴のふたつの大きな瞳がじっと私を見つめる。

 その身体は小刻みに震えており、咄嗟に私は鈴を抱き締めた。両腕を後ろに回し、強く抱き寄せる。鈴の小さな身体は私の腕の中にすっぽりと収まってしまい、ちょうど私の顎の下に鈴の頭のてっぺんが来て、シャンプーのいい香りが鼻腔に入り込んでくる。


「大丈夫だよ、鈴ちゃん。大丈夫」


 繰り返しそう呟き、次第に鈴の震えが緩やかになってきた。

 鈴の体温が伝わる。

 心音も。

 脈拍も。

 鈴の色々なものが私に伝わってくる。

 けれど、わからない。

 どうしてこれほどまでに怯えているのか私にはわからないのだ。


「鈴ちゃん。落ち着いた?」


 苦しいのではと思い、一旦鈴と身体を離す。が、今度は鈴の方から私に抱きついてきた。

 腕を頑張って私の背中に回し、胸に顔を埋めてくる。

 なんなのだろう。

 この、内側に溢れてくる感覚は。


「……雷は、怖くないの」


 下から、くぐもった鈴の呟きが登ってくる。


「……でも、思い出すの。雷は、思い出すの」

「そっか。私はここにいるからね」


 大丈夫だよ、と。そう言って私の方からも鈴を再度抱きしめる。

 強く、長く。

 互いの心臓の音を聴き合い、互いに何かを補い合っていく。

 不意に鈴が身体を浮かせる。鈴の顔が見える。

 目には涙が溜まっており、公園で初めてこの子を見た時を思い出した。

 薄い桃色の唇はしっとりと湿っており、隙間から並んだ白い歯が覗く。


「…………」


 無意識に、私は鈴の頬に手を添えその唇に自分の顔を寄せようとしていた。


「……?」


 鈴は不思議そうな顔で私を見ていて、抵抗する素振りはみせない。

 ダメだ。

 このままいってはダメだ。

 相手は小学生なのだ。常識的に考えて、これは許されないだろう。

 その唇を私が奪うことは、許されない。

 しかし理性とは裏腹に、鈴との距離はどんどん縮まっていく。

 鈴の吐き出す息を私が吸う。鈴も、私の吐き出す息を吸い込んでいるだろう。

 おかしくなる。

 自分でも、自分が何をしているのか、全然わからない。

 私は何をしているのだ。

 これはキスではない。


「……髪の毛、食べちゃってるよ」


 鈴が口の端に咥えてしまっていた髪の毛を指で除けてやる。

 顔を離し、取り繕うようにして知らないふりをする。

 一線は守られた。

 守った。

 危なかったが、保たれている。

 しかし、なぜだろう。

 目の前の鈴は顔を真っ赤にして、ぼーっとしている。

 私も自分の頬に手をやって。


「……熱い」


 11月も下旬。

 暗い室内に息を荒げる小学生と高校生。

 ふたりは、既にどこかおかしいのだ。

 求め合おうとするふたりは、間違っているのだ。

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