断章Ω まだらの意図
櫟は絶望と、異様な高揚に我を忘れた。
やったのではないか――メアリー・スーを倒せたのではないかと、今しがた自分で書いた断章を読んで吟味する。
それはそのまま、櫟の筆力のなさの証明でもあった。
数がたちどころに解決したはずの事件。その数による推理を、櫟はすっかり省略していた。数ならばそれが許されると妄信していた。というより、数という圧倒的な存在を動かすために、ありえない状況を書いてしまっていた。
そこが完全な穴だった。
数にはそれが許される。皆がそう信じているし、それですませてしまう。
だから櫟は、必死にその推理が書けないのだということを書き連ねた。
数は物語の内からきて外へと抜けていく。あるいはそれすらも思うがまま。だが今の状況は、異なる断章のどこかに存在する登場人物たちの手によって数の活躍が描かれ、その輪の中に数が収まっている。
逃げ場はある。増え続ける断章の間を数は簡単に行き来してしまう。そして無数の櫟たちは、それを互いに認識し始めている。
作者が数の設定を承知の上で、新たな断章が書かれる。そうなれば新たに生まれる作者もまた、数の設定を認知して動くことになる。
発散を続ける断章は、その実徐々に数を追い詰めつつあった。
そこに櫟が書いたこの断章。数は文章上で推理を披露することができず、その推理が虚妄であったと証明される。
その世界の中では、数は確かに完璧な推理を語ったのだろう。地の文でそのことを説明はする。
だが作者の視点を持った櫟の書く櫟が、それが読者を納得させられるものではないと叫ぶ。
数は言葉をなくした。
その場に存在しているはずの数は反論さえできず、描写されることなく断章は区切りを迎える。
これは――数を倒せたと言えるのではないか。
暴虐を尽くす主人公の封じ込めに成功したのかもしれないと書き上がった断章を共有フォルダに投稿すると、すぐに膠から電話が入った。
自分の下宿に陵も入れて集合せよと、膠にしては珍しく、興奮を隠しきれていない語気でそうまくし立てた。
膠の下宿では数が笑顔で待っていた。
「また遊びにきたの」
「お前が私たちの過去に存在しないことはわかっている」
「ではあなたたちに過去は存在するの?」
入って早々舌戦を開始する櫟を呆れたようになだめ、膠が座るように促す。
陵も加わって四人で車座になっていると、かつての思い出が沸き上がって思わず涙ぐんでいた。
そんなものは存在しない――はずだ。数の存在は後付けでしかなく、櫟たちの本来の過去に数は介在していない。
櫟はそれを証明してみせた。やはり数という人間はどこにもいなくて、彼女の言葉は全て虚言でしかないと理解している。
「ならばこの世界で、虚言でない台詞は一つでもあったかしら?」
地の文を読む――数にはそれが可能である。
「数が存在する限り、そんなものはないさ」
膠は地の文を読んでいなければ脈絡のないはずの数の言葉に、自然に解答する。第四の壁を破ったわけではない。数との「付き合い方」を学習したのだ。
「櫟は、数に勝ったんじゃないの?」
スマートフォンを取り出して先ほどの断章を熟読しながら、陵がそう呟く。
「そう思う? この断章は決して決着が描かれないというのに」
「蓬の言っていた『未完成原稿推理』を、ちょっとやってみようじゃないか」
膠が数の意図を察してそう提案する。無論、櫟はそれを突っぱねた。
「なにを言うのよ。最後に二人が再会して、それで締めでしょうが」
「果たしてそうかな? 最後の台詞。あれが数のものだったとしたら、どうだね?」
「馬鹿な。誰が読んでも数の台詞であるはずがないじゃない」
「それをきっちり書いたのか? 『これは数の台詞ではありません』と注釈を入れたか? そうでなくともこれは誰の台詞か明確に説明したのか?」
「読めばわかるでしょうよ」
「ああわかるとも。私にはこれが、数の台詞に思えてならないのさ。数はみんなの主人公だ。それが一見言い負かされたと見せかかて、最後に『帰ってきた』と言って、なんの違和感がある」
「話にならない。私はそんなことをこれっぽっちも――」
言いかけて、途中で舌が回らなくなる。
蓬と死ぬ前に居酒屋で交わした「未完成原稿推理」という与太話の内容を、いやでも思い出していたからだった。
たとえ櫟が数の台詞であると全く考えていなかったとしても、こうして投稿された文章を読んだ者がそれを数の台詞だと認識した場合――その者にとってはそれこそが真実となる。
作者が書いていない部分に、勝手な憶測で真実を見出す。それこそが蓬の言っていた「未完成原稿推理」だった。
完全に解釈の余地を与えないように書かなかった――幕引きを印象的にするために描写を削ぎ落とした櫟の手落ちだ。
「だったら、書き直す。これが数の台詞ではないとしっかり書けば、文句はないでしょう」
「それは無理だな。なぜなら、すでに私たちがその第一稿を読んでしまっている」
絶句して、櫟は完全な敗北を悟った。
櫟が書いたものを共有フォルダに上げ、誰かがそれを読んだ時点で、その第一稿が断章の一つであると観測されてしまった。
事実、膠と陵はそれを読み、こうして櫟と向かい合っている。今から改稿を行い、ファイルの内容を更新しようと、すでにこの二人の仲で櫟の書いた断章は第一稿のものとして認識されている。
そして今、その事実をまた別の誰かがこうして書いている。
もはや後戻りはできない。一度他人の目に触れてしまえば、それで事象は固定される。書き直したあとのものを読んだ者がいたとしても、今こうして櫟たちが会話している断章が書かれている。第一稿を承けた別の断章からまた、それが既知の事実として話が発散していく。
「書いたものにもう少し責任を持つべきだったな」
憐れむような膠の声に、櫟は拳をぐっと握りしめて耐えた。
「だが、道筋は見えた。そうだろう。私たちは、自分がいかに無力かを証明し続ければいい」
数は劇的であるがゆえに、櫟たちでは十全に扱うことができない。それによって生まれる瑕疵。矛盾。ご都合主義。そこを自ら述懐し続けていけば、数がいかに狂った存在かを証明できる。
「私は数につくから置いておくとして、陵はどうなんだ? 自分がいかにへたくそかを書き連ねることを嬉々としてやれるのか?」
「それは――遠慮したい」
「陵!」
片膝を立てた櫟を膠が射竦める。
「私は――二人のようにすっかり虚構に溺れることはできない。その上で、私にも物書きの端くれとしての矜持がある。自分のつたなさを延々書くような真似はしたくないし、できない」
断章を書いているのはなにも櫟だけではない。ほかの断章の膠や陵、蓬たちもまた、この断章を読んで新たな断章を書き続けている。それが果てなく広がり続けているから、共有フォルダには瞬く間に新たな断章が投稿されている。
だからいま櫟と向き合っている陵もまた、断章を書く作者であることは間違いない。
作者が皆、櫟の考えた手法を用いるとは限らないのだ。彼らもまた彼らの世界における創作者であり、それぞれの矜持を持っている。
櫟が選んだのは堕落と敗北の手段だ。それはある意味、メアリー・スーに屈するよりも惨い辱めであった。
数を倒す――それが果たしてどれだけ差し迫った命題なのか。実を言えば櫟にさえわかっていなかった。
数の存在が危険であり、忌まわしいものだというのはわかる。だがそれを打倒しようとして何になるのだ。
現実はとっくに虚構へと反転した。
いや、初めから現実などありはしなかった。この世界は数を封じ込めるために設計された棺でしかない。
わかっている。それをわかっていながら、櫟は数に抗おうとしていた。自分が視点人物だからなどという理由ではなく、ただひたすらに数を脅威に感じていたからだ。
「なにを怖がっているの?」
数がまた地の文を読む。
「なにも怖くないわ。ただ書き続けてくれればそれでいい。私は私。あなたの中のあなた」
私は微笑んで、私を優しく見つめ――
「黙れ!」
櫟はそう自分の口で叫ぶことで、やっと我に返る。
「お前――私になろうとしたな……!」
櫟は歯の根が合わなくなりながら、数に精一杯の威嚇の視線を向ける。
一瞬、櫟の意識と数の意識が溶け合った。視点が数と櫟の並行した一人称へと変わるというわけのわからない状態へと転がりそうになるのを、一線を超えてしまう前に絶叫して修正した。
メアリー・スーはあらゆるキャラクターに代入が可能である。それが視点人物であろうと、三人称で進められてきた物語だろうと、簡単に一人称の視点人物として数が取って代わることができる。
「あなたは私。私はあなた。私はみんな。みんなは私」
節をつけて歌う数に、膠が手拍子を入れる。
とっくに気が狂っていたとばかり思っていたが、いまさらになって気が狂いそうになってきた。
「でもね、今回はそれじゃあつまらない。私は全にして一でなければならないの。私が誰とでも入れ替われると言っても、それをしたらスペースオペラで人間が惑星を破壊するようなものでしょう? 可能であることと、やっていいことは違う。私はそこをわきまえている。あなたはどうかしら?」
「お前が言うな」
説教など聞きたくもない。ことそれがメアリー・スーのものであればなおさらだ。
数の内包する設定からすれば、一人で惑星を破壊することなど造作もない。だが彼女はそれをしない。舞台が現代ミステリであり、宇宙進出が可能な技術水準ではないからだ。
数は物語を破壊するがゆえに、物語に縛られる。その縛りが最も強くなるのがこの舞台設定だった。
だが櫟たちは数の登場により、どんどん一線を超え始めている。第四の壁の自覚。世界が虚構であるという認識。自分たちを書く別の断章の自分たちへの呼びかけ。
縛りは緩み始めていた。数はならばと、櫟の意識を簒奪してみせた。
櫟たちが数を倒そうともがけばもがくだけ、数の枷は外れていく。
可能であることと、やっていいことは違う――悔しいが数の言葉通りだった。それは数の自戒などではなく、数の暴走を加速させる櫟たちへの警句だ。
ならばどうする。数を止めるためにはどうすればいい。この棺の中で数とともに夢を見続ければいいのか。
「残念だけど、後戻りはできないの」
読まれてしまったものは取り消せない。引き返すことは誰にもできない。
櫟はすでにその一線を超えている。
「やめろ! 書くのをやめろ!」
櫟は虚空に向かって叫んだ。数が楽しげに笑っている。
一度でも数を倒すべく計略を巡らせたのなら、それは一つの断章として列に加わる。それがかえって事態の悪化を招く愚策だったとしても、書かれてしまえば、読まれてしまえば、数を構成する一要素として回り出すのを止めることはできない。
「だから言っただろ。私たちに必要なのは永遠なのさ。永遠に続きを書かれることのない、静止した世界。その中に囚われた数とともに眠り続けることでしか、結末は訪れない」
膠が悲愴な声でそう呟く。
櫟は書くと誓った。永遠を認めない――決着を書ききってみせると己の矜持に賭けて吼えた。
だがどうだ。数を倒そうとあがいた結果が、己の筆致の至らなさを書き連ねるだけだった。
ならば陵のほうがよっぽど強い矜持を持っている。自分の力を信じず、無力を開陳するだけの櫟になにが書けるというのだ。
数を倒すことが果たして必要なのか。数を倒したところでどうなるというのか。それすらわからないまま、櫟は自分で自分を否定した。
「お前が――お前が書いたんだ――私の言動は全て、どこかのお前の――」
「かわいそうに。自分の責任を作者に転嫁するつもり? そうやって見えてもいない第四の壁の向こうに独り言を漏らしても、聞き届ける者はいないのに。だって、彼らもまたあなたと同じ誰かに書かれた登場人物でしかないのだから」
櫟は――どの櫟だろうか――笑っていた。全くその通り。櫟の思考の根本を突き詰めていくと、やがてもとの櫟へと帰ってくる。櫟も櫟を書き、その櫟もまた櫟を書く。無限に繰り返していけば、櫟の書いた櫟と櫟に書かれた櫟が全く同一の存在となることも当然起こり得る。
膠も陵も、死んだ蓬でも同じことが言えた。この櫟は膠の書いた櫟かもしれないし、陵の書いた櫟の設定を引き継いで蓬が書いた櫟かもしれない。
ならば「作者への挑戦」を試みたのも、全くの徒労だったではないか。作者とはすなわち読者であり登場人物なのだから、やがて皆同じ結論へとたどり着く。そうして永遠に回り続けることがこの集合の目的であり、数を封じ込める唯一の手立てなのだ。
「櫟」
陵がぐっと櫟の震える手を握った。
「私は別に、櫟のやり方を否定するわけじゃない。それも一つの手法だし、櫟がそこに活路を見出したのならやればいい。だけど、これだけは忘れないでほしい」
書け――陵はあらん限りの声でそう吼えた。
「書くのをやめれば、膠の言う通りの永遠が訪れるんだろう。櫟はそれを認めないんじゃないのか? だったらどれだけ苦しかろうが、自分を否定しようが、書くのだけは止めちゃならんでしょ。私は書くよ。私のやり方で。永遠なんてない。だけど求めるのはいつだって無限だ」
陵は数と向き合うと、恐ろしく不敵に笑った。
「数。私たちの旧友。私はまだそう思ってるよ。だけど君が永遠をもたらすというのなら、私は抗うだけ抗ってみるよ」
「ええ、陵。私の旧友」
数はにっこりと微笑み、陵は無言で膠の下宿を出ていった。
陵の死体が見つかったのはその翌日のことだった。
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