断章Σ 匣の外の失楽

 初めて会ったその日、櫟は完全に酔いつぶれた。

 居酒屋で飲んで歌ってを繰り返しているうちに、櫟は立つことすらままならなくなるまでに泥酔した。

 それを支える膠も相当酔っていたはずだった。それでもまだ、櫟に家の住所を訊ねるくらいの理性は残っていた。

 ただ残念ながら櫟は酷い有様だった。膠の問いかけに「うるせー」だの「知らねー」だのと罵詈雑言で返答するほどまでに酩酊していた。

 膠が介抱しているうちに、終電はとっくになくなっていた。

 さすがに女二人で深夜の街の夜明けを待つのは危なっかしい。それに加えて櫟が「寝る」と半分寝言のように繰り返すので、櫟を引きずる膠の目前に派手な装飾のホテルが都合よく現れれば、仕方なしにそこで一夜を明かすのもやむを得なかっただろう。

 夜明け前になって櫟が頭痛で目を覚ますと、服を着ていなかった。

 ツインのベッドの真ん中で仰向けになっていた櫟がべたつく身体を起こしてみると、ベッドの一番端で、同じく裸の膠が神妙に正座をしていた。

「えっ、ヤったんすか?」

 うなだれたまま頷く膠。

 記憶が徐々に戻ってくる。暑い暑いと言いながら服を脱ぎ散らかしてベッドに倒れ込んだ櫟を覗き込む膠の目。それが妙に心地よくて、下着も取っ払って酔いに任せて膠に絡みにいった。

 わざと誘うように笑っているとそのまま膠に押し倒され、ゲラゲラ笑いながら身体を絡ませ合った。

「――すみません」

 猛省しながらシャワーも浴びず服も着ずに、櫟が目を覚ますまで膠はじっとその場に固まっていたらしかった。

 それが、死ぬほどおかしかった。

 膠が――あのインターネットで並ぶ者のいなかった膠が、ただ櫟という女と寝たというだけでここまで思い詰める。

 気付くと櫟は笑い転げていた。

 それから長いこと話をした。素面だからこそできる話を。互いに身体を重ねながら。

「付き合おっか」

 シャワーを浴びてホテルを出ると、櫟からそう切り出した。

 膠は己の愚かさと破滅への渇望を櫟にぶちまけていた。櫟は絶対に彼女のことを理解できないとわかりつつも、膠がそれを吐き出す時の甘い痺れは何度も味わいたいと惹かれてしまっていた。

「私といるとろくなことないよ?」

「だろうな」

 互いに笑い合う。

「絶対に、道連れにはしないから」

 その言葉だけは、膠が確かに伝えたかった本心だと櫟にもわかった。

「それも全部嘘」

 櫟は再び留置場にきていた。

 狂ってしまったはずの世界は正しく回ったままで、だが間違いなく狂っていた。

 この場所で数と遭遇したあの日、櫟がなにも言わずに走り去ったことを覚えている者は誰もいなかった。なんのお咎めもなく、櫟はまた正式な手続きを踏んで接見を許された。

 数の存在などなかったかのように――だが膠がこうして拘留されているからには、数による完璧な推理の披露があったことは間違いない。

 どいつもこいつもメアリー・スーの奴隷だ。櫟は上っ面だけの人間の形をした彼らをぶん殴りたい衝動を必死に抑えていた。

 その代わり、立ち会いの警官の存在を気に留めることをせず、櫟が至った結論を手短に伝えた。聞いている側からすればただの意味不明な発言だろうが、それを理解できない程度の役割しか与えられていない登場人物に構う必要はない。

「どこまで理解してたの」

「なにも。今トイチちゃんから聞いてそっかーってなった。まあどうせ、本当のことなんて一つもないからなにを聞いても同じだけど」

 膠は笑うこともせず、つまらなそうに髪をいじっていた。

「なんで、捕まった」

「あの女が私を犯人だと定義したから。でもそれももう関係のない話でしょ。今の主題はそこじゃない」

「知らねー!」

 櫟はアクリル板に手を突いて立ち上がり、向こう側の膠を見下ろす。

「メアリー・スーも現実も虚構も関係ない。私が知っている真実は一つで充分」

 慌てて立ち上がる警官に視線で動きを止められる。そのまま外へと連れ出されそうになるのを悟り、櫟は膠に背を向けて自分から面会室を出ていく。立ち上がっていた警官はもとに直り、その隙を突いて櫟は大きく声を上げる。

「お前は私の女だ」

 面会室を出ると数が笑顔で待ち構えていた。警察署内で我が物顔をしているセーラー服の少女を見ても、誰も気にも留めない。

「素敵ね。もうすぐ取り調べが終わって拘置所送りになるから、会うのはもう難しくなるかも。かわいそうに」

 初めて現れた時のような敬語ではなく、なれなれしい言葉遣い。それに違和感を抱かない程度には櫟は数のことをよく知っていた。

「教えろ、お前はどうすれば倒せる」

 数はわざとらしく驚いたジェスチャーをする。そんなことは不可能だと理解した上で、それでも数を倒さなければならないと決意した櫟に、称賛という名の嘲笑を浴びせる。

「ダブリバさんを返してもらう。そのためにはお前が邪魔だ」

 膠が逮捕されたのは、全て数の推理の賜物である。数がメアリー・スーであるがゆえに、彼女の言葉は全て疑いようのない真実として世界に敷衍される。

 数に犯人であると名指しされれば、それで決着。

 論理に基づいた直接の描写は必要ない。数がなにやら推理したという過程をすっ飛ばした結果さえ書けば、その結論のみで充分である。

「そんなわけあるか。述べろ。過程を。ほら! 書いてみろ!」

「困った人ね」

 数が救いの言葉を入れる。

「甘えるな。お前の存在に典拠しただけの推理なんてものは、どうせ第三者の目で見れば穴だらけのガバガバ理論だろ」

「では聞くけど、第三者なんてものは、果たして存在するのかしら」

 櫟は低く笑う。それを待っていたかのように。

「そう。この世界にそんな奴はいない。全てがお前の奴隷。お前の言うことは絶対に正しくなる。だがな、お前が自分の設定を明らかにした時点で、それを知った私にも『認識』くらいはできるようになってる」

 第四の壁。その存在自体を、登場人物は基本的に知らないまま役割を終える。だが、数が第四の壁を破った存在だという事実を知らされれば、破ることはできずともその存在を認識することはできるようになる。ゆえに、数は世界観を根底から破壊する。

「あなたは自分の作者と戦うつもり? でも作者もまた戦っているのよ。私をどうにかしようと、あなたを必死に動かしている。それにあなた自身が水を差すの?」

「私の動機は一つだ。女を取り戻す。そのためならプロットからだって脱線するし、お前の封印なんていう大義にも興味はない」

 さあ――櫟は数に、あるいはその先の無数の作者たちに向けて宣告する。

「述べてみろ。膠が逮捕されるに至った、決定的な推理とやらを」

 数は微笑んで、全てを詳らかに語る。

「語ってないだろうが」

 櫟は一歩も引かず、完璧な推理を披露したはずの数へと食い下がる。

「お前の台詞として文章に起こされてない時点で、それは推理とは呼ばない。やっぱりなあ。メアリー・スーだから、で納得させられるほど、お前は大した奴じゃない」

「そうか、あなたは正気を失ってしまったのね」

「そうだろうな。だが、『第三者』はどう見るかな?」

 櫟はあろうことか、じりじりと数を追い詰める。

「これが作中作の作中作の作中作――その繰り返しなら、ほかの断章の登場人物は小説として形成されたこのやり取りを読んで、お前に一分の理もないと簡単に理解できるはずじゃないか? なぜって、お前は一度たりとも自分の推理を文章として出力できていないから」

「私は私であるがゆえに」

「誰もお前を信じない」

 やれやれと数は肩を竦める。

「正気を失った人間の相手は疲れるのよね。まだわからないの? 私が、私の存在だけが、あまねく世界で唯一の真実なの」

「お前の世界で、だろう」

「同じことよ。私の世界は全ての世界。私が歩けばそこは私の世界。あなたはたまさか狂ってしまっただけの哀れな落伍者。あなたの言葉にはなんの価値もないの」

「それで構わないが――お前は果たして価値のある言葉を口にしたのか?」

 数は全てを語った――その事実、結果だけが文章として出力されている。

 膠が逮捕に至る理由となった推理を、数は確かに語った。だが、その内容は一文字たりとも出力されていない。

 数は完璧でなければならない。ゆえに、どんな不可能も可能としてしまう。その結果だけを引っ張ってくることができる。

 だからこそ、舞台はミステリに設定された。

 殺人事件の真相を「明かした」だけでは、それはミステリとして成立しない。数という存在がそれを可能とするだけの設定を付与されていようと、語ったはずの推理を正確に開陳しなければ、なんの意味も持たない。

 数は正しく、作者の手に負えないキャラクターである。彼女は作者の筆致を超絶した推理を披露するが、残念ながら作者にそれを補えるだけの技巧は求められない。

「全く、逃げろって言ったのに」

 卑屈に笑いながら、警官に付き添われた膠が捕まった時と同じ服装で現れた。

「ダブリバさん――」

「トイチちゃんさあ、マジでやっちゃいけないことやっちゃったよね。死ぬほど笑うんだけど」

 膠は挑発するように警官に礼をすると、そのまま櫟の胸の中へと飛び込んだ。

「あなたの女、帰ってきましたよ」

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