試し読み その2

 昼過ぎと言われていたルトヴィアス王子のとうちやくを待って、国境ではだんが隊列を組んで並んでいる。

 アデラインたち貴族は、そこより少しはなれて、それぞれけのおおがさの下で休んでいた。

 日差しはやや強いが、風が出てきたので過ごしやすい。

「少しおくれているな」

 アデラインのとなりで、父のファニアスがかいちゆうけいかくにんしながら、小さくつぶやいた。アデラインは父を見上げた。

「お父様、おすわりになったらいかがです? やっと正午を回ったところですもの。お昼過ぎというのは目安でしょう?」

「それはそうだが……」

 ファニアスは懐中時計を上衣の内側にしまったが、またすぐに出して時間を確認する。そわそわとアデラインの周りを歩き回り、実に落ち着きがない。騎士団の旗がバタバタと音をたててたなびいている。アデラインはぼうが飛ばされないように、そっと手で押さえた。

(このまま風があらしを呼ばないかしら)

 そうすればきっと王子の到着は遅れるだろう。おうじようぎわが悪いとは自覚しつつも、王子との対面がゆううつで仕方ないのだ。

 そんなアデラインの周りには多くの貴族がひしめきあっていた。若い女性が目立つのは、ルトヴィアス王子の目にとまることを期待して、多くの貴族がむすめどうはんしたからだろう。

 名のある貴族の多くは自らの娘をルトヴィアス王子の側室にと、宝石をみがくように野望を育てている。アデラインごときでは、けつこんしたところでルトヴィアス王子を満足させられはしないだろうというのが、大方の貴族達の考えだ。

 アデラインにしても、その考えはまったくだと思う。ルトヴィアス王子はきっとすぐに美しい側室をむかえるだろう。アデラインにそれをとやかく言う権利はない。

 その時、強い横風がいて、あちこちで小さな悲鳴が上がった。

「花帽が!」

 アデラインが気づいた時には、ミレーがハーブをいつけてくれた花帽は天高くがっていた。アデラインの他にも、いくにんかが持ち物を飛ばされたり、日除けの大傘がたおれたりしてあわてているところもある。

 アデラインの花帽は、その大傘が倒れた向こうにえがいて落ちていく。アデラインはそのゆくを目で追いかけながら、から立ち上がった。

 ファニアスが娘をかえる。

「アデライン?」

「花帽を取ってきます」

だれかに行かせなさい」

だいじようよ、すぐそこだもの」

 じゆうを呼ぼうとするファニアスにかまわず、アデラインは花帽を追いかけた。

 いったい花帽はどこまで飛ばされたのか。

 少し身をかがませ探していると、くすくすと小さな笑い声が聞こえた。

「ねえ、アデライン様よ。いつくばって何してらっしゃるのかしら」

「王子殿でんをおむかえするっていうのに、相変わらずしんくさよそおいよね」

じよでももう少しまともなドレスを着るわ」

 振り返ると、りのたてじま模様のあざやかなドレスに身を包んだれいじようが数人、少し離れたところに固まっていた。アデラインと目が合っても、悪びれるりさえせずに意地悪く笑っているかのじよたちは、いずれも名家の令嬢で、はなやかで美しい。

 きっと王子の側室に選ばれるのは彼女達のような娘だろう。

 彼女達は、元はアデラインの親しい『友人』だった。いや、友人と思っていたのはアデラインの方だけだったのだろう。彼女達は、ただ自家のはんえいのため、または自らのりようえんのために、内心ではアデラインを見下し鹿にしながらも、友人のふりをしていただけだったのだ。アデラインに友情を感じて親しくしてくれたわけでは、決してない。

 そして、たとえ未来のおうであっても、夫たる王子に捨てられかけるようであっては、『お友達』を装ったところで何の得にもなるまいと、アデラインを見限ったのだ。そんなことだとは思いもよらず、彼女達を友人だと信じ、そして彼女達が離れていったことに傷つく自分の何とおろかしいことか……。

「見て。花帽を飛ばされたみたいよ。ずかしい」

「あのかみがた。まるで田舎いなか娘よ」

 アデラインは顔をせると、足早にちようしようからした。

 名家の令嬢なら、宝石を縫いつけたり金でふちったりと花帽にしようをこらすので、花帽は重く、風に飛ばされるなどまずあり得ない。花帽を風に飛ばされるということは、花帽が軽い、つまり花帽をかざてる財力がないということでもあり、そういう意味でも女性にとっては恥ずかしいことなのだ。もちろん、マルセリオ家には十分な財力がある。問題はアデラインの方だ。

 あまったるいこうすいにおいがしないほどに離れてから、アデラインはほっと息をつく。

 そして自らの姿を見下ろした。

『侍女でももう少しまともなドレスを着るわ』

 確かに、いろのドレスは地味を通り越して、もはや年寄り臭い。ドレスと同じで仕立てた花帽も、しゆうかざりもなく、もはや『花帽』とは呼べないほど華やかさに欠けている。

(田舎娘、か)

 田舎娘にも失礼かもしれない。

(でも、私はこれでいいの)

 アデラインがうつむくと、頭の後ろで一つに編んで垂らしただけのくりいろかみれた。せっかく美しい髪なのだからとミレーはかざりつけたがるが、アデラインは決してそれを許さない。

 女性は結婚すると花帽にたれぬのをつけ、髪を花帽の中にげるのがならわしだ。そのため、凝った髪形を楽しめるのはこんの若い娘だけの特権であり、他家の令嬢はドレスや花帽以上に髪形に力を入れていた。みこんだり、こうを使って髪を波立たせ、しんじゆや花を散らしたり。

 アデラインも、以前はそうしていた。つやのある栗色の髪を、アデラインは自分の容姿の中で一番、そしてゆいいつ気に入っていたのだ。けれど『宝のぐされだ』とささやかれるのを聞いて以来、アデラインにとって美しい髪は地味な顔と同じくらいうとましいものになってしまった。

 装うことをいつさいしなくなった娘に、父のファニアスはいつもためいきをつく。

 ファニアスの言いたいことはわかっている。マルセリオ家と王家のけんを示すためにも、アデラインはそれなりの装いをしなければならない。

(でも、だもの……)

 昔は、アデラインもいた。権威はともかく、ルトヴィアス王子に少しでもいたいと、流行のデザインを取り入れたり、髪のために香油を取り寄せたり、あれこれとしたものだ。けれど、もともとそういったセンスにとぼしかったのだろう。さいせんたんのドレスを着てもどこかいて見え、髪形もれば凝るほど顔の地味さを強調してしまった。

 そしてそこへルトヴィアス王子とのこんやく解消そうどう。周囲の態度が変わり、そしてアデラインも変わった。

 鏡から、自分から、現実から目をそむけた。

 どんなにかざったところで、アデラインの地味な顔が美しくなるわけでもない。必死に着飾ったところで、今度はきっと『悪足搔き』とわらわれるに決まっている。

 地味でいい。目立たなくていい。いっそ侍女のドレスを着てしまえば令嬢達に見つかることもないかもしれない。

 とにかく目立たないこと。それが、アデラインが自分を守るただ一つの方法だった。

 背後で騎士団のラッパが高らかに鳴った。

 人々がざわついて、次々と椅子から立ち上がる。ルトヴィアス王子が到着したのだ。

 アデラインは青ざめた。何て間が悪いのだろう。

 アデラインは慌てて花帽を探した。落ちたと目算した場所の近くのしげみに、それを見つけて拾うと、大急ぎで父親のもとにもどろうとする。しかし移動を始めた人々にはばまれ、なかなか前に進めない。無理矢理進むこともできず、人混みの間をうようにして、ようやく王子が乗っているらしい馬車が見える所までたどり着いた。

 馬車を護衛していたらしい皇国の騎士達は、既に馬を下りて整列している。

 本来なら馬車から降りる王子を、さいしようである父の隣で一番に出迎えるべきであるのに、アデラインにはこれ以上進むことは不可能だった。アデラインは、がっくりとかたを落とす。

(どうしよう……お父様におしかりを受けるわ)

 まさか帰国した王子を出迎えそこねるとは。何て失態をおかしてしまったのだろう。

 きゆうていではまた色々とうわさされるだろうし、何よりルトヴィアス王子は、出迎えなかった婚約者をきっと不快に思うだろう。

(ただでさえ疎まれているかもしれないのに、その上出迎えさえしない無礼な女と思われたら……)

 花帽ではなく、アデライン自身が空の彼方かなたに飛んでいきたい気分だ。見えない風を、アデラインはうらみがましくにらみつけた。

けんささげよ!」

 ルードサクシードの騎士団長のかけ声と同時に、ルードサクシードの騎士のみならず、皇国の騎士達もいつせいに剣を地に立て、ぐんを鳴らしてひざまずいた。

 それを合図にしたように、ひとがきが前方から波が広がるように次々と折れて、頭を垂れる。

 アデラインも観念して、その場でひざを折った。

 ガチャリ、とぎよしやが馬車のとびらを開ける。静まり返った場で、馬車のだいを降りるくつおとだけがひびいた。

 靴音は迷うことなく歩を進め、国境を、える。

 父のファニアスの声が聞こえた。場が静かなせいか、だいぶ離れているのにおかえりなさいませ、と言っているのがわかる。そして……。


「留守中苦労をかけました」


 落ち着いた、低い、成人男性の声。

 アデラインはふるえた。

 アデラインが知るルトヴィアス王子の声は、高い、少女のような声だった。いまさらながら、ルトヴィアス王子にもアデラインと同じく十年という年月が流れたのだと実感する。

「出迎え、礼を言います。どうぞ立ってください」

 許され、人々は立ち上がる。首を上げ、帰国した未来の主君をあおて、───息をのんだ。

 王子の母親は、ルードサクシードの宝石とうたわれた。大陸で最も美しい王妃だ、と人々はそのぼうを賞賛し、かのじよが産んだただ一人の王子も、母によく似た美しい顔を、幼いころからたたえられた。

 そして、十年の時を経て、王子は故国に帰ってきた。あまりにも美しい青年となって。

 母からいだたんせいな顔立ちはそのままに、成人男性らしいたくましさと若々しさをそなえて、その美しさはそうぜつですらあった。

 強い風にせいへきしよくがいとうひるがえる様が、あまりに美しく、しい。

 アデラインは、体の前で両手を組み合わせ、痛いほどにぎめた。

 呼吸が止まりそうな感覚には覚えがある。つまさきから全身にけるしびれ。それらがアデラインの胸をたたくのを、アデラインは俯くことで必死に無視した。

 ルトヴィアス王子は、皇国の責任者と言葉をわしているようだった。この後ルードサクシード王家専用の馬車へりこみ、今夜の宿しゆくはくさきであるしきに移動する予定だ。アデラインが数日前からまっている屋敷である。

 しかし、いっこうに馬車が動き出す気配がない。何か不備でもあったのだろうかと、おそるおそる、アデラインはうかがった。ルトヴィアス王子は周囲を少し見回して、それからアデラインの父のファニアスに何かたずねている。何を話しているのかは、アデラインにはまったく聞こえない。

 ファニアスとの会話が終わると、ルトヴィアス王子は今度は人々の顔をわたし始めた。

 誰かを探している様子だ。いったい誰を探しているのだろう。

 ルトヴィアス王子の目が、順々に出迎えの人々を確認する。そしてついにアデラインの顔を見ると、その表情が少し揺れた。

(……え?)

 アデラインは息をのんだ。

(まさか私を探しているなんて……それとも私の後ろに誰かいるの?)

 ねんのためアデラインは背後の人物を確認したが、そこにいたのは、宰相ほどのねんれいのどこかの家の侍従であるようだ。ルトヴィアス王子と面識があるとは思えない。

(本当に私を探していたの?)

 十年前に一度会っただけのアデラインの顔を、ルトヴィアス王子が覚えているとは思えなかった。けれどルトヴィアス王子は歩を進めている───アデラインに向かって。

 王子が誰を探し、そして見つけたのか興味をもった人々が、王子に道を空けながら、その先にアデラインを見つけて意外そうな顔をする。けれど一番おどろいているのはアデライン本人だ。

 王子が自分のもとへ歩いてくる。誰かとちがっているのだとしても、長いまつに縁取られた宝石のような翡翠色のひとみが、今このしゆんかん、アデラインの小さな黒い目をまっすぐにとらえていることには間違いない。

 人々の注目が集まる。

 逃げ出したいのに、足は震えていうことをきかない。

 、王子が自らのもとへ来るのかアデラインにはさっぱりわからなかった。

 親が決めた、政略的な婚約者だ。こいのために、一度は捨てようとした女だ。それでも、まがりなりにも婚約者であるアデラインをづかってくれるのだろうか。

 そうだとしても、アデラインはまどわずにはいられない。

「アデライン……ですよね? 久しぶりですね」

 確かめるように、ルトヴィアス王子はアデラインの名を呼んだ。そして黄金比に整った美しい顔を、やわらかくほころばす。

 初めて会った日も、十さいの王子はこんなふうに、アデラインの名を呼んだ。そして八歳のアデラインは返事どころか、まばたきさえできなかったのだ。今のアデラインと同じように。

 ほおを、スルリとなみだが流れた。

「……アデライン?」

 ルトヴィアス王子はこんわくし、アデラインの顔をのぞきこんだ。

「泣いているんですか?」

 アデラインの瞳から、涙が後から後からあふれ、こぼれた。

 名前を呼ばれた。ただそれだけのことが、どうしようもなくうれしい。

 どんな顔で出迎えればいいのかと、なやんでちこんで、できれば逃げ出したいとまで思っていたのに。

 立場や、きようや、そんなものをすべてぎ落としてしまえば、残るのはじゆんすいだけだった。

 ルードサクシード宮廷の主だった貴族の面々がすくむなかで、ルトヴィアス王子に恋をする十七歳の少女が、ただそこで、再会のかんに泣いていた。


「───私のこんやくしやは、私の帰りを泣くほど喜んでくれているようです」

 自分に向けられたものにしては、やや不自然な言い回しであるその言葉に、アデラインは自分が置かれたじようきようをやっと思い出した。

 留学から帰った王子をむかえる貴族の面々とその従者たち。そしてそれを見物しに来た付近に住む多くの住民。そのすべての注目が、今アデラインとルトヴィアス王子に注がれている。ルトヴィアスの言葉は、かれらに向けて言われたものなのだ。

 再会の喜びも、なみだも、一気に吹っ飛んだ。

「あ……あの……」

 状況をどうしゆうしゆうしたらいいかわからず、アデラインはあわてふためいた。

 人目もはばからず泣くなど、王子殿でんの前で何というしゆうたいさらしてしまったのだろう。

(だ、だって……)

 混乱するアデラインはだれにともなく言い訳をする。

(まさか殿下がこんなにやさしく笑いかけてくれるなんて、夢にも思わなかったんだもの!)

 だから思わず泣いてしまったが、泣いているむすめあつかいにさぞかし王子はりよしていることだろう。しかも、きようしんしんの衆人かんに晒されて不快に思っているにちがいない。

「もっ……申し訳ございません。わ、私、きゃっ」

 ぶわっと、体ががる感覚。

 どこからともなく、若い婦人の黄色い声が交差した。

「……え」

 視線の高さがいつもと違うのはだろう。

「マルセリオ、アデラインは私の馬車に乗せますが、かまいませんね?」

 かがやくようなほほみが、アデラインが見上げるすぐそこにあるのは何故だろう。

 アデラインは今度こそ、状況があくできない。

 ルトヴィアス王子の背後にひかえるように立っていた父のファニアスのほおを、異常な量のあせしたたちていた。

「し、しかし殿下のお手をわずらわせては……」

「心配は無用です。アデラインはちようのように軽いですから」

 アデラインはようやく自らの置かれた状況を理解した。

「で、殿下っ!」

 思わずうわった声を上げる。

「殿下! わ、私歩けます! 歩きます!」

 けれどその体はルトヴィアス王子のりよううでかかげられたまま移動している。

「殿下っ! 私……!」

「じっとして、つかまっていなさい」

 耳元でささやかれた美声に、アデラインはしゆんふつとうする。

 王子はアデラインを下ろすつもりはないようだった。

 ごういんに下りることもできず、かと言って、言われるがままに、王子の首に手を回すこともできず、アデラインは不自然に固まったまま王子にうんぱんされる。

 まっすぐ前をえて歩く王子の、その横顔がまぶしすぎて直視できない。

(私、きっとりんより赤い顔をしているわ)

 自らの顔を、アデラインは持っていた小さなぶくろで必死にかくした。

(ああ! 口から心臓が飛び出しそう!)

 ぎよしやが、うやうやしく頭を垂れて馬車のとびらを開けた。王子は長身をかがめるとようやくアデラインを地に下ろし、その手をとって背後をかえった。

「では王宮で」

 ルトヴィアス王子は出迎えた人々におだやかに微笑むときびすかえし、手でアデラインに先に馬車に乗るよううながした。きよなどできるわけもなく、アデラインは見守る衆人からげるように馬車にりこむ。次いでルトヴィアス王子が乗りこみ、扉が閉まった。そうして、ややあってから馬車はゆっくり動き出す。

 衆人のえんりよな視線から解放され、ほっとしたのもつか、ルトヴィアス王子と二人きりのせまい空間である。アデラインの紅潮していた顔は、一転して青ざめた。

 ガタガタれる車内で、向かいあってすわったまま、王子は何も話さない。アデラインに、王子の表情をうかがう勇気の持ち合わせがあるはずもなく、顔さえ上げられず、体はこうちよくして、まったく予想していなかった状況におそれおののくばかりだ。

 うつむいたまま、アデラインはオロオロと考えをめぐらす。

(わ、私……あんなふうに泣くなんて)

 公衆の面前で泣くなど、公人としてはあり得ない。アデラインはやがておうになる身として、とんでもない失敗をした。そしてそのしりぬぐいを、王子にさせてしまったのだ。

 王子は無言で、どう考えてもじようげんではない。きっとアデラインをめんどうな娘と思っただろう。

あやまらなきゃ! で、でも何から謝れば……)

 混乱状態のアデラインの脳みそは、もはや収拾がつかなくなっていた。

 泣いてしまったことから謝ろうか。それとも貴重な労力を使わせたことからの方がいいだろうか。

「アデライン」

 そもそも自分などが婚約者でよかったのだろうか。けれどそれはアデラインが生まれる前に前王とさいしようである父との間で決められたことだ。

「アデライン?」

 むしろ生まれてきたことを謝罪すべきなのかもしれない。生まれてきて申し訳……。


おれを無視するとはいい度胸だな、お前」


 暴走した思考が、ピタリとまる。

 今の声は、誰の声だろう。この馬車に乗っているのはアデラインとルトヴィアス王子の二人。アデラインでないなら、ルトヴィアス王子の声だということになるが、聞こえてきた声は穏やかで品行方正なルトヴィアス王子のものとはおおよそ思えないものだ。冷たく、するどい、まるでやいばのような……。

 気のせいだったのだろうか。

 アデラインはおそるおそる、目線を上げる。

 正面に座すルトヴィアス王子は、長い足を組み、静かな表情で窓の外をながめていた。それがまた何とも絵画のように美しくて、アデラインはまたぽぉっとれてしまう。しかし次のしゆんかん……。

「あんな場所で泣く気がしれない。お前、王族になる自覚が足りないんじゃないのか?」

 気のせいでは、ない。言葉のはしばしとげとげしさを感じる言い回しは、ひどれいてつだ。しかしそれらはすべて、目の前のルトヴィアス王子の整ったくちびるから発せられている。

 アデラインは目を皿のように丸くした。こおりついた思考は、なかなか回復しない。しかし異常事態はさらに進行する。

 ルトヴィアス王子はげんそうにわしゃわしゃとまえがみみだすと、まぁいい、とボソッとひとちた。

「あそこまですれば、おれたちの不仲説もぶだろうし」

 まどわくひじをつき、王子はようやくアデラインと目を合わせた。

わざわい転じてってやつか」

 ニヤリと笑ったその顔は野性味があふれ、馬車に乗る前のあの神聖な微笑みがたたえられた顔と同じとは、とうてい思えない。

(どういうこと?)

 アデラインの頭の中はほうかい寸前だった。

 優しくて、穏やかな、アデラインがこいする『王子様』はどこへ行ったのだ。

 アデラインが気づかぬ間に、王子は誰かとわったのだろうか。何かものの類が乗り移ったのかもしれない。それとも……。

「……あの」

 おずおずと、アデラインはたずねてみた。

「何だ?」

 ルトヴィアス王子は肘をついたまま、聞き返してきた。

 アデラインは、ゆっくり言葉をしぼす。

「長旅で……おつかれで……熱とか……」

「熱? あるように見えるか?」

 まゆをひそめたルトヴィアス王子は、組んでいた足を解くと、片方をへ持ち上げる。その様子は、アデラインの十八年近い人生で出会った誰よりもざつで、あらあらしい。

 目の前の人物はいったい誰だ。アデラインは開いた口がふさがらない。目はまばたきという機能を忘れてしまった。

「何だ? その顔」

 ぷっ、とルトヴィアス王子がす。

「ああ、そうか。さっきのな。さっきのアレ。アレはねこだから」

「…ね、猫?」

「そう。猫」

 クックッと、それは楽しそうに、ルトヴィアス王子は笑った。

 その王子のひざの上に、白くて長い立派な毛並みをほこるように、緑のひとみの猫が上品に丸まった。

(え!?)

 慌てて見返すも、猫はいない。

まぼろし……?)

 アデラインはいよいよ自分の頭が心配になってきた。目の前の王子のへんぼうもアデラインの見る幻なのだろうか。

 けれど、何度まばたきをしても、どこか気だるげな様子のルトヴィアス王子の姿は消えなかった。信じたくないが、アデラインの前に座っているのは現実の王子らしい。

「……ずっと……猫をかぶって、いらっしゃったのですか?」

「残念だったな」

 何が、と尋ねるより早く、王子の手がびて、アデラインのあごを乱暴に引き寄せる。痛みにアデラインは顔をしかめたが、彼の手はゆるまない。

 息づかいがわかるほど近くに寄ったルトヴィアス王子の顔はやはり美しく、けれどその微笑みはてつくほど冷たかった。

「で、んか……?」

「俺のちょっとばかりれいな見てくれから、さぞやご立派な聖人君子だろうと夢をふくらませてたか?」

「そんな……」

 否定しかけて、アデラインは口をつぐんだ。

 否定はできない。幼い日から十年。神話の中から出てきたようなそれは美しい王子にこいがれ続けた日々。才気かんぱつ、優美こうみようてんに乗る姿は、まさに神代の聖サクシードの再来だと王子をめそやす周囲の言うことを、アデラインは真に受けて期待を膨らませてきた。

「だが現実はこれだ。ざまあみろ」

 ルトヴィアス王子の唇がゆがみ、アデラインをあざける。

 そのそうぜつな美しさ。

 あくだ、とアデラインは思った。人間をまどわし、らくさせ、それを見て高笑いする恐ろしい悪魔。

 ルトヴィアス王子はばすようにして、アデラインから手をはなした。

 狭い馬車の中、アデラインは背中を軽く打ちつける。

 骨がくだけた、と思った。

 痛かったからではない。アデラインの中で、何かが粉々に割れるような、そんな感覚がしたのだ。そして全身から力がけていく。

 理想を絵にしたようなかんぺきな王子。それがすべてきよぞうだとも知らず心を寄せていたなんて……。

 ぼうぜんとするアデラインが顔を上げると、氷の微笑みはせ、そのみどりの瞳はごうのように燃え上がっていた。まるでにくしみのように激しい感情のうずに、アデラインはふるがる。

「お前を見ているとむしが走る」

 けんかんを鋭くまとった言葉が、アデラインの胸をつらぬいた。心から、ドロリと血が流れる。

 ルトヴィアス王子はそれを見届けると、座席に座り直し、まるでアデラインなど忘れてしまったかのように、また窓の外を眺め始めた。

 その横顔は冬の湖のように静かで、ごくの業火のへんりんさえもない。

 悪い夢でも見たのだと、アデラインはさつかくしてしまいそうだった。

(これもしつれんと言うのかしら?)

 いや、失恋なら三年前にすでに味わった。今粉々に砕かれたのはその残骸なのかもしれない。

 涙さえも出ない。

 王室専用のごうな馬車の車内は、まるで世界の終末をむかえたように静まり返った。

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王子殿下の飼い猫はすこぶる毛並みが良いらしい 七期/ビーズログ文庫 @bslog

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